37 私ばっかり
梨穂視点。
見上げた空はどこまでも暗く、重たい何かがお腹の奥に居座っている。
これからあの空の裂け目へ行くと言うのに、ものすごく嫌な気持ちのまま。こんな気持ちであの向こうに行かなくてはならないのかと思うと、気が重い。
裂け目の向こう。プルートは酷く荒廃した世界らしい。なんとなく、今更になってP5が子供っぽかった理由を察した。
多分、情緒的なものを育ててくれる人がいなかったんだ。だから褒めてくれるクライドに懐いていて、時計をくれた英時君に懐いた。
英時君と出会ったことで、P5は執着という情緒的成長をしたけれど、私たちの対応はあれでよかったのか。もっと何かできたのではないのか。何もかもが足りなかった。
この間違え続けた経験は、きっといつまでも私たちの中に残るだろう。
ふっと息を吐く。肩口で、いつの間にか現れていたチュチュが私を見上げていた。
「不安?」
「そう、ですね。まだ何も、私の中で整理できていないので」
ここ数日、チュチュはずっとプルートに行くための準備をしていた。環境が違い過ぎるからそれに適応するための、調整が必要だったらしい。
あちらとこちらの環境の違いはわからないけど、それが必要なほどに環境が違うのなら、結局私と英時君はP5の望む通りにはできなかったのだろう。
「梨穂は叶えたい願いはあるノ?」
チュチュが、小さな声で呟いた。
待ち合わせ場所の学校には、少し先のグラウンド内でさくらちゃんと七海ちゃんがすでに合流しているけれど、きっと二人にはこの会話は聞こえていないのだろう。
私も人のことを言えなかったけれど、チュチュはイノセントジュエルについて、秘密にしていることがある。自分も言えないことはたくさんあった。だから聞かなかった。
自分だけ、戦っている相手から一緒に来ないかと誘われているなんて、さすがに話しにくいし。
「叶えられなかったものなら」
「それは、もう叶えられないものなノ?」
「……はい」
「そっかぁ」
そうだ。もう叶えられないもの。私たちはもう二度とP5と会うことはできないし、一緒にいることもできない。
ダメね。間違えてしまうなら、思いっきり間違えようと決めたはずなのに、まだ苦しい。この苦しみを抱えていかなきゃいけないのに、つい投げ出してしまいたくなる。
「願いを叶えるには代償が必要。けれど、あの場所は無垢ではなくとも、純粋な想いがあった」
「チュチュ?」
「ならば、場合によっては、イノセントジュエルを使える者は他にもいるのかもしれない。だとしても」
何かを思いつめたような表情をしていたチュチュが、困ったような、苦しそうな顔をして私を見上げた。何かを決意した顔だった。
チュチュが何を言いたいのか、何をしようとしているのかはわからない。ただ、嫌な予感だけがした。
「イノセントジュエルは、無垢な心を代償としてしか願いを叶えられないワ。そして今、正しくイノセントジュエルを使えるのはワタシだけ」
ふわふわと、手触りの良いウサギのぬいぐるみのような体で宙を浮きながら、チュチュが笑った。にっこりと笑って言い切った。
空は暗いまま。私の足が、学校の校門前に張り付いたみたいに重い。
なんとなく、のどの奥がカラカラに乾くのを感じながら口を開く。
「無垢な心を失うと、チュチュはどうなるんですか?」
「……」
にっこりと笑ったまま、チュチュは何も答えない。チュチュが隠していたことはこれか。きっといいことではないんだと思った。
どうして、わたしばっかりこんなに嫌な気持ちにならないといけないのだろう。
チュチュは笑っているはずなのに、どこか諦めたような顔をしている。
無垢な心を失うと、どうなるのかはわからない。けれど、本当はチュチュも嫌なくせに。なんで私たち、こんなところまで似てしまっているんだろう。
「隠していてゴメンナサイ。それから、一つだけお願いがあるノ」
きっと、嫌だって言えない。
断れないお願いをされることだけはわかった。
「クライドを倒したら、プルートは崩壊するノ。でも今のまま、プルートが崩壊してしまえば、その余波がこちらの世界にも広がってしまうワ」
「そこで、チュチュが……イノセントジュエルを使うと?」
「ええ。イノセントジュエルを使って、重なった二つの世界を分けるワ」
それでこの世界は救われる。暗くなった空も、あの空の裂け目も元通りになる。
けれどそうしたら、チュチュは。
「その時、サクラとナナミが私を止めようとしたら、二人を説得してこの世界に戻ってきてほしいノ」
いやだなぁ。
私は、ただ。みんなに傍にいてほしいだけなのに。何事もなく、普通に、皆で一緒にいたいだけなのに。皆いなくなってしまう。
「……わかりました」
「アリガトウ! さぁ、サクラたちのところに行きましょう!」
嫌だって言えない。きっとこれも正解なんかじゃない。
チュチュも、相談する相手を間違えているのよ。私は、そんなにうまく納得できないのに。嫌な物も嫌だって言えないだけなのに。それでもやらなきゃいけないことばかりが目の前にあって。
息を吸って、吐く。数歩前を行くチュチュが、さくらちゃんと七海ちゃんに声をかけるのを見ながらいつものように笑顔を張り付ける。
あーあ、どうしてこうなるんだろう。




