26 蓋
そういう時期、というやつなのだろうか。
にこにこと笑いながらコーヒーを嗜む七海ちゃんに悟られないように表情を固める。
何がどういう理由なのかはわからない。ただ、七海ちゃんの言った、「好きな人がいる」という言葉がずっと頭の中に繰り返されている。
年頃の女の子なので何もおかしな話ではない。にもかかわらず、何故俺はこんなにも衝撃を受けているのだろうか。
妙にざわざわとする胸の内を押さえつけて、そっと息を吐く。
七海ちゃんはいい子だし、きっとその人とも上手くいくだろう。そう伝えるべきなのに、うっすらと開けた口からは微かな息が漏れるだけで音は乗らず。そのまま何度か呼吸を繰り返し、閉口した。
その人と上手くいったら、七海ちゃんもここには来なくなるのだろう、なんて当たり前のことを考えながら。
「そういえば紬って、年末はいつまで開けているんですか?」
「一人だと特にやることもないし、三十日までは開けようかなって思ってるよ」
「ぎりぎりまで開けてるんですねぇ」
さすがに大みそかは掃除をするが、どうせ一人なのだしわざわざおせちの準備もしない。あぁ、でも伊達巻と黒豆だけ買おうかな。小腹が空いた時にでもつまめるし。あと年末になると値段が三倍近くになる、かまぼこも。
しばらくの間引きこもる場所が、紬から家の中に変わるだけだ。大した変化はない。
うん、今まで通りだな。平穏や普通でありたいと、周りとの過度な関わりを拒否して、自分の殻に閉じこもり、紬と自宅のみの生活をしてきた。その延長線。
俺は七海ちゃんと違い、逃げや見ないふりが得意なんだ。今までも外界をほぼ遮断するような生活を続けてきた。それは平穏ではあるけれど閉じ籠っているだけでしかないと知りながら。
一度ヨルに自分の状況を突きつけられてからは、そんなことばかり考えてならない。意識して見ていなかった世界を目の前に突き付けられた気分だ。
わかっていたが、世界は俺が思っているよりも平和じゃなくて、いつも誰かが悲しんでいる。自分が直接被害を受けていないからと目を背けてきたものを、ヨルはちゃんと見ろと言った。
その理由は、今もまだわからない。
きっと七海ちゃんなら、こんな風に悩むことはなかったんだろうな。
七海ちゃんは俺とは違う。向き合える強さを持っている。向き合って、自分で乗り越えられる人だ。自分とは住む場所の違う人。けれど。
彼女はそんな俺を友達だと言ってくれた。
恐らく七海ちゃんの友達の中で一番友達甲斐のない人物だろうに。でもその笑顔が眩しくて、失いたくないと思ってしまった。
「ね、じゃあ。クリスマスも空いてますか?」
「え? うん、そのつもりだけど」
「そっか。じゃあプレゼント持って遊びに来ますね」
無邪気に笑う七海ちゃんにつられて口角を上げる。
これは多分、ロスタイムのような何かだ。限られた時間の中で、どれだけ俺の気持ちが整理できるか。その先で俺は、七海ちゃんが紬に来なくなるその日に、ちゃんと笑顔で見送れるだろうか。
「ムリに時間を造らなくても大丈夫だよ。俺は特に用事もないから、ほとんど店にいるし」
「ムリはしてないです。さくらたちとは別の日にクリスマス会をする予定だし、私が来たいから来るだけなので」
「そっか」
なんとなくそわそわしている自分を隠したくて、手元のカップに口を付けた。少し冷めたコーヒーにはほのかな苦みがあって、それが妙に心を落ち着ける。
大丈夫。これまでと何も変わらない。自分の中に湧きあがってきた不純なものを押さえつける。この平穏をかき乱すものに、名前は付けない。そもそも、こんなものを向けてはいけない。
「じゃあ俺はケーキでも用意しておこうかな」
「ほんとですか? ふふ、楽しみにしてます」
ぱっと表情を明るくする七海ちゃんに、また少し心がざわつく。この笑顔を曇らせないように、しっかりと、意識して笑顔を作る。
やり過ごすのは得意だ。このままではいけないとヨルにも言われたが、それでも今まで培ってきたやり過ごす方法がこんなところで役に立つとは。全くもって嬉しくもなんともないがな。
好きな人がいるから自分は無敵だと言った女の子は、その言葉の通り俺の痛いところを何の気なしに刺激する。ここに居てほしいような、遠く離れてほしいような。矛盾した感情に嫌気が差す。
ただその無邪気さが眩しくて。人が輝いて見えるって、こういう感じなんだなと見当違いのことを考えていた。
「静一さん」
七海ちゃんが俺の名前を呼ぶ。
きっと彼女は俺が何を考えているかなんて知る由もない。俺も、ぐるぐる余計な考えに頭を割いて、半分も七海ちゃんの話を聞けていない。
よくないとわかってはいるのだが、長年家と紬に引きこもっていたのであまり人とのおしゃべりが得意ではないんだ。不意に意識がそれることを許してほしい。
目の前で、眩しい少女が笑う。
離れていくのが嫌なら自分から手放せばいいのに。今まではそうしてきたくせに、今回に限ってそういうこともできない。かといって無理矢理押さえつけている感情の蓋を取っ払って、そのまま撒き散らす勇気もない。
ああ、嫌だな。
俺はまた、手を伸ばせないままでいるんだろうか。
まだその感情に名前を付けたくない。




