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プロローグ



 あの大騒動から、数年の歳月が流れた。

 崩落した礼拝堂の天井はすっかり馴染み、教会の裏庭に植えたペンステモンの花は、毎年変わらずに美しい紫色の釣鐘を咲かせている。

 そして私の胸元――修道服の襟元に隠された白い肌には、あの日ソロン神父様の手によって刻まれた、淡い紫色のペンステモンの紋章が、今も消えることなく私を守るように浮かび上がっていた。

 少女だった私は少しだけ背が伸び、大人の女性の体つきへと成長した。

 日々は穏やかで、満ち足りていて、そして――。


(……本当に、驚くほどなーーーんにも進展していない……!!)


 私は心の中で、何度目かも分からない、天を仰ぐような溜息を吐いた。


「クラリス。今日のスープは、少しだけハーブの調合を変えてみたのですが……お口に合いますか?」


 私の真隣の席。肩が触れ合うほどの至近距離から、鼓膜を優しく揺らすような低く甘い声が降ってくる。

 人間の姿をしたソロン様は、相変わらず彫刻のように美しい顔に聖者の微笑みを浮かべ、私がスプーンを口に運ぶ様子を、じっと、片時も目を離さずに見つめていた。

 お互いに想いを告げ合い、今の彼の執着は、数年前の比ではない。

 私が街へ買い物に行こうとすれば「危険ですから」と必ず影のように背後に付き従い、教会の敷地内では一歩たりとも私を一人にさせない。彼の切れ長の瞳の奥には、日に日に色濃くなる猛獣のような独占欲が隠しきれずに滲んでいる。

 完全に、私はこの人に囲い込まれている。

 なのに。それなのに、だ。キスどころか手すら握ってこない。

 

「……ソロン様。とっても美味しいです。美味しい、ですけれど……」

「おや、何か不満でも? なんなりと仰ってください。あなたの望むものなら、私はなんだって用意しますよ」

「なんでもありません……。ただ、本当に過保護ね、と思っただけです」

「ふふ、仕方がありません。私は悪魔ですからね。大切な観賞植物が傷つかないよう、四六時中見守り、檻の中に囲っておくことしかできないのです」


 ソロン様は滑らかな敬語でそう言って、私の髪の毛一本にすら触れない絶妙なコントロールで、そっと私の頭を撫でる。


 その日を境に、ソロン様の様子は明らかに変わってしまった。

 昼間は、文字通り私の一挙手一投足を見守り、片時も傍を離れようとしない。それなのに、夜。私が寝室に入り、眠りについたのを見届けると、彼は気配を殺してこっそりと部屋を抜け出していくようになったのだ。

 最初は、私の気のせいだと思おうとした。けれど、それが三日、四日と続くに至って、私の胸のざわめきは抑えきれなくなっていった。


(神父様、最近毎晩どこへ行っているのかしら……。まさか、私に隠れて何か悪いことでも……?)


 数日目の夜。どうしても真相を確かめたくなった私は、眠ったふりをしてベッドの中で息を潜めていた。

 深夜の静寂の中、かすかに部屋のドアが開く音が聞こえる。薄目をあけると、ソロン様が音もなく廊下へと出ていく背中が見えた。

 私は掛け布団をそっと撥ね除け、裸足のまま、足音を立てないように彼の後を追った。

 ひんやりとした夜の空気が満ちる廊下を渡り、彼が向かったのは、教会の礼拝堂だった。

 月光が差し込む大きなステンドグラスの前。その中央に、ソロン様はぽつんと佇んでいた。


「……あ」


 物陰から覗き見た私は、思わず息を呑んだ。

 ソロン様は、すでに人間の皮を脱ぎ捨てていた。頭部からは猛々しい禍々しい角が伸び、背中からは夜の闇を切り取ったような巨大な漆黒の翼が広がっている。昼間の、あの穏やかで優しい神父様の面影はどこにもない。冷徹な『魔王』そのものの姿が、月光に照らされていた。

 ソロン様は何も喋らなかった。

 ただ、恐ろしいほどに冷ややかな、一切の感情を排した瞳で、虚空の空間を見つめている。

 彼がすっと長い指先を天に掲げると、空間がガラスのようにひび割れ、そこからどす黒い、禍々しい瘴気が吹き出してきた。

 魔界と人間界を繋ぐ、巨大な「ゲート」。

 ソロン様はその門の向こう――不気味な紫色の雲が渦巻く、地の底の世界をじっと見つめ、一瞬だけ、慈しむように目を細めた。

 そして、一度も振り返ることなく、無言のままその割れ目へと足を踏み入れ、闇の向こうへと消えていった。

 彼が消えると同時に、空間の裂け目はピきりと音を立てて塞がり、礼拝堂には何事もなかったかのような静寂だけが戻る。


「魔界へ……行っているの?」


 ポツリと、誰もいない礼拝堂に私の声が落ちる。

 数年間、人間の世界で神父として私の隣にいてくれたはずの人が、毎夜、私の知らないところで無言で世界を行き来している。


(なぜ、毎晩魔界へ行く必要があるのだろう。何か、私には言えないことを企んでいるのだろうか)


