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カシアン様の腕の中。
彼の熱い体温と、清潔な雪のような香り。そして、私の背中を回る大きな手の感触――。
一秒前までは、私の全細胞が「尊さ」のあまり昇天寸前だった。間違いなく、前世の私がこの光景を見たら、卒倒して救急搬送されていたことだろう。
けれど、窓の外から響いた「不吉な咆哮」が、私の脳を瞬時に現実へと引き戻した。
「……っ、今の音は……」
カシアン様の身体が、一瞬で騎士のそれへと変貌する。彼は私を抱きしめていた手を離すと、鋭い目つきで窓の外、漆黒の森の方向を睨み据えた。
「魔獣の遠吠えか。……だが、いつもの連中とは響きが違う。数も、尋常ではないな」
「カシアン様、お召し替えを! オズウェル! すぐに騎士団へ非常招集をかけてください!」
私はベッドから飛び起き、寝間着の上に厚手のガウンを羽織りながら叫んだ。
(嫌な予感がする。ゲームのシナリオでは、聖女エリアーネが去った後、特にイベントなんてないはず。やっぱり何かがおかしう。……私の行動でフラグが完全に狂ってしまったせい? 今のエリアーネは恐らく慈愛のヒロインなんかじゃない。プライドを傷つけられ、復讐心に燃える『堕ちた聖女』だわ!)
カシアン様が迅速に甲冑を身に纏う間、私は自室へ駆け戻り、領地の詳細な地図と、没落してから書き溜めていた「魔獣特性リスト」を掴んだ。
廊下に出ると屋敷の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
逃げ惑う使用人たち、武器を手に走り抜ける騎士たち。
「静まりなさい!」
私の声が喧騒を切り裂いた。
使用人たちが足を止め、私をじっと見る。その目には恐怖があるが、それ以上に「この人なら何とかしてくれる」という、ここ数週間の私の『統治』が築き上げた期待が混ざっていた。
「オズウェル、あなたは非戦闘員を地下の避難所へ。リナ、あなたは厨房へ行って、騎士たちのための携帯食料と、私が先日作った『回復ポーション』をすべて運び出しなさい! 動ける者は指示に従って!」
私は次々と指示を飛ばし、自らは玄関ホールへと向かった。
そこには銀の甲冑に身を包み、愛剣を腰に帯びたカシアン様が立っていた。その姿は月光を反射して青白く輝き、まさに『凍てつく月の騎士』そのものの美しさだった。
「シルヴィアナ、お前は……」
「私も参ります。前線で剣を振るうことはできませんが、あなたの背後で『勝利の算段』を立てることはできますわ。……まさか、私を置いていくなんておっしゃいませんわよね?」
カシアン様は一瞬だけ躊躇するように唇を噛んだ。
だが私の瞳に宿った、不退転の決意を認めたのだろう。彼は短く「……遅れるな」とだけ言い、馬を駆り出した。
────
屋敷の物見櫓から見た景色は地獄の予兆だった。
北の森から無数の赤い眼光がこちらへ向かって押し寄せている。
だが何よりも異様なのは、その魔獣たちの頭上で輝く、不自然なまでの「黄金の光」だった。
「……聖女の加護? いいえ、これは強制的な『狂乱化』の呪文だわ」
私は双眼鏡を握りしめた。
光の源泉には白馬に跨ったエリアーネと、その横で下卑た笑みを浮かべるバルト将軍の姿があった。
エリアーネは、祈りを捧げるポーズを取りながら、その口元を醜く歪めている。
「カシアン様、お可哀想に。あの悪女に毒されて、本当の奇跡を拒むなんて。……私が、この地を一度すべて焼き払い、清らかな更地に戻して差し上げますわ!」
(あの大バカ! 浄化の力で魔獣を暴走させるなんて、禁忌中の禁忌よ! ゲームの設定では、これを使うと聖女の魂は汚染され、最後はバッドエンド直行なのに……。彼女、完全に理性を失っているわ)
カシアン様率いるエンドリッヒ騎士団が、城門の前で陣を敷く。
だが狂乱化した魔獣の力は通常の数倍。騎士たちが苦戦を強いられるのは目に見えていた。
「カシアン様、聞こえますか!」
私は魔導増幅器(自作の拡声器)を手に、櫓から叫んだ。
「魔獣たちの動きを見てください! あの黄金の光が当たっている個体だけが、異常な再生能力を持っています。……光を遮れば、奴らは自滅しますわ!」
「遮るだと!? この広範囲の光をどうやって!」
「私に策があります! 騎士団の第三隊、私が先ほど配った『煙幕瓶』を東の風上に投げなさい! ……それは、私の実家に眠っていた、光輝を吸収する(ドワーフの対天使用兵器)黒曜石の粉末を調合したものですわ!」
騎士たちが困惑しながらも、私の指示に従う。
「魔女」としての私の命令は、今や彼らにとって絶対だった。
数秒後、戦場に真っ黒な煤煙が立ち込めた。
エリアーネの放つ黄金の光が、その黒い霧に吸収され、魔獣たちへの供給が断たれる。
「な……、何ですの、この薄汚い煙は! 私の神聖な力が……!」
エリアーネの悲鳴。
力が弱まった瞬間をカシアン様は見逃さなかった。
「全軍、突撃! 北の守護者の誇りを見せろ!」
カシアン様の剣が闇の中で一筋の閃光となって奔る。
一振りで数頭の魔獣を両断するその武勇。まさに公式最強キャラクター(パッチバフ)の名に恥じぬ活躍だ。
(あぁ……かっこいい。あの飛び散る返り血さえも、彼の美しさを引き立てるアクセサリーのよう……。……じゃなくて! まだ終わっていないわ。バルトが動くはずよ)
私の予想通り、バルト将軍がニヤリと笑い、背後の伏兵に合図を送った。
ディルムント公国の正規軍……ではなく、傭兵のようだった。が、魔獣の混乱に乗じて横から騎士団を包囲しようとする。
「やはりね。……オズウェル! 例の『仕掛け』を起動して!」
「承知いたしました、奥様」
戦場の地面が突如として激しく爆発した。
……といっても、殺傷能力のある爆発ではない。
凄まじい「悪臭」と「粘着液」の噴出だ。
「な、なんだこれは!? 臭い! 鼻が曲がるぞ!」
「足が……、足が地面に張り付いて動かん!」
バルトの傭兵軍が阿鼻叫喚の渦に叩き落とされる。
(ふふん。これは没落したヴァリエール家が、借金取りから屋敷を守るために開発した『究極の嫌がらせトラップ』よ。一度踏んだら三日は取れない粘着剤と、腐ったドリアンと下水を煮詰めたような異臭。……騎士の誇りも糞もないけれど、実用性は抜群なんだから!)
