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 北領の冬は、一度その牙を剥けば長く、鋭い。

 あの日、嵐の中で凍え死にかけていたカシアン様を救い出してから、屋敷の空気は劇的に変わった。


 廊下ですれ違う使用人たちは、私を見ると深く頭を下げ、どこか畏怖の混じった、けれど確かな敬意を向けるようになっていた。

 ……まあ、それもそうだろう。主を救っただけでなく、屋敷の古参の不正を次々と暴き、地下牢へ叩き込んだのだから。今の私は、彼らにとって「正体不明の恐ろしい魔女」のような存在らしい。そうそう、この世界には本当に恐ろしい魔女。まがつの魔女なる人? 者? がいるらしい。ゲームではそんな裏設定もイースターエッグもなかったし、この世界特有の、よくある迷信だろう。


「カシアン様、本日の分の『特製・魔力循環ハーブティー』ですわ。冷めないうちに召し上がってくださいませ」


 私は執務室のドアをノックもせずに開けた。よく忘れる。

 カシアン様は机に向かい、山のような書類と格闘していた。傷はほぼ完治し、肌の色艶も戻っている。銀髪を無造作に結び、眼鏡をかけたその姿――。


(……はい最高。知的なカシアン様、頂きました! あの時代設定無視眼鏡のフレームの奥にある、氷河色の瞳が書類を追う動き……。そして、ペンを握る指先の節立ち! この光景だけで、私は白飯……じゃなくて、高級パンが三袋はいけるん!)


 内面のオタクパワーが全力でスタンディングオベーションを送っているが、私はあえて仏頂面でカップを置いた。


「……シルヴィアナ。何度も言っているが、執務室には入るなと言ったはずだ」


「あら、そんな冷たいことを。あなたがまた無理をして倒れでもしたら、私の『離縁計画』が遅れるではありませんか。私は早く、自由の身になって独身貴族を楽しみたいのですわ」


「…………」


 カシアン様は、忌々しげに私を睨んだ後、渋々といった様子でカップを手に取った。

 以前なら「毒でも入っているのか」と疑うような目をしていた彼も、最近では私の差し出すものを大人しく口にするようになっている。これは、ある種の「餌付け」に成功したと言っても過言ではないっ。


「……ふむ。相変わらず、奇妙な味だが、身体が軽くなるな……美味い」


「当然ですわ。私の実家、ヴァリエール家に伝わる秘伝の調合ですから。……没落令嬢の知恵を侮らないでくださいませ」


 本当は、ゲーム内の隠しアイテム『賢者の休息』のレシピを再現したものだ。

 カシアン様が本当に美味しそうに(?)飲む姿を見届け、私は満足感に浸っていた。


 ――だが、その平穏は、一本の鋭い角笛の音によって破られた。


 屋敷の正門から響く、不躾な来訪を告げる音。

 私とカシアン様は顔を見合わせた。


「この時期、来客の予定はなかったはずだが……」


「……オズウェル! 何事ですの?」


 私が廊下へ飛び出すと、オズウェルが血相を変えて階段を駆け上がってきた。


「奥様、閣下! ……隣国のディルムント公国より、特使と名乗る者たちが参っております! それが……」


 オズウェルの言葉を待つまでもなく、玄関ホールから傲慢な男の声が響き渡った。


急いで向かうと……。


「やあやあ、エンドリッヒ伯爵! 命拾いしたと聞いたが、随分と静かなお出迎えだな! それとも、あの美しい『毒婦』との新婚生活に溺れて、騎士の誇りさえ忘れてしまったのかい?」


 私はカシアン様の横顔を見た。

 彼の瞳に、一瞬で「戦鬼」の冷徹さが戻る。

 階下にいたのは、派手な金刺繍の施された軍服を纏った、少し痩せた男だった。ディルムント公国の若き将軍、バルト・フォン・クライスト。

 