 数年間ずっと完璧に理性を保ち、私を甘やかしてくれていたソロン様の、見たこともないほど冷徹な「悪魔の横顔」。

 私は腕を抱きしめ、自分の肌にあるペンステモンの紋章を衣服の上からそっとなぞった。恐怖というよりは、彼の敬語の裏に隠された『底知れない何か』に触れてしまったような、奇妙な胸騒ぎが止まらなかった。


 この冷たいざわめきが消えぬまま迎えた、翌日の午後。

 さらなる異変が、私の前に姿を現すことになる。

 そしてタイムリミットが、すぐそこまで迫って来ていた。

 教会の裏庭、ソロン様が何より大切に手入れをしていたはずのペンステモンの花が、なぜか突然、原因不明のままパラパラと枯れ落ちてしまったのだ。

 それだけではない。教会の敷地内に、鳥のものにしてはあまりにも白く清らかな、目が眩むような『羽』が、時折ふわりと落ちているのを見かけるようになった。


「……ソロン様、これ……」

「っ、クラリス、それに触れてはいけません!」


 落ちていた白い羽を拾おうとした私を、ソロン様が見たこともないほど冷たく強張った顔で遮った。彼は私の手を引いて強引に抱き寄せると、狂おしいほどの力で私を抱きしめた。その身体が、微かに震えている。


 彼は私を強く抱きしめたまま、懐から一束の花を取り出した。それは、夜の帳が下りた教会の陰でも、不思議と鮮やかな彩りを失わない、紫色のスターチスだった。


「……これを、身につけていてください」


 私の髪に、その花をそっと挿す。花に触れた瞬間、指先から冷たいような、それでいて心地よい痺れが全身に広がった。


「これは……?」

「魔除けです。……いえ、あるいは『境界』と言ったほうがいいかもしれません」


 ソロン様は私の頬に手を添え、まるで何かを必死に言い聞かせるように、その青い瞳で私を射抜いた。


「この庭に落ちているような、あの忌々しい光が……君になにか影響を与えようとするかもしれません。その時は、この花を強く握りしめてください。どんなに清らかな光であろうと、君を私から奪うことは決してさせない」

「光……? 綺麗な羽なのに、なにかあるの?」


 私が問うと、ソロン様の表情がわずかに歪んだ。それは恐怖ではなく、圧倒的な独占欲が露わになったような、表情だった。


「彼らにとって、君はただの『救うべき対象』なのかもしれない。けれど、私にとって君は……私の全てであり、私の唯一の人なのですから」


 彼は深く、溜息をつくように私の首筋に顔を埋めた。その背後で、窓の外に舞い落ちた白い羽が、ペンステモンの花びらに触れた途端、音もなく灰となって消えていくのが見えた。

 それが、私を守るための「護符」なのか、それとも私をこの教会に閉じ込めるための「楔」なのか。私には分からないまま、ただソロン様の愛の重さに、息を呑むことしかできなかった。


「ソロン様……?」

「……クラリス、またしばらくは絶対に教会の敷地から外へ出てはいけませんよ。いいですね?」


 耳元で囁かれる声は、いつも以上に切迫した熱を帯びていた。ソロン様がまた頻繁に夜中にこっそり部屋を抜け出し、どこかへ出かけていくようになっていった。



 翌日の午後。教会の中は、不思議なほど静かだった。

 ソロン様は「街で仕入れるべき物がある」と言い残し、珍しく私を置いて数時間だけ教会を離れていた。あの夜の礼拝堂での姿を思い出し、胸の奥が冷たく強張るのを感じながら、私は一人で礼拝堂の清掃を続けていた。

 ステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描き出している。

 ふと、教会の重厚な扉が、カタ、と小さな音を立てた。


(ソロン様、もう戻られたのかしら?)


