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◇
天界の宮殿――『光の聖域』。
クラリスが攫われた先は、完璧で、静かで、そして息が詰まるほどに眩しい場所だった。
攫ってきた2人の天使は無愛想な青年はラファエルと、青い瞳の天使はミカエルと名乗った。
雲の上に築かれたその場所には、泥の匂いも、埃っぽい教会の空気も、ソロン様の淹れるスープの湯気もない。ただ、永遠に続く白亜の廊下と、神々しい讃美歌だけが響いている。
「クラリス。今日は機嫌が良いようだ」
柔らかな声と共に、私の肩に置かれた手があった。振り返ると、そこにはラファエル様が立っていた。
彼は以前よりも少しだけその瞳に冷たい光を宿し、私の髪を慈しむように梳く。その指先が触れるたび、私の胸の奥に刻まれていたはずのペンステモンの紋章が、じりじりと熱を帯びて薄れていくような感覚に襲われた。
「ラファエル様……。あの、昨日のことなのですが」
私は、喉に詰まった言葉を吐き出した。
昨晩、夢を見た。薄暗い教会で、誰かに名前を呼ばれ、温かい手で頭を撫でられる夢。その人は、とても大切そうに私を見ていたのに、顔が思い出せない。
「昨日? ああ、二人で幼い頃に空を飛んだ日のことか? 君は本当にあの話がすきなようだ。……他には思い出せないのか?」
ラファエル様は、心底残念そうに眉を寄せた。
彼が語る「思い出」は、あまりにも完璧だった。私とラファエル様が幼少期からどれほど仲が良く、天界でどんなに愛されて育ったか。その記憶が、鮮明な映像として私の脳内に次々と貼り付けられていく。
(そう、私たちはいつも一緒だった。……はずよね?)
そう思いたいのに、心臓の奥が冷たく軋む。
頭の中に浮かぶ「偽りの記憶」は、あまりにも整いすぎていて、どこか作り物の人形を見ているようだ。一方、ふとした瞬間に脳裏を掠めるのは、もっとずっと不格好で、泥臭くて、愛おしい……誰かの、掠れた声。
「……気持ちが悪いんです。頭の中に、知らない景色が溢れてきて」
「それは、聖女の器としての記憶が戻り始めている証拠だ。お前の魂は、悪魔に汚染されていたんだ。私がその泥を拭い去っているところだからな」
ラファエル様の声は優しいのに、その目は「私の人形」であることを強要する執着に満ちていた。
彼は私の顎を持ち上げ、逃げ場のない視線を絡めてくる。
「君は、私の聖女だ。……他者の記憶など、必要ない。この天界こそが君のすべてであり、君の居場所だ」
(……違う)
心の中で、小さな抵抗が生まれた。
私は違うと言いたい。でも、言葉を出そうとすると、頭痛がして視界が白く塗りつぶされる。
その時だった。
扉の向こうから、一人の青年がやってきた。ミカエル様だった。
彼は私とラファエル様の様子を見て、わずかに顔を強張らせた。その瞳の奥には、ラファエル様のような支配欲ではなく、耐え難い苦渋の色が浮かんでいる。
「……ラファエル。聖女の浄化は、急ぎすぎではないか」
ミカエル様の声に、ラファエル様は冷ややかに笑った。
「急ぐ必要がある。魔界の気配が強くなっていることに、気づいているか? この器が『元に戻る』ことを願う輩が、もうすぐ訪れるだろう」
ミカエル様は私の横を通り過ぎる際、誰も見ていないのを確認して、そっと私の手のひらに何かを握らせた。
冷たい、金属の感触。
指を開くと、そこには欠けたティーカップの破片があった。
一瞬、脳内に火花が散るような衝撃が走る。
(……これ、ソロン様が……砕いた……?)
