森の中にいた綺麗な男のヒト
突然、ハッと我に返った。
どれだけ走り続けただろう。
荒い呼吸を整えながら辺りを見渡すと、あの魔族どころかユキ姉の姿もない。
嘘。はぐれちゃった……こんな森の中で一人っきりなんて嫌! とにかく合流しないと!
私は走ってきた道を再び走って戻り始めた。
正直、無我夢中で走ってきた挙句、ここはどこだろうと何も考えずにぐるりとその場を回ってしまったから、今歩いている方向が走って来た道なのかもわかっていない。
もしかしたら、さらにユキ姉との距離は離れているかもしれない。
「おねぇちゃーん!」
「……」
叫んでみたけれど返事はない。完全にはぐれてしまったみたいだ。
きっとこの場で動かず待つのが一番いいんだとは思う。
けどこんな森の中で1人じっと助けを待つだなんて、私にはできない。
だから歩き続けた。
きっとすぐに森から出られるはず。そう自分に言い聞かせて。
15分くらいたった頃だろうか。
歩き続けていると変な感覚がした。
なんというか、薄い膜をプツンと通過したような感じだった。
振り返ってみたけれどそこには何もない。
「きっ、気のせい? よね?」
私は不安に駆られながらもそのまま先へ進むことにした。
どうやら不安は的中していたようだ。
進んでいくうちに段々と空気が変わってきたような気がした。
変な感じがしたところを境に、空気が重くなってきたというか、なんというか……
見上げると、木々の葉の間から見える空は曇っている。というより、空自体か空色ではなく紫がかっているような感じだ。
「まさか、結界を超えちゃった?」
さっきの変な感覚がしたところが結界だったのかもしれない。
……まさかね。まだ20歳じゃないけど、もう子供っていう年齢でもない、と思う。というか思いたい。
「もし結界があったら、きっとユキ姉が言っていたようにぶつかって、はじき返してくれたはず……」
自分に言い聞かせてみたけれど、不安は拭えなかった。
私は恐怖を抱えたまま、さらに歩き続けた。
……ガサガサ
「⁉」
どこか遠くから草の揺れる音が聞こえたような気がした。
音の方を見ると一瞬、何か影が動いたような気がする。動物みたいに4本足で歩く生き物じゃなかったような。
もしかして、また魔族⁉
私は怖くなった。
この場を急いで逃げ出したいけれど、恐怖でまた足がうまく動かせない。どうにか、無理やり足を動かして少しずつ後ずさっていく。
けれど、それが逆にまずかった。
足に何かが引っ掛かり後ろへ、ドサッと倒れてしまった。
「痛っ!」
思わず声が出た。
慌てて口を押えたけれど、そんなことをしても後の祭り。影を見た方角から音が近づいてくる。
私は奇跡を信じ、見つからないように体を小さく丸めて目を瞑り、息を殺してじっとした。
お願い、こっちに来ないで‼
「んー? おやおや、こんな森の中で何やら気配がすると思えば……」
奇跡なんて起きはしなかった。
閉じた目をゆっくりと開けていくと、視界の端に高そうな革靴を履いた2本の足が映った。
あれ? もしかして魔族の国に来ていた人間だったとか? それとも、やっぱりさっきのは気のせい?
