9 換骨変易法(2)
リーユエンを横抱きにし、廊下を進む高祖の後ろへ従いながら、ダルディンは隣で歩くミレイナへ尋ねた。
「瑶池って、何?」
ミレイナは小声で答えた。
「瑶池は、内宮の奥庭にある王族専用の温泉なのよ。北殿のそばにあるわ」
高祖が、ミレイナへもう一度念押しした。
「このお方を瑶池で清める間、何者であろうとも、決して立ち入らせてはならぬ。このお方の血の芳香には、正気を保てる者などほぼいない。誰も近づけるな」
ダルディンは、高祖が誘涎香血の事を知っているようなので、驚き、警戒もしていた。
他に手段がなく、やむを得ないとはいえ、高祖にリーユエンを委ねてしまって本当に大丈夫なのかと、心配でならなかった。
内宮の入り組んだ廊下を渡り、北殿に到着すると、高祖は、奥庭へ降り立つ前にミレイナとダルディンを振り返った。
「この方の身を清め次第、私はこの方と神廟に、そうだな・・・一月ほど籠ることになるだろう。乾陽大公、それまで、内宮で長旅の疲れをゆっくり癒すが良い」
「ははっ、有難きお言葉」
ダルディンは、引き止められるものなら、今すぐ引き止めたかった。
けれど、リーユエンの心の臓は、高祖の法力の力でも半日しか保てない。引き止めてしまえば、死を待つしかないのだ。
「高祖、どうか、リーユエンの命を救ってやってください」
それが、彼に言える精一杯の言葉だった。
高祖が、奥庭の、前栽の向こうへ消えてしまうと、ミレイナは、小さくため息を吐いた。
「大お祖父様、何だか変だったわ。いつも冷めた態度で、取り乱したりなんて、絶対しない方なのに、リーユエンを見て、ものすごく動揺していたわ。
それも途中から急になのよ。大お祖父様が態度を変えられる直前、リーユエンの襟元を開けたら、すごくいい匂いがしたのよねえ。花のような、でも、もっとすっきりとして、透明な香だったわ。あれ、何だったのかしら」
ダルディンは額を抑え、呻くように言った。
「リーユエンの流す血には芳香がある。『誘涎香血』と呼ばれ、人外のものを、ことごとく惹きつける香があるのだ。まさか、あなたの高祖までがそれに引きつけられるとは・・・」
額に手を当て、うつむくダルディンへ、ミレイナは慰める言葉がなかった。
大お祖父様は、決して自分勝手なお方ではないが、その力はあまりに桁違いの強大さで、彼が一度決定したことならば、青大亀一族の中でそれを止めることができるものは、誰もいないのだ。
「あなたを、私の両親へ紹介するわ。
リーユエンの治療が済むまで時間がかかるでしょうから、ここでしばらく過ごすでしょう?
一緒に来てちょうだい」
ミレイナは、乾陽大公を連れて、両親である国王と王妃へ会いに行った。
謁見の間で、ダルディンを王と王妃へ引き合わせた彼女は、自分がウマシンタ川で救出された経緯から、今までの旅の模様も詳しく報告した。
王妃は、ミレイナを抱きしめ、
「よく戻ってきました。ウマシンタ川の守神としての務めも無事果たし、ご苦労でした」
と、喜んだ。
王は、ミレイナとよく似た、翡翠色がかった青眸をダルディンへ向け、
「王女を無事に東海蜃市へ連れ帰ってくれたことに礼を言う。
あなたの連れの方はひどい怪我を負っているそうだが、高祖の治療を受ければ、おそらく回復されることだろう。
それまで、この城内でゆっくり過ごされるが良い」と、言葉をかけた。
王も王妃も、ダルディンの若々しく精悍な姿と、身内から溢れんばかりの眩いほどの法力に、なかなか立派な若玄武だと、好ましく思った。
ただ、二人とも、ミレイナと連れ立って突然現れたこの玄武に、どうしても確かめておきたい疑念があった。
「堅苦しい話はこの辺までにしておこう。どうか、我が家同然と思い、くつろいでくれ」
王は、早速何気ない口調で尋ね始めた。
「乾陽大公は、北荒のご出身でありながら、はるばる東荒を旅してこられたそうだが、一体何の目的で、この地へ参られたのだ?」
ダルディンは予想していた質問なので、落ち着いて答えた。
「東海の常春の国において、青大亀ご一族を祀っていると聞き、もしや、我ら北荒の黒玄武の一族とご同族ではと思い、旅をしてまいりました」
王は、ミレイナ王女とどことなく似通う、眉間の広い大らかそうな顔に柔和な笑みを浮かべた。
「高祖が連れてこられた凡人は、あなたとどういう間柄なのだ?」
「あの凡人は、私の伯父である玄武国の元首、ドルチェン法座主の妃なのです」
王は、いよいよ疑念の核心へ切り込んだ。
「すると、あなたは、伯父の妻と共に旅を続けてきたということなのか?
まさか、それが原因で追われておったのか?」
王妃の方も、愛娘のミレイナが、この若者に対して並々ならぬ思いがあることを察し、この若者は信用に足りるのだろうかと、扇で顔を半ば隠しながら、その顔色の変化をじっと伺った。
二人が、ダルディンとリーユエンの間柄を疑い、逃げてきたのではと疑念を抱いているのは明らかだった。
ダルディンは、自分の立場はともかく、明妃であるリーユエンが、貶められるような事態は、絶対に避けたいと思っていた。
「伯父の妃であるリーユエンは、長らく中央大平原の隊商交易に出資をしております。
この度は、東荒に向かう隊商に参加したのです。
私は、その護衛を務めるよう伯父から命じられました。
元々、常春国のことについては、リーユエンが興味を持ち出したのがきっかけで、こちらへ来たがっておりましたので、隊商から離れて旅をしてまいりました。
途中で何度か襲撃にあったのは、本国の方で領地を巡る争いが起きていることの影響です」と、できるだけ誤解を招かない範囲で誠実に答えた。
ダルディンが、王と王妃の二人から詰問され、冷や汗をかいていた頃、高祖は瑤池にいた。
そこは、三丈四方の池で、半透明の玉石を敷き詰めた池の中央から、暖かい温水が滾滾と湧き出て、湯煙が水面を霧のように覆い、池の周囲には垂れ柳の翡翠緑の枝葉が、十重二十重の帷となって、入浴する者の姿を隠していた。
リーユエンを抱き抱えたまま、危なげない足取りで池へ入ると、高祖は、彼女の体から、血や汚れをそっと洗い流した。しかし、普段なら、湯で暖まれば薔薇色に変わる彼女の肌は、青白いままだった。




