第3話 あるSNSでの噂
数日後の夜。
下野田は、居間で端末を眺めていた。
あの白い棚が、まだ頭の隅に残っていた。
何となく、検索してみる。
『鼻毛カッター 裏返し』
すぐに、出てきた。
『家電屋行ったら鼻毛カッターが全部裏返ってたんだが』
写真付きの投稿だった。
白い裏面が、ずらりと並んだ棚。
見事に、角度が揃っている。
あの店で見た棚と、よく似ていた。
返信が続いていた。
『なにこれ』
『こわ』
『きれいに揃ってるのが逆にこわい』
『え、うちの近所の店もこれだった』
『こっちもだ』
『隣町のモールで見た』
「……一軒だけじゃ、なかったのか」
下野田は、画面をスクロールした。
写真が、次々と現れた。
どの棚も、鼻毛カッターだけが裏返っていた。
電気シェーバーも、ドライヤーも、電動歯ブラシも、手つかずのまま。
ただ、鼻毛カッターだけが。
ネットニュースの記事も見つかった。
『【謎】鼻毛カッターだけが裏返される事案、複数店舗で相次ぐ 被害はなし』
コメント欄には、考察が並んでいた。
『新手のステマでは?』
『鼻毛カッター業界の内部抗争』
『現代アートでしょ』
『店員の嫌がらせ説』
下野田は、首を横に振った。
あの店員は、本当に困っていた。
『裏面の注意書きを読ませたい安全啓発の人』
下野田は、少し考えた。
確かに、裏返っていたおかげで、自分は初めて仕様表を読んだ。
だが、それが目的だったとは思えなかった。
そして。
『鼻毛を切る文化への抗議では? ←草』
下野田の指が、止まった。
「……抗議?」
鼻毛を切る文化。
それへの、抗議。
つまり。
鼻毛を、切るな、と。
下野田は、その一文を何度も読んだ。
笑えなかった。
意味が、わからなかった。
いや。
意味は、わかる。
わかるからこそ、理解できなかった。
鼻毛を切るな。
では、どうしろというのか。
朝七時。
洗面所。
妻の指。
あの痛み。
切るなというなら、抜かれ続けろというのか。
下野田は、端末を膝に置いた。
右の鼻の奥が、かすかにうずいた。
「こっちは……」
声が、かすれた。
「こっちは……切りたいんだよ」
切れるものなら、切りたいのだ。
切れないから、困っているのだ。
スレッドの最後には、こう書かれていた。
『もうこれ鼻毛テロだろ』
#鼻毛テロ
下野田は、何も書き込まなかった。
書くべき言葉が、見つからなかった。
◇
高出力モデルは、確かに強かった。
刃の圧が違う。
硬い毛にも、食いついていく。
朝七時。
「また出てる」
抜かれた。
二本だった。
一本、減っていた。妻の手は神の力を引き抜いている。実はすごいのかもしれない。
下野田は、小さく拳を握った。
翌朝。
三本だった。
◇
下野田は、買い足した。
別のメーカーの、回転刃式。
刃の回転で、毛を巻き込んで切るらしい。
巻き込まれなかった。
往復刃式の、細身のペン型。
鼻の奥まで届くらしい。
届いた。
逃げられた。
水洗いできる、旅行用のミニサイズ。
これは、念のためだった。
念のためにも、ならなかった。
どの機種も、普通の鼻毛は見事に処理した。
鼻の中は、かつてないほど整っていた。
ただ、例の三本だけが。
毎朝七時、必ずそこにいた。
◇
ある休日。
下野田は、もう一度、駅前の家電量販店へ行った。
最初に最新型を買った店である。
三階。
鼻毛カッターの棚。
棚は、裏返ってはいなかった。
笑顔が並んでいる。
いくつかの箱は、新しいパッケージに変わっていた。
『リニューアル! 両面デザインパッケージ』
下野田は、特に何も思わなかった。
視線を、上げる。
最上段。
ひときわ大きな箱。
『AI鼻腔スキャン搭載 最新モデル』
『あなたの鼻腔を三秒で解析。気になる一本を逃しません』
気になる一本。
逃しません。
下野田は、その箱を見上げたまま、しばらく動かなかった。
前に来たとき、この箱は目に入らなかった。
手の届く場所にしか、目が行かなかった。
下野田は背伸びをして、その箱を下ろした。
手に取って、裏返す。
裏にも、同じ笑顔があった。
仕様表は、隅に小さく縮められていた。
下野田は、それを最後まで読んだ。三本だ。お前は神にあらがえるのか。
◇
翌朝。
六時三十分。
下野田は、AI鼻腔スキャン搭載モデルを右の鼻に当てた。
小さな電子音。
『スキャン中』
三秒。
『検出:三本』
下野田は、息を止めた。
わかっている。
この機械は、わかっている。
ウィィィン。
『処理中』
鼻の奥で、刃が細かく動く。
『処理完了』
画面に、緑の文字が灯った。
『検出対象:すべて処理済み』
下野田は、鏡を見た。
何も、出ていない。
しばらく、鏡の前に立っていた。
六時四十五分。
六時五十分。
何も、出てこない。
六時五十八分。
まだ。
七時。
足音。
「ちょっと、こっち向いて」
下野田は、振り返った。
妻の視線が、顔の中央で止まる。
「また出てる」
洗面台の上で、AI搭載モデルの画面が、まだ緑色に光っていた。
『検出対象:すべて処理済み』
※残酷描写:鼻毛を引きちぎられる描写が度々あります。ご注意ください。
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