34 深呼吸と暗い空
七海視点。
大きく息を吸って、吐き出す。
二月の冷たい空気が肺を差した。かじかむ、というほどではないけれど冷えた指先に息を当てる。空色の手袋の中で、少しだけ、冷たいのがマシになった気がした。
相変わらず空は暗い。街の住人のほとんどが避難して、時計の針は日中を指しているにも街中は随分とひっそりしてしまっている。
イノセントジュエルを使えば、この二つの世界が重なり合おうとしている事態を回避できるらしい。
ただチュチュは、イノセントジュエルは無垢な心の者にしか扱えないとも言う。この間さくらが用いたのは、本来の方法ではなくエネルギー源として扱う方法だった。
その力で、さくらはカロンを倒した。
望んだ形ではなかった。さくらは特にどちらの世界も救いたいと言っていたから。
イノセントジュエルは浄化の力だってチュチュは言っていたけど、浄化の力って結局何なんだろう。どちらか一つの世界しか救えないのに、何を持って奇跡と呼ぶのか。奇跡なんて、本当はないんじゃないか。
「何か、お悩みですか?」
「梨穂」
「私で良ければ、聞かせてください」
いつの間にそこにいたのか、梨穂がいつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
おっとりしているというか、マイペースというか。空が真っ黒になったとしても、梨穂はいつもの調子で。それがなんとも安心する。
「イノセントジュエルについて考えていたの」
「二つの世界を救う方法、ですか?」
「うん。それもあるんだけど、本当に、奇跡を起こせるのかなって」
「……確かに、チュチュはイノセントジュエルの代償を詳しく教えてくれませんが、でもそれは、私たちが不利益を被ることではない、はずです」
いつものように、笑いながら、少しだけ不安を隠すようなそぶりで梨穂が言った。
そっか。私はチュチュが隠し事をしているなんて思いもしなかったけど、そういう風にも考えられるのか。そして梨穂は、隠し事をしていてもチュチュのことを。
「信じたい?」
「そう、ですね。うん。私は信じていたいんです」
はっきりと、今度はしっかり口角を上げて笑った梨穂につられて笑みを作る。
チュチュの隠し事については後で考えよう。だって今は仲間であるチュチュを疑っている時間はないんだ。
私たちはこれからバイデントたちや残りの破壊の使者と戦わないといけない。
そのためにも、今私が考えないといけないことは。
「私ね、ニクス……、バイデントたちには悪い奴でいてほしかったの」
「悪い奴、ですか?」
「うん。大きな目的なんて無くて、ただ自分たちの気分で街を壊しているんだと思いたかった。だってその方が、なんの気兼ねもなく戦えるじゃない?」
正しい自分でいたかった。ちゃんとした人になりたかった。自分は間違っていないって、胸を張って言いたかった。
でも何が正しいかなんて、人によって違うらしい。
ニクスにも、願いがあって、貫きたいものがあった。そのために戦っているのだと、知ってしまった。
「でも、あの人たちにも事情があった。ちゃんと苦しんで、出した答えがあった」
「七海ちゃん……」
「だとしても、私の大切なものを脅かすなら、許容はできない。ちゃんと向き合って、私なりの答えを貫きたい」
それがどんなに苦しくても、手が届かなくても。
この気持ちをぶつければ、きっとニクスも自分の気持ちをぶつけて来てくれるはずだから。
「七海ちゃんは強いですね」
「……、知ってた? いい女は逃げないものなのよ?」
ニクスの受け売りだけど。
私も、逃げたくないの。
「ありがとう。七海ちゃんの話を聞いていたら、私の方が頑張らないとって思いました」
「そう? ならよかった。さくらのことも心配だけど、一度私たちも帰りましょうか」
「そうですね。家族にも、心配をかけてしまっていますし」
ぐっと伸びをする。息を吐けば、いくらか体に入っていた力が抜けた気がした。
今はお互いに別々の避難所から合流して、裂け目の向こうへ行くための準備をしている。と言っても、街にいつも以上に現れるようになったバイデントとの交戦だけど。
梨穂と別れ、人のいない道を歩く。
空が暗くなったといっても、一度に現れるバイデントの数が増えたわけではない。ただ頻繁に現れるようになっただけ。
裂け目が現れたといっても、バイデントたちが強くなっているわけでもない。むしろ力の弱い、それこそ体の部位が欠損したような者たちまで現れるようになった。
きっと、プルートも後がないんだ。
ニクスたちも決死の覚悟で、世界を守ろうと戦っている。ちゃんと、その覚悟に向き合わなくては。
息を吸って、吐いて。
黒い空を見上げる。
空の裂け目は変わらずそこにある。
ひび割れた向こうは相変わらず荒廃した土地で、そのすぐ手前。こちら側の世界の建物の上に、見慣れてしまった人影を見た。
「ニクス」
「はぁい。会いに来てあげたわよ」
風に誘われ、長い黒髪が揺れる。
最初は少し苦手だった。いつも意地悪ばかりで、静一さんとも仲が良くて、嫉妬していた。けれど同時に、憧れてもいたの。
自分に素直で、ころころと表情が変わって楽しそうに笑うあなたに。
あぁ、あの人が。優しい目をした悲しい人が。
私のよく知る顔で笑った。
ここから暫く七海パート




