10 捨心(5)
高祖が宣言した直後、リーユエンが立ち上がり、頼りなく体をふらつかせ、ダルディンへ近寄った。ところが、彼女は、ダルディンへ腕を伸ばし、あともう少しで触れそうなところで、膝から崩れ落ちた。
ダルディンは慌てて腕を伸ばし、彼女を支えた
「・・・・・・」
リーユエンは無言でダルディンを見上げ、それから震える指先を彼の顔へ伸ばし、そっと頬を撫でた。
「あなたとそっくりな人・・・彼は誰だったのかしら、私はどうして思い出せないのでしょう」
そう呟くうちに、紫眸から涙が溢れ、頬を伝わり落ちた。
「リーユエン」
ダルディンは抱きしめてやりたいと思ったが、それはできなかった。
リーユエンは記憶を失っても、なお、伯父ドルチェンの気配を慕っているのだ。自分を通して、ドルチェンを探し求めているのに、自分が彼女を抱きしめ、慰めることは許されないと思った。
「あなたによく似た人だったと思うの・・・・誰だったのかしら」
ダルディンは辛い心情を隠し、優しく微笑み、リーユエンを真っ直ぐ見つめた。
「リーユエン、あなたが探しているのは、私の伯父、ドルチェンだ」
「ドルチェン?」
「そうだよ、あなたを千年待って、ようやく妃に迎えたドルチェン法座主猊下だ。焦らなくてもいい、今は思い出せなくても、きっとまた思い出せる。あなたと猊下の縁は、深く強いのだから、きっと思い出せる」
ダルディンの言葉に、リーユエンの不安は和らいだ。そうだ、思い出せばいいのだと、いつか思い出せると、この若者の言う通りだと思い、柔らかに微笑んだ。
高祖は、ダルディンの言葉に歯軋りした。そして、二人の間に割って入り、リーユエンを素早く抱き上げた。
「乾陽大公、愚かなことを言うのはやめろ。リーユエンとの縁が最も強く、最も深いのはこの私なのだ。そなたの伯父など、たかだか千年ではないか」
ミレイナは、高祖と乾陽大公の二人へ、もう我慢できなくなり、割って入った。
「二人とも、冷静になってください。リーユエンに選ばせるべきですわ。リーユエンの心も体も一つしかないのですから」
高祖は、ミレイナの言葉に不機嫌な顔で黙り込んだ。そしてしばらくダルディンを睨みつけたあと渋々提案した。
「よかろう、乾陽大公、法座主とやらに対するそなたの忠誠心に免じて、猶予をやろう。
半年だ。半年の間、蜃市に滞在を許す。その間に、リーユエンが記憶を取り戻せるよう働きかけることも許してやる。
半年の間にリーユエンの記憶が復活すれば、リーユエンに、私の妻としてここに残るか、お前の法座主とやらの元へ戻るかを、選択してもらおう。
だが、半年の間に、リーユエンの記憶が戻らなければ、リーユエンは私の妻だ。そして、乾陽大公、そなたは、玄武国へ帰国するのだ。よいな」
ダルディンは高祖の前に跪き拝礼した。
「寛大な猶予を賜り、感謝いたします」
高祖は、リーユエンを抱き抱えたまま、
「リーユエンは、もう具合が悪そうだから、神廟へ連れて帰る。後日、改めて、そなたらの元へ連れてこよう」と言うや、高祖とリーユエンの姿は突然消えた。
「消えた?」
訳がわからず呆然とするダルディンへ、国王が近寄った。
「高祖は、神廟へ戻られたのだ。あのお方は、蜃市のうちならどこであろうとも、一瞬で神廟と行き来ができるのだ」
ミレイナがダルディンの側へ行き、跪いたままだった彼を助け起こした。
立ち上がったダルディンは、国王陛下と王妃へ、揖礼し謝罪した。
「お茶の席で、騒ぎを起こしてしまい申し訳ございません」
陛下は首を振った。
「畏まった席ではない、内輪のもてなしなので、気にせずとも良い。それよりも、よく高祖の決定を覆し、猶予を勝ち取られた。高祖は、ご自身の言葉を容易には変えぬお方なのだ。大したものだ」
陛下は、目線で、ダルディンへ席に戻るよう促した。
ダルディンはその指示に素直に従った。
一歩も退くことなく高祖とやり合ったけれど、間近でその凄まじい法力の圧力にさらされ続けた彼は、精も魂も尽き果てた状態だった。
ミレイナはまた傍に腰掛け、ダルディンの状態を気遣った。
それでもダルディンは、なけなしの気力を振り絞り、陛下へ尋ねた。
「高祖は、もしや『始原の玄武』でいらっしゃるのか?」
国王と王妃は顔を見合わせた。それから、二人とも頷いた。
ダルディンは力無くため息を吐き出した。もう、絶望的だと思ったのだ。
ミレイナは、聞いたこともない呼称に戸惑った。
「お父様、『始原の玄武』って何なのですか」
「乾陽大公、ミレイナ、二人には説明が必要だな。
乾陽大公は、伯父の妃である女人を、いきなり我が妻にすると、取り上げられて納得はできないだろう。
高祖がなぜ、あの凡人に執着なさり、妻に望まれたのか、それには、理由がある。それを今から話して聞かせるから、その上で、二人でリーユエンの記憶を取り戻す方法を考え、努力しなさい。ただ、高祖の怒りを買わぬように用心を怠ってはならない」
それから、国王は、数千年の時を遡る太古の時代、凄まじい戦いであったという三界の戦が終わる頃から物語を始めた。