記憶がフラッシュバックする。薄暗い教会、砕け散る陶器、ソロン様の絶望に満ちた叫び。
私の胸に刻まれたペンステモンの紋章が、一瞬だけ激しく青白く発光した。
「……ッ!」
私は思わず息を呑み、その破片を隠した。
ミカエル様は私と目が合うと、極めて小さな声で、私にしか聞こえない音量で呟いた。
「……思い出しなさいクラリス。……今はまだ、従うふりをしていろ。彼が……『彼』が、迎えに来るまでは」
ミカエル様の瞳は、切実だった。
実兄であるはずの彼が、今、天界の規律を破り、私に「思い出せ」と囁いたのだった。
ラファエルが去った後も、その冷徹な気配はしばらく廊下に残っていた。私はまだ、手のひらに握りしめたティーカップの破片の冷たさを感じていた。
「……ミカエル様、どうして……」
私は、震える声で尋ねた。天界の規律を背負い、聖女を守るべき立場であるはずの彼が、なぜ悪魔の痕跡を私に手渡すような真似を。
ミカエルは周囲を警戒するように一度だけ振り返ると、私のすぐそばまで歩み寄り、膝をついて目線を合わせた。その瞳には、先ほどまでの「兄としての偽りの慈愛」ではない、もっと純粋で、痛々しいまでの後悔の色が浮かんでいた。
「……私の妹として、君をこの檻に閉じ込めるのが、本当に君のためだと思っていた」
彼は私の手をそっと包み込んだ。その手は、教会のあの人とは違うけれど、それでも驚くほど温かかった。
「だが、君が忘却の光に飲まれていくのを見て、ようやく気づいたんだ。……私が守ろうとしていたのは、君という『人間』ではなく、ただの『聖女の器』という記号だったことに」
ミカエルの言葉に、胸が締め付けられる。彼もまた、天界という巨大なシステムの中で、正義だと信じ込まされていたのだ。
「クラリス、聞いてくれ。あの悪魔――ソロンが、天界の門に接触した。結界が、悲鳴を上げている」
「ソロン様が……!」
私は思わず破片を強く握りしめた。傷が手のひらに食い込む。けれど、その痛みこそが、今の私を「偽りの人形」から引き戻してくれる錨のようだった。
「彼は来るだろう。……君が想像している以上に、猛々しく、怒りに狂った姿でね。彼は天界を焼き払ってでも、君を連れ戻しに来るはずだ」
ミカエルは、私の頬に落ちた涙を指先で拭った。
彼の表情は、まるで今生の別れを告げる者のように悲しげだった。
「君の心の中に残っている、あの泥臭い教会の記憶を、絶対に手放さないでほしい。あいつの淹れるスープの味、ペンステモンの花の匂い……君が『自分』であるための唯一の証明だ」
「思い出せます……。私、ソロン様と……あの方と、もっとたくさんの……」
頭痛が再び襲ってきた。けれど、ミカエルの温もりが、私の理性を繋ぎ止めてくれている。
「いい子だ。……だが、覚えておいてくれ。私はラファエルとは違う。君を返すと決めた。たとえ、天界を裏切る逆賊の汚名を着ることになっても、君を『器』ではなく、君自身の足で歩める場所へ帰してやる」
ミカエルは立ち上がり、扉の方へと目を向けた。その背中は、どこか決意に満ちていた。
「もしラファエルに疑われたら、私のせいにしていい。君は、何も知らないふりをしていればいいんだ」
彼はそう言って、優しく私の頭を撫でた。あの日、教会の裏庭で……いえ、もっと昔、私が本当に愛されていた記憶のような、懐かしい手つきで。
ミカエルが去った後の廊下は、また冷たい静寂に包まれた。
けれど、私はもう一人ではない。
ティーカップの破片を胸元に押し当てると、かすかな、けれど確かな花の香りがした。それは天界には存在しない、泥の匂いのする、愛おしい記憶の香りだった。
私の世界が、少しずつ揺れ始めている。
◇
