十話.霧と風
「んに。朝だ…ふゎ」
「おねえちゃん、起きたの? おはよう」
「くーちゃん。おはよう」
桜花は樹の床で横になったまま、胸元の紅葉を撫でる。
目を閉じて、受け入れる紅葉。
穏やかに、眠気を溶かしていった。
床に座り、手を合わせた桜花たち。
「ごちそうさまでした。緑のウサワタも、おいしかったね」
「うん。さっぱりした甘さだった!」
向かい合って、桜花を見上げる紅葉。
ふと、桜花の顔の隣を見つめる。
「おねえちゃん。髪の毛がほぐれてるよ」
「ありゃ。――ほんとだ」
両手で桜色のツインテールを持ち上げて、確かめる桜花。
ヘアゴムがずれて、結び目の根元が膨らんでいた。
ツインテールをほどいて髪を下ろす。
細い髪を、手櫛で整えていった。
「むぅ。…鏡、ほしいね」
「ここにはないもんね…」
手櫛を通した髪を、結び直そうとする桜花。
「…上手く結べない。ゆき姉にやってもらってたもんなぁ」
髪をまとめてヘアゴムで結ぶこと、数度。
二つに束ねた髪を、手で持ち上げて紅葉に見せる。
「どう? くーちゃん。上手く結べてる?」
「…少し右側が大きいのと、…結んでるところが、いつもより低いような?」
「そっかぁ」
ツインテールの先っぽを目の前に、見比べる桜花。
「――まあ、いまはいっか!」
「…でも、おねえちゃんはいつもかわいいよ?」
「わ、えへへ。くーちゃんもとっても可愛いよ!」
スニーカーが、樹の床を二度叩く。
桜花と紅葉が、星樹の道に立つ。
「今日も、行くよ!」
△▼△▼△▼△▼△
樹の通路を、歩き続ける。
転がる緑色のウサワタの横を、通り過ぎた。
「少し、霧が出て来たね」
「うん…。くれはの毛が、しっとりしてきちゃった」
桜花たちの視界に、ぼんやりとした靄が混ざり始めている。
登るにつれて、深くなる霧。
「おねえちゃん、白くなってきたよ」
「うん。前が見えなくなってきてる。――そうだ!」
制服の腹のあたりを指でなぞり、魔法陣を描く。
桜色の魔法陣が光った。
『クリーン』
声と同時に、桜花を中心とした光の球が膨らむ。
球の周りの霧が、晴れた。
「わ。魔法の中だけ、しっかり見えるよ」
「…外はあんまり見えないけど、少し見えるようになったね!」
歩く桜花と共に、腹の魔法陣と魔法の球が動く。
しばらく進んだ頃、立ち止まった。
「どうしたの?」
「ちょっと、ずっと魔法を使ってるのは大変かも。いま私たちが使える魔法は、ふぁいやと、えっと…」
指を立てて、首を傾げる。
「ネムさんに教えてもらった、つむじ風と飲み水、毒調べと、3C魔法だね!」
「くーちゃんえらいっ。――うん。やっぱり、見えるのはクリーンくらい、かな?」
そう言って、魔法の球を消した桜花。
周囲の霧がゆっくりと包み込む。
「それなら、くれはが使う?」
「うーん。マナが切れちゃうかもだし、このままゆっくり進もう?」
進むにつれて、霧が、より深く白くなる。
ほんの少し先が、見えない。
慎重に進んでいく。
白い霧の層、服が濡れて重い。
「服が張りつく…びしょびしょだ!」
制服の上着を脱いで、ポーチの中にしまう桜花。
「くれはも、痩せちゃった」
紅葉のもこもこだった毛皮は濡れて、ほっそりしている。
桜花は、紅葉を抱き上げた。
「ほんとだ。もこふかが、すべつるになってる。あはは」
「びしょびしょだよぅ」