そうであることを期待して見上げてみると、そこにいた人物は色白ではあるけれど、肌の色も目の数も私と同じ姿をしていた。
一瞬そのことに安堵した。けれど、すぐにそれは間違いだったと気が付いた。
人間ならば耳がある部分にはそれがなく、代わりに銀色の長い髪に紛れ、頭の上に大きな獣の耳が生えていた。しかも赤い瞳をしている。
それに気が付いた途端、私の心臓は口から出てきそうなほど大きく跳ね始めた。
人間じゃない! 人間の若い男の人みたいだけど、このヒト、魔族だ‼
その魔族の男のヒトは目を細め、ジロジロと品定めでもするかのように私を見てきた。すべてを見透かそうとするような眼が気持ち悪い。
丸くなっていた体に無意識に力が入った。
男のヒトは私が警戒していることに気づいたようで、先ほどとは打って変わったように優しい笑みを向けてきた。
「こんなところで何をしている? 人間のお嬢さん。ここは君がいるべき場所ではないだろう?」
ユキ姉と離れる原因となった魔族とは違って人に近い姿をしているからなのか、このヒトが何を言っているのか聞きとることができた。
思考もそれなりにしっかりとしているし、口も動かせる。
返事のない私に、その魔族のヒトは首を傾げた。
「? 聞こえているか?」
「あ、は……い。あの、えと……、ここって魔族の国? なんですか?」
私は気になっていたことを目の前の魔族に問いかけた。
一瞬鼻で笑われたような気がするけれど、そのヒトは微笑んで、きちんと答えてくれた。
「そうさ。君は、結界に気づかずこちらに入ってきてしまったようだな」
やっぱりさっき感じた膜を通過したような感覚は、結界を通り抜けてしまった時の感覚だったんだ。
体から、サーっと血の気が引いていくのが分かった。
魔族の男のヒトは私の顔を見て、そのことに気づいているはずなのに、追い打ちをかけるような話を続けてきた。
「気づかず……とは言えど、正規の手続きなしで入ってきては、人攫いに合ってもだぁれも助けてはくれんぞ? こちらの国ではお嬢さんみたいなのを捕まえて、奴隷として売り飛ばす輩も多いからな」
「そんな……」
ゾッとするような言葉。
人攫い? 奴隷? 魔族の国ではそんなことをするヒトが普通にいるの? そもそもそれが許されているの? もしかしてこんなところにいるこの魔族も……
「あなたもそうなの?」
聞かずに逃げ出せばよかったのに、私は馬鹿正直に質問をぶつけてしまった。
それに気が付いた瞬間、私は両手で自分の頭を押さえた。
なんで私はこうも余計な事ばっかり!
そのヒトは、そう言われるとは思っていなかったのか目を丸くしていた。
「うん? 俺はそういった輩ではないが……」
男は再び嫌な視線を向けてきた。舐めまわすような、何かを見定めているかのような視線。
何故このヒトはこんなにじろじろと見てくるのだろう。
今直ぐにこの場から逃げた方がいいと感じ、立ち上がろうと体に力を入れた。けれど腰が抜けてしまったようで立ち上がれない。
尻もちをついたまま震えていると、男の口元が弧を描き、目つきがまた変わった。
その目は優しそうな目だった。
「いや、ここで話していても仕方ないな。失礼するぞ」
体がフワッと宙に浮いた。
いや、浮いたのではない。いきなり横抱きで抱えられたのだ。
これは……俗に言うお姫様抱っこでは⁉
「お、おろしてください‼」
売り飛ばされるのではないかと思い、私は男の胸板を押してこの状況から逃げ出そうとした。けれど、理由はそれだけではない。
いくら種族が違うといっても、このヒト見た目ほとんど人間の男の人で……そんな相手にお姫様抱っこをされるなんて!