カシアン様が呆れたようにこちらを一度振り返った。
だがその瞳には「よくやった」という信頼の色が宿っていた気がする。
戦況は一気に逆転した。
魔獣は霧の中で自滅し、傭兵軍は悪臭と粘着液で戦闘不能。
残るは狂乱したエリアーネ、ただ一人。
「許さない……、許さないわー! シルヴィアナ! あなたさえいなければ、私はカシアン様と結ばれるはずだったのに!」
エリアーネが自らの命を削るようにして巨大な光の槍を形成する。
それは彼女の精神崩壊と引き換えの、自爆に近い攻撃だった。
「危ない、カシアン様!」
私は櫓から身を乗り出した。
光の槍がカシアン様に向かって放たれる。
カシアン様は剣を構えるが、あれだけの質量のエネルギーをまともに受ければ、タダでは済まない。
その時、私の身体が勝手に動いた。
私は櫓の床に隠しておいた、一つの鏡を取り出した。
ただの鏡ではない。エンドリッヒ伯爵邸に代々伝わる曰く付きの魔道具――魔力を反射する『真実を映す鏡』
私は鏡を両手で掲げ、カシアン様の前に飛び出すように(物理的には櫓の上からだが)、光の軌道上へと差し込んだ。
「跳ね返りなさい! 私の推しの邪魔をする、その独善的な光よ!」
キィィィィィィィン!!
耳を裂くような音と共に、黄金の槍が鏡の表面で屈折し、そのままエリアーネ自身へと跳ね返った。
「きゃあああああああああ!!」
自らの放った光に包まれ、エリアーネは馬から転落してしまった。
浄化の力が彼女自身の「嫉妬」と「憎悪」を焼き払い、彼女はそのまま静かに意識を失ったはず。
それと同時に、戦場を覆っていた瘴気も、黄金の光も、霧消していった。
────
夜明け。
朝日が泥と煤にまみれた戦場を照らし出す。
私は櫓から降り、ふらふらとした足取りでカシアン様のもとへ歩み寄った。
極度の緊張と魔力反射による疲労で、膝が笑っている。
「……終わりましたわね。カシアン様」
私が力なく笑いかけると、カシアン様は無言で私に近づき、その大きな手で私の肩を掴んできた。
「……シルヴィアナ」
「はい。……あぁ、怒らないでくださいませ。鏡を勝手に持ち出したことは謝りますわ。……でも、あなたの美しい顔に傷がつくよりはマシでしょう?」
私は冗談めかして言った。
けれど、カシアン様の表情は、いつになく真剣で、そして苦しげだった。
「……貴様という女は。……どれだけ、私の予想を裏切れば気が済むんだ」
「あら、策略家ですから。裏切るのが仕事……」
言いかけた言葉は、彼の唇によって塞がれた。
「…………っ!?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
朝日の中、返り血と鉄の匂いが漂う戦場のど真ん中で。
カシアン様が私を強く抱き寄せ、深く、激しく口づけをしたのだ。
(…………、……え? ……えぇぇぇぇぇ!?)
脳内が真っ白になる。
前世の記憶も、策略の計算も、すべてがどこかへ吹き飛んだ。
彼の唇は熱く、震えていた。
それは、私を失うことへの恐怖と、どうしようもないほどの「執着」が混ざり合った、魂の叫びのような口づけだった。
ようやく唇が離れた時、カシアン様は私の額に自分の額を押し当て、荒い息を吐きながら囁いた。
「……離縁など、二度と口にするな。……お前がどれほどの悪女であろうと、どれほどの毒を持っていようと構わない。……私は、もうお前を手放すことができない」
「カシアン様……」
「お前の『策略』に、私は完全にかかったようだ。……生涯をかけて、この呪いを解いてみせろ。……私の隣で」
……。
……。
(…………はい、完全勝利!!!)
私の心の中のオタクが、世界を揺るがすほどのスタンディングオベーションを捧げた。
こうして没落令嬢の私の策略(?)は、最高の形で幕を閉じる。
……はずだったのだが。
「……あ、あの、カシアン様。感激しているところ申し訳ないのですが」
「……何だ」
「……そこの粘着液を踏んだままのバルト将軍が、あまりの臭さにさっきから気絶と覚醒を繰り返しているようですわ。……とりあえず、彼を牢にぶち込んでから、続きを伺ってもよろしいかしら?」
「…………ふっ。……ああ、そうだな。お前らしい」
カシアン様が心からの笑い声を上げた。
その清々しい笑顔を特等席で眺めながら、私は確信した。
悪女として嫌われ、魔女として畏怖され、そして好きな人の為なら、離縁してでも逃げるつもりだった私の計画は、どうやら世界で一番甘い「失敗」に終わったようだ。