魔界の最深部、かつてクラリスと穏やかな日々を過ごした教会の裏庭と瓜二つに作り上げられた「亡霊の庭」に、ソロンは立っていた。
ペンステモンの花は、もう枯れ果てている。魔界の冷たい風にさらされ、灰となって崩れ落ちていく花弁を、ソロンはただ静かに見つめていた。
「……殺してやる」
その呟きは、もはや人間の言葉ではなかった。
ソロンの背後には、地割れの中から這い出した数万の悪魔たちが、ひれ伏して主の命令を待っている。かつてはクラリスの安寧を守るためだけに抑え込んでいた強大な魔力が、今は堰を切ったように彼を支配していた。
彼はゆっくりと右手を掲げた。その指先には、かつてクラリスが好んだ教会のお茶の気配すら微かに残っていたが、今やその手は瘴気と血で汚れていた。
「天界の門を穿て。……私の聖女の魂に触れた、その薄汚い羽をすべて毟り取ってやる」
ソロンの号令とともに、魔界の空が真っ黒に割れた。
空間そのものを引き裂き、無数の漆黒の流星となって、軍勢が天上の扉へと殺到する。その姿は、かつてないほどに苛烈で、美しく、そして救いようのない絶望を撒き散らしていた。
一方、天界。
ラファエルは、玉座の間で異変を察知した。空が黒く塗り潰され、聖なるはずの雲が腐食していく。
「……魔王め。よくもここまで早急に、死地を求めてやってきたものだ」
ラファエルの表情には動揺はない。ただ、神に仕える者としての冷徹な怒りが渦巻いている。彼は側に控える天使たちに、冷酷な命令を下した。
「聖女の防衛を最優先とせよ。……万が一にも『器』が汚染されるようなことがあれば、貴様らもろとも消滅させる。……何としてでも、あの悪魔を近づけるな」
天界の門が、重々しい音を立てて開く。
その先には、黒い翼を広げ、全身から紫色の瘴気を噴き上げるソロンが、ただ一人で立っていた。軍勢は門の向こう側に控えさせ、彼一人で天界の守護者たちの真っ只中へ踏み込もうとしている。
「……私のクラリスを返せ。それ以外、貴様らに用はない」
ソロンの言葉はシンプルで、だからこそ誰の耳にも、彼の剥き出しの執着が伝わった。
「下劣な悪魔が。貴様の愛などという幻想で、神の秩序を乱すことは許されん!」
ラファエルが放った無数の光の矢が、ソロンの身体を貫く。
しかし、ソロンは血を流しながらも、一切の表情を変えず、ただまっすぐと天界の深奥――クラリスのいる場所を見据えて歩を進める。
その姿は、まるでボロボロになりながらも、愛する人の元へ帰ろうとするただの人間のように、不器用で、ひたむきで――何よりも恐ろしかった。
(……待っていろ、クラリス。今、迎えに行く)
ソロンの足元から、踏みしめた聖域が黒く染まり、朽ちていく。
魔王の進撃は、まだ始まったばかりだった。
◇
宮殿の窓から見える空が、断末魔のように脈動していた。
私の胸元のペンステモンの紋章が、先ほどからずっと熱を帯びている。まるで、誰かが私の名前を呼び続けているかのように、疼くのだ。
「……ソロン、様……?」
思わず口から零れたその名前に、私は自分でも驚いて唇を噛んだ。
ここには、そんな名前の人なんていないはずなのに。私を囲い込み、私だけを見ていた、あの優しい悪魔の記憶が、偽りの聖女としての日常を内側から食い破ろうとしている。
「騒ぐな、クラリス。……貴様の魂が、汚らわしい波動に共鳴しているようだ」
背後から響いた冷酷な声に、私は身体を強張らせた。ラファエルだった。
彼は私の反応を見て、ますます機嫌を損ねたように眉をひそめる。
「魔王が門を叩いている。あやつは貴様を奪い返しに来たと喚いているが……滑稽なことだ。貴様は神の器であり、あやつが触れていいものではない」
