10 捨心(4)
高祖は眉尻を下げ、天を仰いだ。
それから、リーユエンの顔色が悪いことに気がつき、椅子へかけさせた。
「座りなさい、ここにいる者に、遠慮する必要はない。寛いでいなさい」
王も王妃も、ミレイナも、皆、唖然とした。
神廟に祀られる、神にも等しい高祖が、凡人の女の手をとり、長身の体を跪くほどに折り曲げ、彼女を長椅子へ優しく座らせると、少し乱れた髪を指先でそっと整えてやったのだ。
話しかける声も、低く、優しく、側で聞いているのが気恥ずかしくなるほど、甘やかな響きがあった。
一方、そのように優しく扱われ、髪を整えられながら、リーユエンは戸惑った顔で高祖を見上げた。
(この方の爪は随分短いわ。どうして、あの方のように長くないのかしら、指套甲をおつけにならないのかしら) ぼんやりと、そんなことを考え、
(あの方って、誰だったのかしら、もっと低い声のお方・・・)
高祖の、正視するには恐れ多いほどの美麗な顔立ちを、見るともなく見ながら、リーユエンは高祖の横に自分がいることに違和感を覚えていた。
(どうして、私は、この神のようなお方の傍にいるのだろう。私がお側にいるべきなのは・・・)
頭の中は濃霧がたち込めたようで、何も思い出せなかった。ただ違和感だけが増していた。
リーユエンの様子を見ながら、高祖は眉を顰めた。
(まだ連れてくるのが早かったのだろうか・・・何もかも忘れたものだと思っていたが、乾陽大公を見て明らかに動揺している。
全くこのお方は、どうして私に対しては、こうも薄情なのだ。数限りない契りを交わした間柄なのだから、私のことだって、少しは思い出してくれても良さそうなものなのに・・・)
一方、ダルディンの方も、ミレイナと共に向かい側の長椅子に腰掛けた。
ダルディンは体を曲げ、頭を抱え込み
「そんな・・・私は、伯父上へ何と申し上げれば良いのだ」と、呻いた。
ミレイナは、苦悩するダルディンへ同情の眼差しを向け、次に高祖をきつい目で見つめた。
「大お祖父様、このままでは乾陽大公があまりにもお気の毒です。なぜ、リーユエンがこのような状態になったのか、せめて教えてくださいませ」
高祖は、肩を竦めた。
「リーユエンを苦しめる記憶が、綺麗さっぱりなくなったのだから、私は、良いことだと思うのだが、乾陽大公は、そうは思わないようだな。
よかろう、なぜ、記憶がないのか、教えてやろう」
高祖は、乾陽大公の方へ左手を差し出した。
「乾陽大公、そなたの手を私の掌に乗せなさい」
高祖が差し出す左手に、ダルディンは言われるまま右手を乗せた。
その瞬間、今まで味わったことのない、凄まじい激痛が身内を貫いた。ダルディンは、悲鳴を、歯を食いしばってこらえ、縦長に変じた眸を不穏に光らせ、高祖を睨みつけた。
しかし、高祖の面は穏やかで、何の悪意もなかった。
「これが、繭胎の中で、リーユエンが味わった苦痛だ」
痛みの残滓に顔を顰めながら、ダルディンは手を引っ込めて尋ねた。
「リーユエンが・・・味わった苦痛?」
「換骨変易法は、肉体を溶融し、作り替える術だと以前に説明したであろう。
肉体を溶融するのだから、苦痛が生じるのは当然ではないか。
これほどの苦痛を、凡人が耐えられると思うか?それも一度ではないぞ、何度も溶融再生が続き、苦痛が襲ってくるのだ。
苦痛に負け、命を失うか、恨み執着に囚われ、魔へ変じる者さえいるのだ。そなたは玄武だから、辛うじて耐えることができた。
だが、それにしたところで、たった一回の苦痛だ。
リーユエンはこの苦痛を何度も味わったのだ。それを乗り越えるために、己の心を捨て去ったのだ。己の記憶を全て消し去り、リーユエンという存在を無へ返した。そうすることで、ようやく苦痛を乗り越えたのだ」
ダルディンは、リーユエンが記憶を失った経緯は理解した。
けれど、まだ納得できなかった。
「失った記憶を取り戻すことはできないのですか?」
高祖にとって、この質問は予想の範疇だった。
直前まで、そんな方法はないと突っぱねるつもりだった。しかし、乾陽大公はあまりに真摯で懸命な態度を見せ、決して諦める様子もない。それにリーユエンに対する態度も、愛情にあふれ、真心があった。
その様子をみると、どうしても、もう何千年も昔になる、自分の息子、可愛かった黒皇子の姿が脳裏に甦り、邪険に扱うことができなくなった。
「リーユエンが記憶を失った。だが、リーユエンの記憶は、全て、私のつけた紋を通して、写しがつくられ、封印した状態で、彼女の心に戻しておいた」
「では、封印を解けば、記憶は戻るのですか」
一縷の望みが見つかり、ダルディンはすがる思いで尋ねた。
けれど、高祖は冷淡に答えた。
「記憶など不要であろう。
私は、リーユエンがどれほど傷つけられ、痛みに苦しんできたのかを知っている。そして、彼女が、猊下とやらに、何度も助けを求め呼びかけ、それに応えがなかったこともだ。
リーユエンは、絶望し切った状態で捨心したのだ。そこまで絶望して記憶を捨てた者に、それでは不都合だと、自分勝手な理由で、安易に記憶を取り戻させるのか?
そして、苦しむ女を放置した、猊下の元へ連れ戻すというのか?」
「伯父上は、決してリーユエンを見限ったわけではない。ただ、リーユエンの気持ちをー」
ダルディンの言葉を高祖は遮った。
「はっきり言う。
お前の伯父とやらに、リーユエンを返そうとは思わない。
リーユエンとの縁なら、私の方が遥かに深く、強いのだ。
彼女は、数千年前から数限りなく転生を繰り返し、私と夫婦の契りを交わしてきた。
私にとって、このお方はいつも変わらない大切な妻なのだ。そなたの伯父が何と言おうとも、私はリーユエンを我が手元に置く。それが、私の決定だ」