 私は箒を置いて、扉の方へと歩み寄った。しかし、扉を開けて立ち尽くしていたのは、ソロン様ではなかった。


「……こんにちは」


 そこに立っていたのは、見たこともないほど美しい青年だった。

 黄金色の髪を肩まで流し、衣服はどこか古風でありながら、この教会の空気とは全く異質なほどに洗練されている。そして何より、その人の瞳。吸い込まれそうなほど澄み切った海のような青色は、見つめているだけで、心が洗われるような静寂を感じさせた。


「……あの、何かご用でしょうか? 今は神父が不在にしておりまして」

「ああ、いいんだ。ただ、長い旅の途中でね。少しだけ、懐かしい風の匂いがしたから立ち寄ってみただけなんだ」


 青年はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔があまりにも自然で、まるで昔から知っていた誰かに再会したような、不思議な安心感を覚えた。

 私は警戒心も忘れて、扉を大きく開け放った。


「旅……ですか。こんな辺鄙な場所まで大変でしたね。よろしければ、中で少し休んでいきませんか? お茶を淹れましょうか」

「いいのかい? ありがとう。君は……本当に優しい人なんだね」


 青年は、教会の床を優雅な足取りで踏みしめ、祭壇のそばに腰を下ろした。

 私が急いで淹れた温かいハーブティーを、青年はゆっくりと両手で包み込むようにして口にした。その手先は驚くほど白く、まるで陶器のようだった。


「……あの、どこからいらしたのですか?」

「ずっと遠い、光の届く場所だよ。……ねえ、クラリス」


 名前を呼ばれ、私はハッとした。自分の名を名乗った覚えはない。

 怪訝な表情を浮かべる私を見て、青年は困ったように、けれどどこか寂しげな微笑を浮かべた。


「驚かせてごめんね。でも、君を見ていたら、昔の妹を思い出してね。つい、懐かしくて」

「妹、様……」

「ああ。とても無邪気で、でも少しだけおっちょこちょいで……。君のその瞳の奥にある輝きは、あの子にそっくりだ」


 青年の言葉は、一言一句が胸の奥底に触れるようだった。

 ソロン様から受ける愛は、甘く、重く、どこか湿った土の香りがするような愛だ。けれど、この青年から放たれる雰囲気は、まるで真昼の太陽を直接浴びているような、眩しくて、温かくて、逃げ場のない清浄な光の塊のようだった。

 私たちは、日が暮れるまで語り合った。

 教会の歴史や、私が子供の頃からこの場所にいること。ソロン様がどれほど私を大切に守ってくれているか、そして……私がたまに抱く、拭い切れない不安について。


「……ソロン様は、私のことを本当に大切にしてくださっています。でも、時々……このままこの檻のような場所から一生出られないんじゃないかと思うと、少しだけ怖くなります」


 つい、口が滑ってしまった。

 けれど、青年は驚く様子もなく、ただ私の言葉を慈しむように聞いていた。


「檻か。そうかもしれないね。……でも、彼は彼なりに、君を守ろうと必死なんだろう。その手段が、あの子の心臓に深く突き刺さるようなものだとしても」

「……あの子?」


 青年はティーカップを置き、立ち上がった。窓の外では、夕闇が教会の影を濃くしている。

 彼はゆっくりと私の元へ近づくと、迷いのない手つきで私の髪をそっと撫でた。その指先が触れた瞬間、胸元にあるペンステモンの紋章が、一瞬だけカッと熱く焼けるような痛みを感じた。


「っ……!」

「ごめんね、痛かったかい?」


 青年は顔色一つ変えずに優しく微笑んだ。


「ねえ、クラリス。スターチスの花言葉を知っているかい?」

青年は夕陽に照らされる私の髪についたスターチスを愛おしそうに見つめた。


「……いえ、知りません」

「『途絶えぬ記憶』。……彼は君を閉じ込めることで、永遠を願っているんだろう。だけど、それは記憶を枯らすことと同じだよ。美しい花だって、ずっと冷暗所に置かれていたら、いつかは色褪せてしまう」


青年は悲しげに微笑んだ。


「いつまでもそんな『不誠実な祈り』を捧げなくていいんだよ。君をここから連れ出してくれる『本当の迎え』は、必ず来るから」


 その時、教会の外に、重苦しいほど禍々しい魔力の気配が近づいてくるのが分かった。ソロン様が戻ってきたのだ。

 青年はその気配を感じ取ると、静かに窓際へと歩み寄った。


「迎えが来たようだ。……クラリス、最後に一つだけ言わせておくれ」

「……はい」

「いつまでも暗い森の中にいてはいけないよ。君の本当の場所は、もっと明るいところにある。……近いうちに、迎えが来るからね」


 その言葉を最後に、青年は夕陽に溶けるようにして、光の粒子となって消えてしまった。

 後に残ったのは、空になったティーカップと、鼻をくすぐる微かな花の香りと――私の胸に突き刺さった、得体の知れない「喪失感」だけだった。


「ただいま、クラリス」


 教会の扉が勢いよく開かれ、ソロン様が顔を覗かせる。

 けれど、いつもの柔らかな微笑みとは違う。扉を開けた瞬間、ソロン様の表情から一切の表情が消え失せた。

 彼は教会の空気に残る、あの「清らかすぎる残り香」を嗅ぎつけたかのように、鼻をひくりと動かし、私の元へ駆け寄った。


「……何者かが、ここに来ましたか?」


 ソロン様の声は、低く、怒りで微かに震えていた。


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