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毎朝3本、鼻毛を引きちぎられる男。その名は下野田……  作者: kawauso2017


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第1話 下野田、量販店へ行く

 朝七時。


 洗面所。


 下野田は、鏡の前で歯を磨いていた。


 背後で、足音がした。


「あなた、ちょっと、こっち向いて」


 妻だった。


 下野田は、歯ブラシをくわえたまま振り返った。


 歯ブラシが落下し、歯磨き粉が飛び散る……


 妻はそれに目もくれず、視線を下野田の顔の中央に向ける。


「また出てる」


 下野田は、動かなかった。


 動いても無駄だと、知っていた。


 妻の右手が伸びる。


 親指と、人差し指。


 狙いは、右の鼻孔。


 つまむ。


 そして。


 引いた。


「――ッ」


 鼻の奥から、頭頂へ。


 鋭い痛みが、一直線に駆け抜けた。


 目に涙がにじむ。


 くしゃみが、一つ出た。


「はい、取れた」


 妻は指先の一本を確かめるように眺め、ティッシュに包んだ。


「もう一本あるね」


「……」


 二本目。


 引く。


「――ッ」


 三本目。


 引く。


「――ッ!」


「はい、おしまい」


 妻は満足そうに頷き、台所へ戻っていった。笑顔だった……


 下野田は、鏡の前に一人残された。


 歯ブラシを拾い洗いなおした。


     ◇


 下野田には、悩みがある。


 鼻毛だ。


 ただし、すべての鼻毛ではない。


 右の鼻の、数本だけ。主に三本、主犯格である。


 他の鼻毛は、ごく普通に生えている。


 普通の速さで伸び、普通に鼻の中に収まっている。


 だが、その三本だけが違った。


 伸びるのが、異常に早いのだ。


 夜、眠る前には確かに見えなかった。


 それが朝になると、鼻の穴の縁から、外の世界へ顔を出している。


 毎朝。


 一日も休まず。


 いつからそうなったのか、下野田にはよくわからない。


 気づいたときには、そうなっていた。


 原因も、わからない。


 そして、それを最初に見つけるのは、いつも妻だった。


 朝七時。


 洗面所。


「また出てる」


 妻に悪意はない。


 夫の身だしなみを整えている。


 ただ、それだけのことだ。


 実際、出たままの鼻毛で外を歩けば、困るのは下野田である。


 だから下野田は、何も言えなかった。


 本当は、礼を言うべきなのかもしれない。しかし、痛いのだ。涙が出るほどに……



 だが、毎朝三回。


 鼻の奥から脳天へ突き抜ける、あの痛み。


 それが、何か月も続いている。


 下野田にとってそれは、毎朝決まった時刻に訪れる、小さな拷問だった。


     ◇


 その日の朝も、三本抜かれた。


 下野田は、赤くなった鼻先を鏡に映した。


 涙の跡が、まだ乾いていない。


「……自分で、やろう」


 小さく呟いた。


 妻より先に、自分で処理すればいい。


 朝七時より前に。


 切ってしまえばいい。


 そうすれば、見つかることもない。


 抜かれることも、ない。


 なぜ、今まで気づかなかったのか。


 いや。


 気づいてはいたのかもしれない。


 ただ、毎朝の痛みに、考える力を少しずつ削られていたのだ。


     ◇


 その週末。


 下野田は、駅前の家電量販店にいた。


 入口で、何も考えずに買い物かごを取っていた。


 習慣である。


 案内板を見る。


 理美容家電は、三階。


 エスカレーターを上がる。


 フロアの手前に、大きな看板が立っていた。


『鼻毛ケア特集』


 下野田の足が、自然とそちらへ向いた。


 ここだ。


     ◇


 壁一面が、鼻毛カッターだった。


 回転刃式。


 往復刃式。


 水洗い対応。


 LEDライト付き。


 ペン型。


 スティック型。


 旅行用。


 ファミリーパック。


 下野田は、棚の前で立ち止まった。


 多い。


 あまりにも、多い。


 一つ一つ比べれば、きっと違いがあるのだろう。


 刃の形。


 回転数。


 電池の持ち。


 だが下野田には、それを読み比べる気力が残っていなかった。


 今朝も、三本抜かれたのだ。


 昨日も。


 一昨日も。


 その前も。


 棚の前には、先客がいた。


 男が一人、少し下がった位置から、棚全体をじっと眺めている。店員のようには見えなかった。


 下野田は、気にしなかった。


 鼻毛カッターを選ぶ人間など、いくらでもいる。


 下野田は、その男の隣へ進んだ。


 棚を、一瞥する。


 ちょうど目の高さ。


 手を伸ばせば届く位置に、一つの箱があった。


『最新型』


 黄色い札が、そう告げていた。


 最新。


 最新なら、間違いはないだろう。


 少なくとも、今より悪くなることはない。


 下野田は、その箱を一つ取った。


 裏返しはしなかった。


 説明も読まなかった。


 知りたいことは、一つしかない。


 これが、明日の朝七時を変えてくれるかどうか。


 それだけだ。


「これでいいか」


 かごへ入れる。


 踵を返す。


 去る。


 十秒もかからなかった。


 その十秒の中に。


 何か月分もの朝七時が、詰まっていた。


     ◇


 レジで会計を済ませ、下野田は店を出た。


 袋の中で、箱が小さく揺れている。


 夕方の光が、駅前のロータリーを照らしていた。


 下野田は、ほんの少しだけ、足取りが軽かった。


 明日の朝は、違う。


 七時より前に、自分で切る。


 妻が気づく前に。


 すべてを、終わらせておく。


 あの売り場に立ち尽くしていた男のことは。


 もう、覚えていなかった。


     ◇


 その頃。


 三階の鼻毛カッター売り場では。


 一つの箱が、ゆっくりと裏返されようとしていた。


 下野田は、それを知らない。

※残酷描写:鼻毛を引きちぎられる描写が度々あります。ご注意ください。


鼻毛が気になったあなた。下の★をプッシュ!

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