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 ソロン様の纏う気配が、一瞬で鋭利な刃物へと変貌した。


「……何者かが、ここに来ましたね」


 彼は私の返事を待たず、教会の空気を舐めるようにして、入り口から祭壇の前へと歩み寄った。私の座っていた椅子のそばを通り過ぎる時、彼が私の肩に置いた指先が、氷のように冷たかった。


「……はい。旅人の方が一人、立ち寄られて。とても優しい方でした」


 私の言葉に、ソロン様は祭壇の上で静止した。

 彼はカップの縁に残されたわずかな水の跡を指でなぞり、そこから漂う残り香を嗅いだ。その瞬間、彼の瞳の奥から青白い魔光が漏れ出し、教会の壁面がミシリと悲鳴を上げた。


「……優しい、ですか」


 低く、地を這うような呟き。

 ソロン様は表情一つ変えないまま、そのティーカップをまるで汚物でも掴むかのように、指先一つで粉々に砕き散らした。陶器の破片が床に散らばり、カランと虚しい音を立てる。


「二度と、そんな輩を中に入れてはいけません。クラリス。あれは、あなたの魂を、根こそぎ奪いに来る『泥棒』だ」


 その時のソロン様の顔は、人間としての理性など微塵も感じさせない、冷酷で、独占欲に塗りつぶされた『魔王』のそれだった。

 私は恐怖に足がすくみ、言葉を失う。初めて見る彼の殺意に、私の胸の紋章が共鳴するように激しく脈動した。

 その青年が訪れてから数日が過ぎた。

 教会の扉を叩いたあの青年の面影が、私の頭から離れない。

 彼が去った直後、扉を蹴り開けて戻ってきたソロン様の、あの冷酷なまでの怒り。それ以来、教会の中は異様な静寂に包まれていた。

 ソロン様は、相変わらず私を教会の敷地から一歩も出そうとしない。

 けれど、以前のような「穏やかな聖者のふり」すら、今の彼は忘れてしまったかのようだった。食事の時間も、掃除の時間も、彼は影のように私の背後に張り付き、私の肌に触れる空気にさえ、殺気混じりの視線を向けている。


(あの青年の匂いが、今も消えない……)


 私は胸元の紋章に手を触れ、あの青年が消え際に言った「迎えが来る」という言葉を反芻する。そのたびに、ソロン様の視線が痛いほどに突き刺さる。彼は気づいているのだ。私が自分以外の何かに心を奪われ、この『暗い森』の外を意識し始めてしまったことに。

 ソロン様は、夜な夜な魔界へ行く回数をさらに増やした。

 彼が帰ってくるたび、その衣類には魔界の泥や瘴気が濃くこびりつき、彼の瞳の奥の『魔王の光』は、以前よりもずっと鋭く、暗く、光を失っている。


 ――そして、五日目の夕暮れ。


 その日は珍しく、教会の裏庭に植えられたペンステモンが、一輪も枯れることなく、夕陽を浴びて妖しく揺れていた。それが、嵐の前の静けさだとも知らずに。


 ゴォォォォン――……!!


 唐突に、礼拝堂の鐘が地を震わせる轟音を立てた。

 物理的な音ではなく、魂の奥に直接響くような、天界の律法による強引な鳴動。

 その音を聞いた瞬間、ソロン様は祭壇の上で、信じられないほどの表情を浮かべる。


「……やっと、来ましたか」


 それからは、一瞬の出来事だった。

 天井のステンドグラスがガラスの粉となって舞い散り、黄金の閃光が礼拝堂を塗り潰す。そこには、数日前と同じ、あの穏やかな青い瞳をした青年と、その隣に並ぶ無愛想な青年、天使2人の姿があった。


「探したぞ、悪魔。この地を清め、神の持ち主を奪還する時が来た」


 無愛想な天使が傲慢に言い放ち、青い瞳の天使が悲しげな眼差しで私を見る。


「クラリス。迎えに来たよ。もう、その悪魔の呪縛からは解放されるんだ」


 ソロン様は、すでに人間の皮を脱ぎ捨てていた。

 月光の下で見せたあの姿よりも、さらに禍々しく、巨大な魔王の影を背負って彼は立ち上がる。その黒い翼は怒りで震え、教会の結界を軋ませる。


「……私のクラリスに触るな」


 ソロン様の敬語は、完全に消え失せていた。


「……貴様ら、何者だ」


 ソロンの低い声が響く。彼はこの天界の軍勢が、何百年もの間、魔界と戦い続けてきた宿敵の尖兵であることを本能で理解していた。名前など知らない。ただ、その纏う光が、愛するクラリスを汚そうとしていることだけで十分だった。


「この数年間、俺がどれほどの思いで彼女を傷つけないようにしてきたか……貴様らのような光の傀儡に、何が分かる!」


 無愛想な天使は冷笑を浮かべ、黄金の剣を構えた。


「ぬかせ。貴様のような下劣な悪魔が、なぜわざわざ人間の娘を囲っているのかと思えば……。貴様、まさか自分の手元にあるのが『聖女の器』だと気づいてすらいなかったのか?」

