14 波乱の帰還(5)
「起きろ、起きろ、バカ猊下、さっさと起きろ」
リーユエンは、息を荒げ、肩を上下させた。
玄武の甲羅を破る大業で力を消耗し、実際には、疲れ切っていた。紫眸から涙が零れ落ち、とうとう地面に膝をついて座り込んでしまった。
高祖は、リーユエンの後ろで、呆れたように頭を振った。
「どうする、起きる様子がないぞ。もう、戻ったらどうだ」
「・・・・・・」
リーユエンは、無言で座り込んだ。もう一度立ち上がって、叫びたかったが、もう立ち上がる気力もなかった。
(リーユエンの独白)
やっとここまで辿り着いたのに、猊下が目を覚まさないなんて、酷すぎる。
もう、腹が立つから、入り口の前で死んでやる。目が覚めた時に、私のミイラ化した死体でも見て、腰を抜かせばいいんだ。猊下の馬鹿っ!
高祖は、リーユエンの肩に手を触れた。
「そんな物騒なことを考えるのはやめなさい。
この扉は分厚い岩の扉だ。あなたが少々騒いだぐらいでは、声は届かない。
今から、あなたの体へ私の法力を流し込み、この岩戸の向こうの怠惰な玄武を驚かせてやろう」
そう告げると、高祖はいきなりリーユエンの体内へ法力を一気に流し込んだ。
リーユエンは目の見開き「ヒッ」と息を呑んだ。体が硬直し、手燭が滑り落ち、岩にぶつかり転がると火が消えた。
真の闇の中、深い法悦が体内の奥深い場所から湧き上がり、リーユエンは陶然となり、そのまま倒れ伏した。体内に流れ込んだ法力は、震家の紋が消え去った玄武紋をなぞり、そこから一条の光となって、岩戸を透過し、その奥深くで眠るドルチェンの額を直撃した。
ドルチェンの目が薄っすらと開き、薄緑色の眸が現れた。額から体内へ、自分のものではない、強力な法力が通ったのを感知し、意識が急速に浮上した。
「今のは、何だ?」
百年余り眠り続けるつもりであったのに、真の暗闇の中で、扉の向こうの気配に気がつき、驚愕した。
まず、リーユエンの気配を感知したが、その気配は、以前の彼女のものとは、あまりに異なっていた。陽気が盛んになっているのはともかく、自分の与えたものではない、何者かの強大な法力の気配を感じたのだ。
「玄武だな・・・一体何者だ。カーリヤでも、あれほどの法力はないぞ」
完全に覚醒したドルチェンは、人形へ姿を変え、岩戸を中から開け放った。
突如、音もなく巨大な岩戸は開け放たれた。そこから長身の男が姿を現した。真の暗闇の中でさえ、高祖には、その玄武から火焔のように噴き上がる黄金の法力が、鮮明に見えた。その法力は、かつて身近にいた者とあまりに酷似していた。
「く、黒皇子・・・馬鹿な」
高祖は、火焔のように揺らめく黄金の法力から目が離せないままつぶやいた。
(高祖の独白)
我が目で見たものが、信じられなかった。それは、黒皇子の法力の色、誰もが褒め称え、尊崇してやまなかった神聖な黄金の法力だった。
黒皇子は、数千年にわたる厳しい修行を経て、黄金の法力を身につけたのだ。彼が北荒の地へ旅立ったあと、その色の法力を帯びる玄武が現れることは、二度となかった。
乾陽大公も、黒皇子に似通った部分が多くあったが、今、目の前にいる玄武はそれ以上だった。いや、法力だけなら、彼は黒皇子だと断言できるほどだ。
ドルチェンの気配に気がついたリーユエンは、暗闇に向かって手を伸ばそうとした。しかし腕を持ち上げる力もなかった。
ただ、「猊下・・・」と囁くように呼びかけた。
ドルチェンは、岩戸の傍で蹲るリーユエンの姿に気づき、両腕で抱き上げた。
リーユエンは、両腕でドルチェンの首と肩へしがみつき、
「猊下、猊下、お会いしとうございました」と、ささやいた。
ドルチェンは、リーユエンの反応に驚きながらも、目の前に立つ、闇の中に、全身から法力の青白い光を放って佇む玄武と対峙した。
長身痩躯の若々しい姿、月輪のような輝きを放つ白金色の長髪、その肌は青みがかって真珠の光沢があった。
一見したところ、千齢になったかならずかに見える若々しい外見でありながら、その玄武がとてつもない年数を生きてきたことはすぐに分かった。その体から青白く噴き上がる法力が火焔となって噴き上がる様を見た時、相手が何者なのかを、すぐに理解した。
ドルチェンは、リーユエンを腕に抱いたまま、膝を地につけ、高祖へ拝礼した。
「愚僧、ドルチェンが、東海大帝陛下へご挨拶申し上げる」
高祖は、目を細め微かに笑んだ。
「立つがよい。その称号で呼ばれるのは、二千年ぶりだ。最近の私は、ただ高祖と呼ばれている。今は、何の身分もない」
ドルチェンは、透き通るような緑色の双眸を、高祖へ据えたまま、はっきりと告げた。
「私の妃は、あなた様に非常なご恩を賜ったようだ。感謝申し上げる」
高祖は、真顔で返した。
「彼女は、私の妻だ。何度この世で生を受けようと、私こそが、彼女の、今生の夫となるべき相手なのだ。ここでの用が済み次第、東海蜃市へ連れて帰る」
ドルチェンは、鳳が翼を広げたような眉を顰めた。
今頃は、金杖王国の王太子妃になっているに違いないと思っていたリーユエンが、どうして東海大帝の妻に望まれてしまったのか訳がわからず、困惑し切っていた。この場ですぐ聞き質したいところだが、リーユエンはまだ動揺と疲労が激しく、彼女が落ち着き回復するまで、心の中をのぞくことすら躊躇われた。
高祖は、生真面目に悩むドルチェンを見て、ますます居心地が悪くなった。
あまりにも黒皇子と似通うところが多く、もう別人とは思えないほどだった。昔、妻に迎えた、今はリーユエンと呼ばれる彼女を、黒皇子が少し離れた場所からじっと見つめ、そして眉を顰めて項垂れた表情、そんな、すっかり忘れていた記憶の断片を、急に思い出してしまうのだ。それで、つい言うつもりもなかったことを口にしていた。




