37 これを最後にはしたくない
二つの世界が重なり始めて数日、変わらず紬のドアにかけてある札をOPENに変える。
街にはほとんど人がいなくなってしまった。外は今まで俺が目を背けていた、決して平和や平穏などではない世界が広がっている。
暗い空の下、特に何をするでもなく、コンロの薬缶に火をかける。空調を入れているとはいえ、どこか寒々しい店内に火が灯った。
不意に聞き慣れているはずのドアベルが鳴って、心臓が跳ねた。慌ててそちらを見れば、浮かない顔をした七海ちゃんがいて。
「コーヒー、飲む?」
ちょうど沸き上がった薬缶をコンロから外して声をかければ、七海ちゃんは小さくうなずいた。
薬缶を鍋敷きの上に置いて、ミルで二人分のコーヒー豆を挽いた。できるだけいつものように、ほんの少しの間だけでも、七海ちゃんの背負っているものを忘れられるように。
コーヒーを淹れ、ミルクを添える。ここにはもう、彼女のコーヒーに勝手にミルクを入れる人はいない。
「私、初めは巻き込まれただけだったんです」
「うん?」
「さくらに出会って、チュチュにプリズムパクトを与えられて、梨穂と一緒になって。本当は世界のことなんて考えてなかった」
ぽつり、ぽつりと零すように話すそれは、七海ちゃんが魔法少女になった経緯といっていいのだろうか。
まるで懺悔のような静かな声に、胸が苦しくなる。七海ちゃんの表情は、後悔とは言い切れないものの、どこか悲しみを帯びていた。
だから、なんとなく。七海ちゃんが本当は何を伝えたいのか、わかってしまった。
「ずっと静一さんの平穏が守れればいいと思っていた」
「うん」
「でも段々静一さんだけじゃなく、ヨルさんのことも守りたくなった。でもダメだった」
きっと。
七海ちゃんはヨルと決別をしてきたのだろう。
「私がヨルさんの願いを終わらせた」
そうか、そう。ヨルのことは、一区切りついたのか。
暗い表情のまま告げる彼女に手を伸ばす。
その隣には、ヨルがいたはずだった。からかわれるのが苦手だと言いながらも、七海ちゃんはヨルを慕っていた。
どうして七海ちゃんだったのか。何故ヨルだったのか。俺は何も知らないけれど、それでも。
「ヨルさん、好きな人がいたんだって。その人が、自分たちの世界を守るために命を懸けたから、ヨルさんも愛した人のために命を懸けたの」
「アイツらしいな」
「私、ヨルさんの言う覚悟はできてないんですよ。好きな人のためには死ねない。一緒に、生きていたい」
どんな会話があったのか、どんなものを背負うことになったのか、俺にはわからない。
けれど。
「確かに、ヨルは怪物の仲間だった」
「……」
「でもさ」
放置されたコーヒーがカウンターの上で静かに湯気を吐き出している。その温かみと、伸ばした手が触れた七海ちゃんのぬくもりが、同じものだといいのに。
そっと、七海ちゃんの頭を撫でて、笑いかける。
「楽しかったよな? ヨルと一緒にいて」
楽しかった。ヨルとの日々は。自由なヨルを眺めるのは、楽しそうに笑うヨルと七海ちゃんにコーヒーを振る舞うのは、楽しいものだった。
そういう思いを抱えて、皆別れを乗り越えていくのだ。笑い合って、納得し合って。
もう会えないのは寂しいけど、それだけではなかった。
「……、うん。うん! 楽しかった! 私、ヨルさんと一緒にいられて、楽しかったの」
「そうだな。うん、俺も。楽しかったんだよ。三人で一緒にいると」
「ヨルさんに、会えてよかった」
後悔や、やりきれなさはある。けれどそれ以上に、楽しかった。
笑う俺につられて、七海ちゃんにも笑顔が戻る。泣き笑いのような表情だった。くしゃくしゃと歪んだ、綺麗な笑顔だった。
これで良かったんだよ。
二人分の息遣いと、流しっぱなしのラジオの音声が微かに聞こえる。
静かに、ひっそりと。笑いながら、納得しながらも。心を落ち着けるのにはほんの少しだけ時間がかかった。
そうしてようやく落ち着いた頃、七海ちゃんが改めて口を開いた。
「チュチュの、準備ができたそうなんです」
「それって、あの裂け目の向こう側に?」
「はい。正直、どうなるかわからない。でも、必ず帰ってくるから」
穏やかな口調だった。
世界を背負っている強さを持つ目だった。
「そうしたらまた、コーヒーを淹れてほしいです」
七海ちゃんは、ヨルと同じ覚悟を持ってはいない。七海ちゃんが持っているのは。七海ちゃんの願いは。
強いなぁ。どうしてこう、真っ直ぐにいられるのだろう。
困らせたくない。それも本心ではある。
「行ってほしくないって言ったら困る?」
「静一さん……」
「はは、ごめんね。コーヒー淹れて待ってる」
離れたくない。遠くへ行ってほしくない。別れたくない。そんな、どうしようもない自分がまた顔を出す。困らせたいわけじゃない。ただ、また失うのが怖いだけ。
でも、七海ちゃんは帰ってくると言ってくれたじゃないか。ちゃんと、信じないと。
信じて、見送らないと。
「いってらっしゃい」
「……行ってきます」
「あ、ねぇ七海ちゃん」
ゆっくりと、冷めたコーヒーを飲み干した七海ちゃんが立ち上がる。
それを引き留めるように名前を呼んだ。
「愛してる」
だからどうか、無事に帰ってきてくれ。
残り5話!