「……聖女の、器だと?」


 ソロンの動きが一瞬、止まった。その言葉の意味を理解した瞬間、彼の背筋に冷たい電流が走る。

 ……天界が探し求める最強の光の器。それが、俺の傍で笑い、俺の作ったスープを飲み、俺の影に守られて眠っていた彼女だというのか。

 ソロンは背後のクラリスを振り返った。

 彼がこれまで、傷つかないように、壊れないようにと大事に大切にしてきた存在。彼女の瞳に映るものが、自分以外の光に染まることなど許せず、ただ静かに、二人きりの世界で一生を終えさせてやりたいと願っていた、その存在が――。


「……俺の、クラリスが。俺がずっと守り続けてきた物が……貴様らの、所有物だと?」


 ソロンの心に、これまでになかった種類の絶望が渦巻いた。

 自分は愛だと思っていた。しかし、もし天界が彼女を連れ去れば、彼女は自分との記憶をすべて消され、神に仕えるだけの無機質な聖女へと作り変えられるかもしれない。

 自分の手元に置くために、これほどまでに執着し、囲い込んできた。

しかし彼女はこの世に生を受けた時点で天界の聖女であった。


「ふざけるな……!!」


 自分の愛が、聖女としての彼女の光に惹かれた偶像かもしれないと考えた。ソロンは、怒りを超えて狂気へと昇華した。


「貴様ら……絶対に、一滴の血も残さず、この地で消し去ってやる……ッ!!」


 ソロンの叫びと共に、教会の床が真っ黒な影の沼へと変貌した。

 彼が召喚した魔界の軍勢が、紫色の瘴気を纏って一斉に天使たちへと牙を剥く。だが、上位天使の彼等が纏う光の結界は、どんな凶悪な悪魔の爪すらも焼き尽くす。


「無駄だ、魔王。貴様の抱えるその娘は、天界の輝きを取り戻さねばならん。悪魔の血に塗れた汚れた日々など、すべて消し去ってやろう」


 天使掲げた黄金の聖剣から、教会の聖域を浄化する白光の奔流が放たれる。


「やめろ……ッ!!」


 ソロンは黒い翼を盾にし、全身に聖なる火傷を負いながら私を庇った。焼けるような悪臭と、衣類が灰に変わる音。それでも彼は、決して私の前を退かなかった。


「クラリス、耳を塞げ。……俺を見るな」


 彼は血の滲むような声でそう言った。それは彼が、何よりも大切に隠してきた『魔王としての醜い本性』を、私に直視させたくないという最後の矜持だった。

 けれど、青い瞳の天使は慈愛に満ちた表情のまま、ソロンの盾を回り込むようにして私の目の前へと降り立った。


「クラリス。君に隠された真実を教えてあげよう。彼がなぜこれほどまでに君を囲い込み、夜な夜な魔界へ通っていたか……。それは彼が君を愛していたからじゃない。君が『聖女の器』として覚醒するその時を、誰よりも早く利用するためだったんだよ」

「……違う。そんなはず、ない……っ!」


 私の否定など、ミカエルの静かな声は冷徹に塗りつぶしていく。


「見てごらん、今の彼の姿を。あれが、君を愛する者の姿だろうか?」


 彼言葉に動揺したソロンの一瞬の隙を見逃さなかった。剣が、ソロンの肩を深く貫く。黒い血が飛び散り、ソロンは膝をついた。


「ガッ……ァァァッ……!!」

「ソロン様!!」


 私が駆け寄ろうとしたその瞬間、青い瞳の天使が私の手首を掴んだ。その力は驚くほど強く、逃げ場はどこにもない。


「行こう、クラリス。この悪魔はもう終わりだ。天界の光の中で、君は本来の記憶を取り戻し、真の聖女として生まれ変わるんだよ」

「嫌! 帰して! ソロン様を返して……ッ!!」


 私の悲痛な叫びをよそに、青い瞳の天使が私を抱き抱え、空へと飛び立った。

 結界が私の身体を包み込み、地上で血を流しながら私を追いかけようとするソロンの姿が、どんどん遠ざかっていく。


「クラリス――!!!」


 地獄の底から響くような、ソロンの絶叫。

 私は空の上で、彼が差し出す黒い手を掴もうと、必死に手を伸ばした。

 けれど、天界の結界は無情にも私を光の中へと引きずり込み、教会の姿さえも雲の下へと消し去っていく。


 ――地上に残されたソロンは、血だまりの中に立ち尽くしていた。


 空を仰ぐその瞳には、かつて私が愛した穏やかな神父の面影など、一片も残っていなかった。


(クラリス……。俺の、唯一……)


 ソロンの頬を伝ったのは、血混じりの黒い涙だった。

 彼は粉々になったティーカップの破片を拾い上げ、ボロボロになった自分の手の中で強く握りしめる。指から血が溢れ出し、床を汚していく。

 彼は二度と、人間に戻ることはないだろう。

 愛した人が奪われたその瞬間、魔王ソロンの中で、人間を守ろうとしたすべての理性が崩れ去った。


「――殺してやる。天界のすべてを、神の玉座さえも、灰になるまで焼き払ってやる……ッ!!」


 教会の屋根を突き破り、魔界の空を真っ黒に染めるほどの漆黒の魔力が噴き上がる。

 空中で伸ばされたソロン様の黒い手が、指先一つ届かずに、夜空の彼方へ消えていく。

 教会の裏庭、あの枯れかけたペンステモンの花だけが、主を失ったまま、月光の下で静かに揺れていた。


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