「はぐれないように、このまま行こうか」
「うん!」
深い霧が辺りを埋めつくして、少し前が見えない。
慎重に、歩を進める。
白に、一瞬だけ黒が横切った。
立ち止まり、紅葉を地面に降ろす桜花。
「なにか…影みたいなのがいた。くーちゃん、大きめのクリーンをお願い!」
「まかせて!」
紅葉が、地面に魔法陣を描く。
てしてしと、前足で地面を叩いた。
『クリーン』
紅い魔法光が広がり、光の球が大きくなる。
紅葉たちを中心として晴れていく霧。
霧のなくなった通路では、大きな魚が浮いていた。
「空魚だっ」
空中を優雅に泳ぐ魚は、尻尾がとても大きい。
いそいそと、魔性図鑑を取り出す桜花。
図鑑を開くと、光るページ。
パラパラとページがめくれ、一つのページで止まった。
「くーちゃん、空魚じゃなくて霧魚なんだって!」
「きりうお? どう違うの?」
「うーん。霧の中で泳いでいて、尻尾が大きい? 食べてみたら、わかるかも!」
瞳を輝かせて、霧魚を凝視する。
音もなく泳ぐ霧魚を、あっという間に捕獲した。
霧の海の中、パチパチと炎が燃える。
魚の焼ける、香ばしい匂い。
枝に刺した霧魚に、焼け色が付いている。
「すっごく、いい匂い!」
「くれは、お腹がぺこぺこ」
桜花のお腹の音が、控えめに鳴った。
「えへへ。私もだ」
お腹を押さえながら笑う、桜花と紅葉。
二人の周りは、魔法の球に包まれて霧が無い。
霧魚が焼けるのを、じっと待った。
「焼けたかな」
「たぶん」
焦げ目の付いた霧魚を、両手で抱えて星樹の葉の上に乗せる。
「葉っぱ、何枚かもらっておいてよかったね」
「食器になるね!」
葉の上の霧魚をカゼハバネで、切り分けていく桜花。
切れた身から、湯気が上がる。
淡白な魚の、焼けた香り。
魚を前にして、両手を合わせた。
「食べよう! いただきます」
「うん。いただきます!」
大ぶりの切り身を、いっぱいに開いた口で頬張る。
淡白で柔らかい身から、強い旨みが広がった。
「もむ。もむむ」
「あふい!…はむ」
喋れないほど詰め込んだ身をしっかりと噛み締め、ごくりと飲み込んだ。
顔を見合わせる二人。
「ほっくほくで、おいしい!!」
「じゅわっとしてるよ、おねえちゃん!」
次の切り身を手に取って、口に頬張り、嚙み締める。
霧魚は、桜花たちの腹の中に収まった。
「く-ちゃん、またすべつるになっちゃったね」
「おねえちゃんも、また濡れてる」
「えへへ。そんなこともあるよね」
桜花たちは再び、湿った樹の道をゆっくりと進む。
視界は、変わらず白い。
「んに。壁が広くなった、かも?」
「クリーン、使う?」
「ありがとう。…そうだ、私の体に描いてみて!」
「うん。わかった」
紅葉が桜花の胸元に魔法陣を描く。
桜花の制服の上で、紅い魔法光が広がると共に、霧が晴れた。
樹の天井が露わになり、広い部屋が見れるようになる。
「わあ。海の中みたい!」
「いっぱいいるよ、おねえちゃん!」
ここでは多くの魔性が、静かに潜んでいた。
樹の天井には、何匹ものエイのような魚が貼りつくように泳ぐ。
床では桜花よりも大きな亀たちが、足音を立てることなく歩いている。
遠くで一匹の亀が、ウサワタを丸のみした。
「乗れるかな?」
「お、おねえちゃん…?」
「たぶん、大丈夫」
近くにいた亀にゆっくりと近寄って、おそるおそる甲羅へ手を伸ばす。
