エピローグ
◇
聖域の教会の扉の外には、もはや世界など存在しないのかもしれない。
そう思うほど、今の私たちを包む静寂は濃密で、そして甘美だった。
私は、自分の指先を見つめた。
胸元に刻まれたペンステモンの紋章は、ソロン様の愛の深さと共に、より深く、黒い魔力を湛えて脈動している。けれど、私の手の中で咲き誇っているのは、ソロン様が毎日毎日、欠かさず摘んできてくれる色鮮やかなスターチスだった。
(……枯れることのない、永遠の花。)
指先から魔族としての変容が始まる。爪先は鋭く黒く染まり、背中には未成熟ながらも漆黒の翼が芽生え始めていた。
「……クラリス。また、その花に見とれているのか?」
背後から、低く甘い声が降ってくる。
ソロン様は、かつてのように聖者の微笑みを浮かべることはない。今はただ、獲物を永遠の檻に閉じ込めた捕食者のような、満足げで、それでいて飢えた瞳で私を見つめている。
私は彼の方へ振り返った。
その瞳に映るソロン様は、いつだって狂おしいほど私を欲しがっている。
「ええ。このスターチスのように、私もあなたの一部になりたいと思って」
私が微笑むと、ソロン様は喉を鳴らして笑い、私の頬を指先でなぞった。目の下には、魔族特有の妖艶な影が、薄っすらと落ちている。
彼は私の髪に、手折ったばかりのスターチスを挿した。
その花は、魔界の瘴気を浴びてもなお、鮮やかな色彩を失わない。
「知っているか、クラリス」
ソロン様は私の耳元で、甘く、冷徹な声で囁く。
「この花の花言葉は『永遠に変わらぬ心』。……どれだけ時が流れても、どれだけクラリスが魔族として姿形が変質しようとも、俺のクラリスに対する執着は決して色褪せない」
彼は私の胸元に刻まれたペンステモンの紋章を愛おしそうになぞり、続けて言った。
「そして、『途絶えぬ記憶』。……天界での薄っぺらな幸福など忘れてしまえ。俺の愛に犯され、俺の瘴気に溺れた記憶だけを、貴様の魂に永遠に刻み込んでやる」
私はソロン様の瞳を見つめた。そこには、数年前にはなかった、世界を敵に回しても揺らがない強固な「永遠」が宿っている。
変わらないのは、彼の執着。
途絶えないのは、彼からの愛の拷問。
私は彼に抱きついた。背中の黒い翼が、彼と重なるように広がる。
「ええ、ソロン様……。私の心も、もう二度と変わりません。……あなたの檻の中で、永遠に枯れないあなたの聖女として、ここにいます」
窓の外では、魔界の空が私たちの愛を祝福するように、禍々しく紫に発光している。
スターチスが色褪せない限り、二人の愛も、この地獄の箱庭も、決して終わりを迎えることはない。
「そうだ。貴様はもう、天界の聖女でも人間界のシスターでもない。俺の瘴気を吸い、俺の愛を飲み干して変質した――俺だけの、魔性の聖女だ」
彼は私を抱き寄せ、唇を重ねる。
そのキスは、私の魂を彼の魔力で塗り潰し、ペンステモンの紋章と共鳴させる。
私が彼の一部になる。彼が私の一部になる。
二人の愛が魔界の法則をねじ曲げ、この教会の庭を永遠の楽園へと創り変えていく。
「……ソロン様。ねえ、外の世界は、どうなりましたか?」
問いかけると、彼は耳元で愉悦を含んだ声を漏らした。
「そんなもの、どうでもいい。……俺たちに必要なのは、この庭と、この色褪せぬスターチス、そして何より――貴様だけだ。永遠に続く、俺たちだけの檻だ」
彼がそう囁くと、教会の庭中に咲き誇るスターチスが一斉に鮮やかな色彩を放ち、私たちの愛を祝福した。
神様、さようなら。
私は今、この世界で一番幸せな、魔族の聖女です。
外では黒い雨が降り続いていたけれど、私の耳にはもう、彼の心臓の音しか聞こえていなかった。
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