第2話 とある店員との会話
翌朝。
六時四十分。
下野田は、妻より先に洗面所に立った。
箱から出したばかりの最新型を、右の鼻に差し入れる。
スイッチを入れる。
ウィィィン、という軽快な音。
鼻の中で、何かが削られていく感触があった。
痛くない。
まったく、痛くない。
鏡を見る。
鼻の穴の縁には、何も出ていなかった。
「……」
下野田は、静かに息を吐いた。
勝った。
そう思った。
朝七時。
足音。
「ちょっと、こっち向いて」
下野田は、自信を持って振り返った。
妻の視線が、顔の中央で止まる。
「また出てる」
「え」
妻の指が伸びる。
つまむ。
引く。
「――ッ」
三本。
いつもと同じ、三本だった。
◇
最新型は、確かに優秀だった。
他の鼻毛は、きれいに整っている。
短く、均一に。
鼻の中が、これまでになくすっきりしていた。
だが、例の三本だけは違った。
翌朝、下野田は、妻が捨てる前に一本だけ受け取って、明かりにかざした。
太い。
硬い。
他の鼻毛とは、明らかに質が違う。
刃が当たっても、切れずに、しなって逃げるのではないか。
逃げて、鼻の奥へ一度引っ込み。
しばらくして、また外へ戻ってくるのではないか。
下野田は、そう考えた。
しかも、伸びるのが早い。
仮に切れたとしても、翌朝には元に戻っている。神は三本に何か力を与えたのだろうか……
◇
下野田は、工夫した。
前の晩に切る。
朝、もう一度切る。
角度を変える。
鼻の穴の縁を指で軽く押し広げてから当てる。
時間をかけて、ゆっくり動かす。
一週間。
二週間。
三週間。
朝七時。
「また出てる」
抜かれる。
一日も、休みはなかった。
◇
ある日の夕方。
下野田は、いつもとは別の家電量販店にいた。
あの最新型では駄目だった。
別の鼻毛カッターが要る。
エスカレーターで三階へ。
理美容家電のコーナー。
鼻毛カッターの棚の前に立つ。
「……ん?」
下野田は、足を止めた。
棚が、白かった。
すべての箱が、裏を向いていた。
笑顔の印刷も、商品名も見えない。
見えるのは、仕様表と、注意書きと、バーコードだけ。黒い線が鼻毛に見えてしまった。
それが、上段から下段まで。
左端から右端まで。
一つ残らず。
しかも。
角度が、揃っていた。
定規で測ったように。
下野田は、しばらくその棚を眺めていた。
それから、近くで売り場を整えていた店員に声をかけた。
「あの」
「はい」
「これ、こういう展示なんですか?」
店員は、棚を見た。
それから、下野田を見た。
少しだけ、間があった。
「……いえ」
「違うんですか」
「違います」
店員は、言葉を選ぶように続けた。
「今日、あるお客様が、その……裏返していかれまして」
「裏返して」
「はい。一つずつ」
「全部ですか」
「全部です。四十七個」
下野田は、もう一度棚を見た。
四十七個の、白い裏面。
「……持っていかれたものは」
「ありません」
「壊されたものは」
「ありません」
「じゃあ……」
「裏返して、元の場所に戻していかれただけなんです」
店員は、静かに言った。
「防犯カメラの映像も確認しました。一つ取って、裏返して、戻して。また次を取って、裏返して、戻して。その繰り返しで」
「……」
「途中で他のお客様が来られると、一歩下がって譲っていらっしゃいました」
「譲って」
「はい」
店員は、棚の下段を指差した。
「それと、倒れかけていた商品は、起こしてから裏返していかれました。値札のずれも、直していかれて」
下野田は、棚を見た。
確かに、値札はまっすぐだった。
「むしろ、前より綺麗になってるんです。棚」
「……」
「……」
二人は、しばらく黙って棚を見つめた。
「何のために」
下野田が言った。
「わかりません」
店員が答えた。
「うちの防犯システム、AIで不審な動きを判定するんですけど」
「はい」
「『万引き:否』『破損:否』」
店員は、一拍置いた。
「『目的:不明』でした」
「……AIでも」
「AIでも、です」
下野田は、白い棚を見つめた。
一つずつ。
丁寧に。
四十七個。
盗まず、壊さず、持ち去らず。
値札まで直して。
それが何を意味するのか、下野田にはまったくわからなかった。
店員にも、わからないようだった。
二人とも、真剣にわからなかった。
◇
「あの」
下野田は、気を取り直して言った。
「鼻毛カッターを探しているんですが」
「はい」
「今使っているものが、合わなくて」
下野田は、事情を説明した。恥ずかしかった。
右の鼻の、神が加護を与えた三本だけであること。
太く、硬く、刃から逃げるらしいこと。
伸びるのが、異常に早いこと。
朝七時のことは、言わなかった。
店員は、真剣な顔で聞いていた。
「でしたら」
店員は、棚の前にしゃがんだ。
「ちょうど今は、仕様が見やすいので」
白い裏面を、指でたどる。
「こちらが高出力モデルです。往復刃式で、刃の圧が強めになっています。硬い毛には、こちらのほうが」
下野田は、身をかがめた。
仕様表を読む。
刃の形式。
駆動方式。
毎分の往復数。
鼻毛カッターの仕様を、こんなに真剣に読むのは初めてだった。
思えば前回は、何も読まなかった。
読む気力が、なかった。
今は、読める。
目の前に、仕様しかないからだ。
「これに、します」
「ありがとうございます」
店員は、棚の箱には手を触れなかった。
「在庫からお持ちしますね。棚のものは、閉店後に、まとめて表に戻しますので」
「……全部、戻すんですか」
「はい。店長の指示で」
店員は、少しだけ白い棚を振り返った。
「四十七個、です」
◇
会計を済ませ、下野田は店を出た。
袋の中には、高出力モデルが一つ。
あの白い棚のことを考えながら、歩いた。
誰が。
何のために。
わからなかった。
わからないまま、駅に着いた。
明日の朝七時のことを考えると、その疑問は少しずつ遠のいていった。
下野田には、下野田の問題がある。神が与えたチートについて……
※残酷描写:鼻毛を引きちぎられる描写が度々あります。ご注意ください。
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