16 金屈巵
「私、もうここには来ないから」
それはもうあっさりと、そこに何の後腐れもないようにヨルは言い切った。
にっこりと、赤い口紅の乗った唇が弧を描く。
「は?」
思わず漏れた声は、自分で思っていたよりもずっと間の抜けた音をしていた。
待て、なんだ。えーっと。それは、どういう意味だ?
伺うようにヨルを見れば、彼女は呆れたような、けれどいつものコーヒーを見つめるような優しい目をしていて。ますますわけがわからなくなる。
「言葉通りの意味よ」
「言葉通りって……忙しくなるのか?」
「事情が変わったの」
事情、か。まぁ、それなら仕方がない、のか?
俺とヨルはただの喫茶店の店主と客でしかなくて、俺が一方的に一緒にいて楽な相手と認識しているに過ぎない。何なら俺は、ヨルが普段何処で何をしているのかも知らないのだ。
所詮は店主と客。事情があってもう店に顔を出せないと言うのなら、そこまで。何も言わず、二度と店に訪ねないこともできるのに、挨拶をしてくれただけ心の整理ができて良いじゃないか。
きっと、七海ちゃんが出ていった後で話したのも、変に気を遣わせないためだろう。
だって、ヨルはいつも陽気な女だった。ころころと表情を変えて、あちらこちらへと話題を変えるおしゃべりな奴だった。
あけすけに物を言うから、ちょっとムッとすることもあったが、悪い奴じゃなかった。
「いつ頃、落ち着きそうだ?」
「言ったでしょ。ここ来ないって」
「そう、か。……寂しくなるな」
そう言っては見たものの、まだヨルが紬に来なくなるという実感はない。ただ、口に出す言葉の一々が、腹の底で澱のように残って重い。
可笑しいな。ヨルが来る前の、あの静かな紬に戻るだけのはずなのに。酷く億劫だ。
自分でもわかっていただろう?
ヨルは自由だ。好きな時に来て、好きなところへ行く。そういう強い人だ。
「顔を上げなさい、セーイチ」
促されるままに視線を上げる。
変わらず、呆れたような、優しい目をしたままの彼女がそこにいた。
「何、しょぼくれた顔してんのよ」
「してねぇよ。んな顔」
何の説得力もない返事をして、息を吐く。誰かと別れるのは慣れているはずだった。祖母は物心つく前からおらず、両親も小学校の頃に交通事故で。育ててくれた祖父は大学在学中にと、孝行をする前に皆いなくなった。
だから、今更誰との別れが来ても、平気だと思っていたんだがなぁ。
「アンタがここで、何にもせず、平和に暮らしたいって思うのは悪いことじゃないわよ? でもね」
創作物の中で悪役が永遠を求めるのは、こういう経験をした結果なんだろうか。なんて、バカなことを考える。いい大人が、そんなものを求めて何になるんだ。
いつもはカラカラと笑う弾む声が、今は落ち着いた声色で、静かに唱えられた。
「ちゃんと自分の目で物事を見なさい。でないと、アンタはいつまでたっても一人っきりよ?」
一人、か。それでいいと思っていたんだがな。だってそうだろう? 最初から一人なら、誰も失わない。紬に閉じこもっていれば、何も見る必要はない。
ここには、昨日も今日も明日も変わらない静かな日常が続いている。暑かろうが寒かろうが、外で怪物が暴れていようと関係ない。
スーパーマーケット一体の土地の貸し出し代で、特に何もせずとも生活に困らない収入もある。わざわざ、外に出て何かしなくても何の問題もないのだ。
だから。
「誰だって傷付きたくないわ。でもそれだけでは、何も手に入れられないのよ」
そう、念を押して。でもそれだけではいけないことを警鐘を鳴らして、ヨルはそっと息を吐いた。
一人でいいと。変わらない日常が続いていくんだと、ずっと思っていたんだけどなぁ。
かたりと、椅子を引いてヨルが立ち上がる。肩にかかった長い黒髪を適当に後ろに払って、笑った。
何か、言わないと。これで最後なら。ちゃんと、そう思っても、何の言葉も浮かんでこなくて。中途半端に伸ばしかけた手を、結局握るしかできなかった。
「待って」
「アンタのコーヒー、好きだったわよ」
勝手な奴め。言いたいことだけ言って、こっちはお前のこと何もしらないんだよ。だから、引き留める権利なんて、持ってすらないんだよ。
こちらに背を向け、ヨルが紬のドアをくぐる。ドアベルが来た時とは対照的に、軽やかな音色を響かせた。
音が消えたような一瞬の静寂。
呆然とする俺の気なんて知らないとばかりに、流しっぱなしのラジオが、午後の天気を知らせていた。今日も晴れ。残暑の暑さが残る一日。熱中症には十分注意してください。
そんな、俺にはほとんど関係ない言葉の羅列を聞き流す。
息を吐いて。崩れるように、カウンター裏に持ち込んだ椅子に深く腰を落とした。
結局いつもこうだ。これでいいと、一人でいいと言い聞かせてきたくせに、いざ別れが来るとぐだぐだ考えて、変なプライドが邪魔をしてみっともなく行くなと喚くこともできない。
何気なく視線を投げた先にはヨルが使っていた、何の変哲のない、グラスがそこに。
半分ほど残ったアイスコーヒーと氷を抱えて、静かに座っていた。
サヨナラだけが人生だ