腕の中で暴れたせいで男は少しバランスを崩した。
私はこのまま転んでしまえと思った。転んでしまえば、このヒトの拘束から逃げ出すことができるから。
けれど男のヒトはすぐに体勢を立て直してしまい、腕の中から逃げ出すことはできなかった。
「おっと、危ない! 落とすところだったじゃないか。すまないが、少しの間大人しくしてくれ」
「お、大人しくできるわけないじゃない! 売られるかもしれないっていうこんな時に‼」
売られて奴隷として生きるなんてまっぴらごめんだ。
落とされる覚悟で、男の腕の中で全力で暴れた。けれどうまく逃げだせない。
「大人しくしてくれと言っているだろう。売り飛ばしはしない。俺は金に困るような生き方はしていないぞ」
そんなことを言って安心させ、取引相手のところへ連れて行こうという算段かもしれない。だから、簡単に信じられるわけがない。
けど、彼が本当に私をさらおうとしてるのなら、ロープで体を縛りつけてきそうな気もする。
「……本当のこと言ってますか?」
「ああ、本当だとも」
とりあえずその言葉を信じてみることにした。
万が一、この場でうまく逃げ出せたとしても、体力的な問題で逃げ切れる自信はない。
なんたって私の体育の成績は、小さいころから2。足だって遅い。
今日、ユキ姉の側から走り去ったとき、捕まえてもらえなかったのが不思議なほどだ。火事場の馬鹿力というものを発揮したのかもしれない。
だから今はこのヒトに連れられて行くしかない。
今は無駄な体力は使わず、ここだというタイミングで逃げ隠れして撒くのがベストなはずだ。
大人しくすると男は私にニコッと笑いかけ、歩き始めた。
このヒトが私を抱えて歩く間、私はずっと彼の顔を見ていた。
ううっ……こんな状況であれだけど……このヒトほんとにきれいな顔をしてる。それに香水かな? いい香りもする。なんだろう。この感覚。安心する。まさか魔族を好きになっちゃったとか⁉ ……は、さすがにないか。
一瞬視線を外したけれど、気になってまた視線を戻してしまう。見上げた先にある顔は、獣の耳と赤い瞳さえなければ人間と一緒。
私はふと思った。
このヒトが人間だったらよかったのに。
不思議な感覚に包まれながら、私はこのヒトに体を預けていた。
そして突如として我に返る。
って、そんなことより、売り飛ばす気はないっていうなら、いったいどこに連れて行こうとしてるの⁉
今まで纏っていた心地よさは一瞬にしてどこかへ吹き飛び、再びこの魔族の男に対する不信感がよみがえってきた。
「私をどこへ連れてく気ですか?」
「とりあえず関所だな。何にしてもあれに行かなければ何の手続きもできんからな」
関所? ってことは家に帰してくれる?
本当に売る気はないのかもしれない。一安心だ。
このヒトに連れられて行くのは正しい選択だったのだ。
逃げ出したところで、どこへ向かって進めばいいかもわからないし、最悪本物の人攫いに出くわしてしまっていたかもしれない。だから今はもう逃げる気は無い。
逃げる気は無いけれど、地面には下ろしてほしかった。今の自分の格好は思い出すたびに赤面してしまう。
この状態はやっぱり落ち着かない。まぁ……ちょっとは寂しい気はするけど……
私は魔族のヒトに提案した。
「あの、自分で歩くので下ろしてもらえませんか? 逃げたりしないので」
彼は一瞬どうするか考えるそぶりを見せた。返答までに少しの間が空き、男が出した答えはNO。
首を横に振った。
「悪いがこのまま連れて行かせてもらう。そう言って逃げられでもしたらかなわんからな」
「帰らせてくれるって言うんなら逃げたりしないんだけどなぁ」
私はボソリとそうつぶやいた。
彼の顔は楽しそうだった。
もしかしたら逃げないようにと言いつつ、私が嫌がっているのを楽しんでいるのかもしれない。
その会話を最後に、私はこの魔族の男と会話をすることはなかった。
話しかけなかったのはこのヒトが怖いからというわけではない。このヒトに対するそんな感情はどこかへ行ってしまった。
ただ、気恥ずかしくて何を話していいのかわからなかっただけなのだ。
会話もなく移動していると、だんだんと私の内側に不安が舞い戻ってきた。
本当にこの魔族を信用してもよかったのだろうか、と。
悪い魔族じゃなさそうに見えるけど……あの気味の悪い目つき。いったいこのヒトは何を考えているんだろう。逃げないって言ったのに放してはくれなかったし……売る気はないというその言葉を信じてもよかったのかな……
私は頭の中でそんなことをぐるぐると考えていた。
考えても答えは出るわけでもなく、逆に訳が分からなくなってきた。
なので、私は無駄に考えることを諦めた。
この不安の答えは、目的地に辿り着いたときにわかることだ。