ラファエルは私の手を取り、強引に玉座の横へと引き据えた。そこは、天界の全権を象徴する場所であり、聖女として祀り上げられるための祭壇でもあった。
「……私は、あなたの聖女じゃない」
絞り出すような私の言葉に、ラファエルは冷笑を浮かべ、私の頬を指先でなぞった。その手つきは、獲物を値踏みする鑑定士のような、おぞましいものだった。
「いいや、これからなるのだ。――ミカエル!」
ラファエルの呼びかけに応じ、扉の外からミカエルが姿を現した。彼は努めて表情を消していたが、私と目が合った瞬間、その瞳には深い、深い絶望が宿っていた。
「……何か? ラファエル」
「聖女の浄化を加速させろ。今の貴様には甘さが見える。……今すぐ、あのアクの強い悪魔の記憶を、根こそぎ焼き払え」
ミカエルは拳を強く握りしめ、爪が掌に食い込んで血が滲むのを隠した。
彼はゆっくりと歩み寄り、私の目の前に立つ。
「……クラリス。目を、閉じて」
彼が私の額に手を添える。その手は、先ほどとは違って、天界の法に従うかのように冷たかった。
けれど、その掌の中に……微かな温もりが隠されているのを、私は知っていた。
「さあ、見なさい。……これが、君の本来あるべき記憶だ」
ミカエルが術を唱えると、私の脳内に強烈な白光が流れ込む。
それは完璧な天上の風景。幼い頃の私とミカエルが、羽を重ねて雲の上を飛ぶ美しい光景。
――けれど、その偽りの記憶の端々に、黒いノイズが走る。
(……いや。違う……そんなはずがない……)
ノイズの向こう側に、ぼんやりと浮かぶ影がある。
泥だらけの服で、傷だらけの手で、必死に私を抱きしめていた――あの人の影。
「思い出せ……!!」
ミカエルが、私の頭の中に響く声で、密かに命じた。
それは浄化の命令ではない。記憶を維持するための、逆説的な叫びだった。
「思い出すんだ、クラリス! 誰が君を愛し、誰が君をその手で守り抜こうとしたのかを!!」
宮殿の壁が、凄まじい衝撃で揺れた。
門を突破したのだ。ソロン様が、天界の守護を力尽くで引き裂いて。
外から、地獄の業火が燃え上がる音が聞こえる。
私の胸の紋章が、今度は爆発するように光り輝いた。
偽りの記憶が霧のように晴れ、鮮やかな――あの薄暗い教会の、温かな記憶が溢れ出した。
「……ソロン様!!」
私は絶叫した。その声は、神聖な静寂を打ち破り、宮殿全体に響き渡った。
「ようやく、呼んでくれたか……我が愛しきクラリス」
玉座の間の巨大な扉が、まるで紙屑のように吹き飛ばされた。
そこに立っていたのは、漆黒の翼を広げ、全身を返り血に染め、この世のすべてを憎むような魔王の姿。
けれど、その瞳だけは、かつて私に向けられたものと同じ――熱烈で、痛々しいほどの情愛に満ち溢れていた。
「……狂ったか、魔王。ここがどこだか分かっているのか。神の玉座の前だぞ」
ラファエルの言葉など、ソロンには微塵も響いていなかった。彼の視線は、ただ一点、祭壇に引き据えられた私にだけ固定されている。全身の傷口から流れる黒い血が、天界の白銀の床を無惨に汚していく。
「……クラリスに触れたか。この薄汚い手で、俺のクラリスに……ッ!」
ソロンの怒声が響くと同時に、彼が掲げた指先から漆黒の魔力が奔流となって放たれた。それは攻撃というよりも、この場所のすべてを無に帰そうとする破壊の波動だった。
「防げ!」
ラファエルが展開した光の結界と、ソロンの魔力が正面から衝突する。宮殿の柱が次々とひび割れ、天上の崩落が始まった。
「ミカエル! 何をしている! その悪魔を斬れ!」
ラファエルの叱咤に、ミカエルは震える手で剣を抜いた。だが、その切っ先が向いたのはソロンではない。ラファエルが放とうとした、クラリスに向けた「浄化の光」の軌道だった。
キィィィィン――!!
