第6話「ほころび」
灰色の厚い雲が空を覆い、冷たい雨が容赦なく降り注いでいる。
ぬかるんだ泥道にブーツが沈み込み、歩みを進めるたびに重苦しい音が響く。
街道を進む勇者レオンの顔には、隠しきれない苛立ちと疲労の色が濃く刻まれていた。
雨水を弾くはずの魔法のマントは、すでに防水効果を失い、雨を吸い込んで重く肩にのしかかっている。
背後を歩く魔法使いや戦士たちも、一様に口を閉ざし、うつむき加減で重い足を引きずっていた。
「くそっ、このマント、どうなってんだ。全然雨を弾かないじゃないか」
レオンは苛立たしげにマントの裾を払い、舌打ちをした。
これまでは、どんな悪天候でも快適に旅ができていたはずだった。
ソウタが毎日のように装備の手入れを行い、見えないところで防水や保温の付与魔法を掛け直していたことなど、レオンは知る由もない。
ただの布切れと化したマントは体温を奪い、指先は感覚を失うほどに冷え切っている。
「レオン、少し休まないか。皆、限界だ」
巨大な盾を背負う戦士のガルドが、荒い息を吐きながら声をかけた。
その声には、かつての力強さは欠片も残っていない。
「休むだと? こんな泥の中でどうやって休むんだよ。野営の準備もろくにできないくせに」
レオンの冷たい言葉に、ガルドは顔をしかめて口をつぐんだ。
ソウタを追放してから数日、彼らの旅は急激に過酷さを増していた。
魔物との戦闘では、剣の切れ味が鈍り、鎧の結合部が軋む。
魔法使いの杖は魔力の通りが悪くなり、呪文の威力が半減していた。
ソウタが日々のメンテナンスで素材の劣化を防ぎ、微細な歪みを修復していた事実が、彼がいなくなったことで初めて露呈したのだ。
しかし、レオンたちは己の腕が鈍ったか、武器屋に粗悪品を売りつけられたのだと苛立ちを募らせるばかりだった。
「次の街まであと半日はかかる。気合いを入れて歩け」
レオンは前を向き直し、泥濘を蹴り立てて歩調を速める。
その時、前方の茂みが大きく揺れ、低い唸り声と共に三頭の黒い獣が飛び出してきた。
鋭い牙と赤い瞳を持つ、凶暴な狼型の魔獣だ。
「魔物だ。陣形を組め」
レオンは腰の剣を抜き放ち、前衛へと飛び出す。
しかし、剣を抜く動作に普段のような滑らかさがなかった。
鞘の中に溜まった湿気と汚れが刃にこびりつき、僅かな摩擦が生じていたのだ。
魔獣が鋭い爪を振り下ろしてくる。
レオンは剣でそれを受け流そうとしたが、刃が爪と衝突した瞬間、嫌な音を立てて剣身に小さな亀裂が走った。
腕に伝わる衝撃を殺しきれず、レオンは大きく後退する。
「な、なんだこの脆さは」
レオンが目を見開いている間に、別の魔獣が横から襲いかかってきた。
「火炎球ファイヤーボール」
後衛の魔法使いが杖を掲げ、呪文を詠唱する。
しかし、杖の先端から放たれた炎の塊は、普段の半分ほどの大きさしかなく、魔獣の毛皮をわずかに焦がしただけで霧散してしまった。
「ちぃっ、杖の調子がおかしい」
魔法使いが焦りの声を上げる。
連携は完全に崩壊していた。
ガルドが盾を構えて魔獣の突進を防ぐが、盾の留め金が外れかかっており、激しい衝突音と共に彼の体は泥の中に吹き飛ばされた。
本来であれば数分で片付くはずの下級の魔獣相手に、彼らは泥まみれになりながら致命傷を避けるのが精一杯だった。
◆ ◆ ◆
なんとか魔獣を退けたものの、全員が満身創痍だった。
雨は一向に止む気配がなく、体温は容赦なく奪われていく。
森の開けた場所を見つけ、野営の準備を始めるが、まともな火を起こすことすらできなかった。
湿った薪は煙を上げるだけで炎にならず、火打ち石の火花は虚しく雨に消えていく。
ソウタがいれば、どんな状況でも一瞬で乾燥した薪を用意し、温かい火を提供してくれただろう。
しかし、彼らはその「当たり前」が、どれほどの異常な技術に支えられていたかを知らなかった。
「クソッ、火も点かないのかよ」
レオンは湿った薪を蹴り飛ばし、怒りに任せて声を荒げた。
「仕方がないだろう。薪が湿りすぎているんだ」
ガルドが泥だらけの体をさすりながら反論する。
夕食は、石のように硬く乾燥した携帯食料を水で流し込むだけだった。
泥臭い水で胃に落とし込んだ味気ない干し肉が、レオンの苛立ちをさらに増幅させる。
彼は胃の奥からこみ上げてくるどす黒い感情を、どうしても抑えきれずにいた。
ソウタが作っていた、野草の風味を活かした温かいスープや、柔らかく煮込まれた肉の味が、嫌でも記憶に蘇ってくる。
「あいつのせいで、こんな惨めな思いをする羽目になったんだ」
レオンは誰に言うともなくつぶやいた。
自分の決断が間違っていたとは絶対に認めたくなかった。
戦闘の役に立たない生産職など、足手まといでしかない。
そう信じて疑わなかった。
しかし、現実は残酷なまでに彼らの無力を突きつけていた。
「次の街に着いたら、装備をすべて新調する。こんななまくら剣じゃ、戦えやしない」
レオンは刃こぼれした剣を地面に突き刺し、冷たい雨空を睨みつけた。
彼らはまだ気づいていない。
王都の最高級の鍛冶屋が打った武器であろうと、ソウタの常軌を逸した補正がなければ死の森の魔物には通用しないという残酷な事実に。
雨音だけが響く冷たい森の中で、勇者パーティーの亀裂は、修復不可能なほどに深く、確実に広がり始めていた。