ひんやりとした灰色の甲羅を撫でると、つるりと滑らかで硬い感触。
「…大人しいね」
「んに。大丈夫みたい。――ちょっとだけ、お邪魔します!」
紅葉を肩に乗せた桜花が手足を使って、甲羅の出っ張りを登っていく。
甲羅の上に乗ると、ちょこんと座った。
桜花の膝の上には、紅葉が座る。
「すごい! すごいよ、くーちゃん!」
「うん!…わっ」
亀は桜花たちに向かって首を伸ばした。
目が合った桜花は微笑んで、甲羅を撫でる。
じっと桜花たちを見ていたが前に向き直り、歩き続ける亀。
「乗せてくれてありがとう。…すべすべだね、甲羅」
「びっくりしたぁ」
そのまま、撫で続ける桜花。
何度か撫でていると、ポロリと一枚の甲板が剥がれた。
「あっ。取れちゃった!」
「えっ」
両手で甲板を持ち上げる。
亀は振り向くこともなく、歩き続けている。
「硬いのに…すごく軽い」
「…魔性図鑑、読んでみる?」
「うん」
ポーチから取り出した魔性図鑑を開いて、めくれたページを読む。
「うに。――甲羅炭カメって言うんだって。軽くて硬い甲羅は燃えやすくて、一枚ずつ脱皮するみたい」
「それで、取れたんだね。よく見ると、地面にもあるよ」
「わあ!…あとで、何枚かもらっていこう」
ポーチに図鑑と甲板をしまって、甲羅炭カメの背中でうつ伏せになる。
小さな揺れが、眠気を誘う。
△▼△▼△▼△▼△
霧の立ち込める、星樹の部屋。
桜花が両側のツインテールを持ち上げる。
「今日は、うまく結べたかも。くーちゃん、どうかな」
「うーん。…左の方がすこし大きいかも。それと、いつもより高め?」
「そっかぁ」
ツインテールから手を離して、毛先を見比べた桜花。
頷いてから、つま先で二度、床を叩く。
紅葉を抱き上げて、明るい笑顔を向ける。
「よし、行こうか!」
「うん!」
桜花たちは今日も、星樹の道へ踏み出した。
白い視界の続く、少し湿った樹の道。
桜花が、呟いた。
「風が出てきた、かも」
「霧も、薄くなってきたよ」
そよ風が、髪を揺らす。
登るにつれて、段々と霧が消えていった。
何度か分かれ道を進んで、そして――
「わ」
霧が晴れた。
風が、桜花のツインテールを靡かせる。
制服の裾ははためき、紅葉の毛並みが揺れている。
「風が強いね! 気持ちいい!」
「うん!…でも濡れてるから、寒いかも」
「んに、そうだね。火であったまってから、乾かしていこうか!」
紅葉を床に降ろして、辺りを見渡す桜花。紅葉も、それに倣う。
「どこで休もうかな――っ!」
「おねえちゃん?」
「…くーちゃん、下がって」
通路の先に目を向けた桜花が、カゼハバネの柄に手を添えた。
桜花の視線を追って、それを見た紅葉。
森林ウルフが、居る。
一頭の後ろに、もう二頭。
黄色い牙を剥きだしにしている。
「うん…」
桜花の後ろに控える紅葉の、尻尾の毛が膨らんだ。
三頭の森林ウルフが地面を蹴り、駆けてくる。
「くーちゃん、つむじ風をお願い!」
カゼハバネを抜いた桜花。
緑色の薄い刀身を向ける。
桜花の少し前で、森林ウルフは三方に散った。
前と、少し遅れて左右から、鋭い牙が迫る。
桜花は、柔らかに地面を蹴って、踏み出した。
カゼハバネを引き、刀身の背を脇に当てる。
「やっ!」
「ギャウッ」
横向きに、カゼハバネを振る。滑るような剣閃は、鋭い音が鳴った。
