20 常にもがな
数日たっても、ヨルが再び紬に顔を出すことはなかった。
俺の日常の変化と言えばそれだけで、ヨルが来なくなっても変わらず明日になるし、相変わらず紬に客はほとんど入らない。
ヨルが来る前に戻っただけなのに、何かが足りない。何か、なんてわかり切っているのに、我が事ながら白々しくてため息が出る。
ふっと吐いた息とほぼ同時に、カラコロと控えめにドアベルが鳴って見慣れた人が紬を訪れた。
「えっと、こんにちは」
「うん。いらっしゃい、七海ちゃん」
ヨルと、仲の良かったもう一人の友人が、慣れたように顔を覗かせた。
大丈夫。ちゃんと笑えているはず。慣れた手付きでミルを取り出して、手元に置いた。
「飲むでしょ? アイスとホット、どっちがいい?」
「じゃあ、ホットで」
「了解。最近涼しくなってきたもんね」
十月も来週で終わり。
日中はまだ温かいが、朝晩はすこしひんやりする日も増えてきた。そろそろ冷凍庫の氷はお役御免になるかもしれない。
コンロに薬缶を乗せてカウンターに戻れば、七海ちゃんがそわそわと椅子に座っていた。
ザラリとコーヒーミルに入れた豆を挽いていく。豆を挽いている時間は無心になれるから好きだ。惜しむらくは、そんなに長い時間ではないことだな。
ミルで挽いたコーヒーをドリッパーに乗せ、サーバーをセットする。ちらりと盗み見たキッチンではまだお湯が沸いていなかったので、その間にカウンター後ろの食器棚を振り返った。
カップとソーサーを二組。もう一つ選びそうになるのを堪えて、カウンターの手前に置く。
七海ちゃんは、ヨルがどうしているか知っているんだろうか。もし何も聞いていないのなら、それは、寂しいことなんじゃないだろうか。
少なくとも俺は、まともに言葉も交わせないまま両親を見送ったことを後悔している。状況が違うと言われればそれまでだが、ヨルがもう紬に来ないつもりなら、少なくとも俺の狭い世界にはもういないのと同じだ。
キッチンに薬缶を取りに行って、戻ってくる。ゆっくりとお湯をドリッパーの上のコーヒーに注ぎながら、香りのいい空気を吸い込んだ。
「ヨルと、最近会った?」
「え? あ、それは、その」
「もう紬には来ないって」
「そう、でしたか」
どこかであったのか、知っていたのか。曖昧な、けれど少し落ち込んだ表情の七海ちゃんに、そっと入れたばかりのコーヒーと、ミルクピッチャーを渡す。
本人の矜持としては、そのままで飲みたいのだろうけど、ヨルがいつも七海ちゃんのコーヒーに勝手に入れていたから、つい渡してしまった。
「何か、ヨルさんは言ってましたか? 理由とか」
「事情が変わったんだってさ」
結局俺は、ヨルを何も知らないままだったな。どこに住んでいて、どこで働いているのかも。知っているのは紬で過ごすわずかな間のことだけ。
七海と知り合うまでヨルは、紬に来ても静かにコーヒーを楽しむだけだった。それが七海と知り合い話をするうちにコロコロと表情を変えよく笑う女性だと知った。
その人がもう、紬には来ないと言った。何かしてしまったのだろうか、不安はある。けどそういうことははっきりと言ってくれる女性だという確信もある。
だから事情が変わったと言うのは、本当のことだろう。どういう事情かまではわからないが。
本当は引き留めたかった。そのための言葉を持ち得ていなかった。ヨルは自由な人だった。引き留めたところで、きっと自分の意志でどこかへ旅立ってしまうだろう。
憧れ、ていたのかもしれない。俺たちの間にあったのは、とても奇妙な友情だった。
「事情、か。……ずるいですよね」
「うん?」
「勝手に引っ掻き回しておいて、勝手にいなくなって」
七海ちゃんはヨルに懐いていた。
からかわれるのが嫌だと言いながら、よく相談もしていたようだし、同性というのもあって何かと気も合ったんだろう。そんな七海ちゃんにも、ヨルはほとんど説明もせずに姿を消してしまったのかもしれない。
じっと見つめていたコーヒーを手に取り、七海ちゃんが一口飲み込んだ。
それから、カップをソーサーに戻して、困ったように笑うのだ。
「ふ、ふふふ。やっぱり私、まだミルクがないと、飲めないみたいです」
「そっか。うん、そうなんだ」
つられて口元が緩むのを感じる。
頻繁に、というか二人揃った時は毎回、ミルクを入れる、入れないの攻防があった。そのままでも飲めると言い張る七海ちゃんと、勝手に七海ちゃんのコーヒーにミルクを入れるヨルの。
そのやり取りを毎回怒ってはいたが、七海ちゃんは楽しんでもいたんだろう。多分、俺も。
「あーぁ、嫌になっちゃう。ブラックコーヒーも飲める大人な私になりたかったのになぁ」
「別に、ブラックで飲めるからって大人なわけじゃないよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
だって俺は逃げてばかりだ。逃げて、見ないふりをして、閉じこもってやり過ごす。こんな俺が、大人であるわけがない。
もう一口、ミルクを入れずに飲んだ七海ちゃんが寂しそうに笑った。
「ふふ。苦いなぁ」
コーヒーの香りと共にじんわりと広がったその呟きに、ほんの少し、胸が痛んだ。