剣同士が激しく火花を散らす。天界の軍勢に混乱が走った。
「貴様……裏切るつもりか!?」
「裏切るのではない。……私は、妹を守ることを選ぶ!」
ミカエルの叫びと共に、彼の手から放たれた光が、私の拘束を解く。
自由になった私は、迷わずソロンのもとへ駆け出そうとした。だが、ラファエルの放った無慈悲な追撃が、私の足を止める。
「動くな、聖女。悪魔に魂を売った報いを見せてやる」
ラファエルの剣が、私の胸を貫こうと加速する。
死を覚悟した瞬間――私の視界が黒い布で覆われた。
熱い。
私の身体を包み込んだのは、焼けるように熱い、魔王の翼だった。
鈍い音とともに、聖剣がソロンの背中に深く突き刺さる。彼は血を吐きながらも、私の身体を抱きしめる力を緩めない。
「ソロン様……っ! やめて、死んでしまう……!」
「……死なない。お前を連れ帰るまで、この命が滅びるはずがない」
ソロンの瞳は、血に濡れながらも、かつての穏やかな神父のように、私を安心させるように細められた。彼は血の混じった唾を吐き捨て、ラファエルを射抜くような眼光で睨みつける。
「ラファエル。貴様、よくも俺のクラリスを……!」
ソロンが片手を突き出すと、教会の地面に埋め込まれていた『ペンステモンの種』――彼がクラリスとの記憶を象徴として守り続けていた最後の魔力が、天界の空間を内側から食い破り始めた。
天界の美しき柱が次々と砕け散り、泥と、愛と、呪いの匂いが玉座の間に充満していく。
「崩せ。この退屈な天国を、灰にしてやる」
魔王の宣戦布告とともに、天界の空が完全に崩壊した。
クラリスを抱きしめたまま、ソロンはラファエルとミカエルの二人の天使を見据える。一人は敵として、一人は――。
「ミカエル。……その娘を連れて、ここを去れ。クラリスを任せるぞ」
ソロンの言葉に、ミカエルは息を呑んだ。
魔王は、己が命を捨ててでも、妹を、自分の愛する女を逃がそうとしている。
ソロンの言葉は、氷のように冷たい天界の空気に、熱い血の匂いを伴って響いた。
「……貴様、本気か。このままでは貴様は消滅するぞ」
ミカエルが動揺を露わにする。しかし、ソロンは背中に突き刺さったままの黄金の聖剣を、あえて深く引き抜くようにして笑った。黒い血が飛び散り、聖なる床を泥のように黒く染め上げる。
「消滅? 笑わせるな。俺の愛した女が、貴様らの冷たい光の中で人形にされるくらいなら、俺自身がこの世界を飲み干して死んでやる」
ソロンの周囲に渦巻く魔力は、もはや制御を失っていた。彼は私の肩を抱く手を離し、優しく背中を押し出す。
「行け、クラリス。……ミカエル、彼女を連れて行け。」
「嫌です……っ! 一人にはしない! あなたが死ぬなら、私も……!」
私が彼の手を掴もうと必死に伸ばした指を、ミカエルが背後から力強く、しかし丁寧に絡め取った。
「……クラリス、行こう。彼が……ソロンが命を懸けて繋いでくれた『道』を、無駄にするな」
ミカエルは私を抱え上げると、崩壊する玉座の間を飛び出した。
振り向くと、そこではソロンが、まるで巨大な城壁のようにたった一人でラファエルと数多の天使たちの前に立ちはだかっていた。
「……愚かな。貴様ら二人で、この天界を終わらせるつもりか?」
ラファエルは聖剣を構え直し、冷酷な笑みを深める。
「面白い。ならばその執着ごと、塵にしてやろう」
ミカエルの腕の中で、私は声を限りに叫び続けた。
けれど、天界の出口へと続く光の道は、ソロンが放つ漆黒の奔流によって、他の天使たちが決して追うことのできない「絶望の境界線」として刻まれていく。
雲の下へ落ちる直前、私は見た。
ソロンの漆黒の魔力が天界の輝きを塗り潰し、彼とラファエルが激突する姿を。
――けれど、ソロンの瞳は、最後まで私だけを見つめていた。
彼は笑っていたのだ。――否、彼と過ごしたあの温かな教会の記憶の果てへ逃がすことができた、その喜びだけで。
「……ソロン様……ッ!!」
光の裂け目が閉じ、天界の喧騒が遠ざかる。
ミカエルの腕の中、私は力の抜けた手でペンステモンの破片を握りしめ、ただ泣くことしかできなかった。
私の世界は、半分だけ天界に残された。あの黒い血の海に置いてきてしまったのだ。
空から落ちる雨は、魔界の黒い雨だった。
ようやく私は、彼の帰る場所へ戻ってきたのだ。たとえそれが、主のいない空っぽの教会だとしても。
(……待っているから。必ず、迎えに来てね。……私の、魔王様)
天界での戦いの余波が、雲の向こうで閃光のように明滅し続けている。
◇