森林ウルフの前足から、血潮が跳ねる。
勢いのまま、しゃがみ込んだ桜花。
その上を、右から跳びかかってきたウルフが通る。
しゃがんだ桜花に、左のウルフが牙を剥く。
桜花は、後ろ向きに姿勢を倒した。
「きゃっ」
森林ウルフが、前足で桜花を弾き飛ばす。
後ろ向きに転がる桜花。
制服が土まみれとなった。
「おねえちゃん!」
「――くーちゃん、描いてて!」
前足から血を流す森林ウルフが、桜花に迫る。
鈍く光る牙から、獣の臭いがした。
地面に座った体勢の桜花。
ポーチに入れていた片手を前に出して、肉薄する寸前で横向きに転がる。
硬い音が、樹の通路に響く。
小さな唸り声が聞こえた。
転がりながら立ち上がった桜花が振り向くと、ウルフが噛むのは甲羅炭カメの甲板。
黄色い牙が、折れていた。
「やたっ――ひゃっ」
大きく横に跳んだ桜花。森林ウルフが、通り過ぎた。
三頭のウルフが、交互に桜花へ飛びかかる。
桜花は転がり、しゃがみ、躱す。
カゼハバネを振る隙は、ない。
少しずつ、汚れる制服。牙が桜花の手を掠める。
「くぅ――きゃんっ!」
桜花が、弾き飛ばされた。
地面をバウンドしながらも、カゼハバネを手放さない。
「おねえちゃ――」
「くーちゃん! いまっ!」
紅葉の声をかき消すように、叫ぶ。
一瞬だけ硬直した紅葉の、尻尾の毛がぶわっと膨らんだ。
『つむじ風』
転がりながらも、体勢を整えた桜花の目の前で、風が吹く。
風は段々と大きくなり、渦巻き、突風となった。
「まだ! もう一回!」
「うん!」
二頭の森林ウルフが、吹き飛ばされる。
もう一頭は、つむじ風の反対側で姿勢を低くしていた。
桜花と紅葉、それぞれが魔法陣を描いていく。
地面で紅い魔法陣が光り、空中には桜色の魔法陣が光る。
「ギャオオ!」
収まりつつある風を抜けて、三頭のウルフが迫ってきた。
桜花の声が、響いた。
「くーちゃん!」
「いくよ!」
紅葉が、地面の魔法陣を叩く。
紅い魔法陣が、輝いた。
『つむじ風!』
再び吹き始める風。
それから、桜色の魔法陣が、輝いた。
『ふぁいや!』
桜色のツインテールが、風に舞う。
渦巻く風に、桜色の炎が乗った。
炎の渦が、森林ウルフたちを飲み込んだ。
渦が弱まる。
あちこちの毛が焦げたウルフは、道の端。
低い唸り声が、鳴る。
その目には、怒りの色が見えた。
「…今のうちに、逃げよう!」
「う、うん!」
起き上がろうとするウルフを尻目に、桜花たちは通路の先へ駆け出した。
全力で、手足を動かして走る桜花たち。
森林ウルフが追ってくることは無かった。
「ふぅー。はぁー!」
「はぁっ…はぁっ」
息切れしたまま、地面に寝転がる桜花と紅葉。
カゼハバネは、手に握ったまま。
何度も激しい呼吸を繰り返し、せき込む。
ようやく、呼吸が落ち着いてきた。
「――けほっ。ここまで来れば、大丈夫かな…?」
「た、たぶん…」
樹の床から立ち上がることなく、二人は顔を見合わせる。
「おねえちゃん。手から、血が出てる…」
桜花は顔の前に、左手をかざした。
手の甲がパックリと切れて、血が滴っている。
にじむ視界を、右手で拭った。
「いた…キュアで治さなきゃ、だ」
「待ってて!」
あわてた紅葉が、地面に紅い魔法陣を描く。
通路に吹く、強い風が二人の汗を乾かしていた。