 ゲームのシナリオでは、彼はカシアン様のライバルであり、同時に、先ほど私が摘発した「横領ルート」の黒幕でもあった男だ。


「クライスト……。貴様、何の用だ。北領の境界を無断で越えたなら、相応の覚悟はできているのだろうな」


 カシアン様が階段を降りながら、冷え切った声を放つ。

 その背中越しに、私はバルトを観察した。

 バルトはニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、それから私の姿を認めると、これ見よがしにあからさまな態度を見せた。


「おやおや、こちらが噂のシルヴィアナ夫人ですか。……ヴァリエール家の『宝石』と謳われた美貌は、没落しても衰えていないようだ。……どうだい、伯爵。こんな卑劣な策略で君を縛った女など、捨てて私に譲ってくれないか? 私なら、彼女の『毒』を正しく扱える自信がある」


「……黙れ」


 カシアン様の手が、腰の剣に伸びた。

 だがその前に私が令嬢らしからぬ足取りでダダダっと階段を降りて、一歩前に出た。

周囲が一瞬、きょとんとなっている。


「あら、嬉しい。私のような悪女に、これほど情熱的な口説き文句をくださるなんて。……でも、クライスト将軍。あなたは少し、勘違いをなさっているようですわ」


 私はカシアン様の腕にそっと手を添え、彼を制した。

 カシアン様が驚いたように私を見るが、私はあえて彼を見ず、バルトに向かって扇を向けた。


「勘違い? ……ほぉ〜、何がかな?」


「あなたは私を『毒婦』と呼びましたが……。私は、毒は毒でも、自分の主を害するような下等な毒ではありませんの。私は、私の所有物を守るための『猛毒』ですわ」


 私は扇をパチンと閉じた。意外と音が大きかった。


「あなたが支援していたあのネズミたちは、今頃、地下牢であなたの名前を熱心に叫んでいますわよ? 彼らからの『贈り物』――裏金や物資の流れも、すべて私が差し押さえました。……今のあなたは、わが家の家計を圧迫した『泥棒』に過ぎません。その泥棒が、どの面を下げてこの屋敷の敷地を跨いでいらっしゃるのかしら?」


 バルトの顔から、余裕の笑みが消えた。

 

「……貴様、何を……」


「あら? 聞こえませんでした? つまり、あなたはもう、このエンドリッヒ家から一銭も、小麦一粒も奪うことはできないということですわ。……それとも、今ここで私に『策略』を仕掛けられ、不名誉なスキャンダルを抱えて国へ帰りたいのですか?」


 私はにっこりと、最高に「悪女らしい」微笑を浮かべた。

 

(ふふん。ゲームの知識によれば、この男は小心者で、自分の名声に傷がつくのを極端に嫌う。ここでカシアン様が斬り捨てれば戦争になるけれど、私が『悪女の嫌がらせ』として追い払えば、向こうは政治的に動けなくなる……!)


 バルトは歯ぎしりをし、私とカシアン様を交互に睨みつけた。


「……チッ、魔女め……! カシアン、いい女を飼ったものだな。……だが、これで終わったと思うなよ!」


 男は吐き捨てるように言い残すと、部下を引き連れて嵐のように去っていった。


 屋敷に再び静寂が戻る。

 私はふぅ、と緊張の糸を解き、肩を落とした。


「……あー、怖かったわ。あんな下品な男の相手、二度と御免ですわ」


 私が独り言を漏らすと、隣にいたカシアン様から、これまで聞いたこともないような声がした。


「…………シルヴィアナ」


 振り返ると、彼は呆然としたような、それでいて何かを耐えているような、奇妙な表情で私を見つめていた。


「あら、どうされました? 腕を触ったのがお嫌でしたか? すぐに離しますわ……」


 私が慌てて手を離そうとした、その時だった。


 カシアン様の大きな手が、私の手首をガシリと掴んだ。


「……離すな」


「えっ……!?」

ハァハァハァ。


「…………なぜ私をかばった」


 彼の声は低く、震えていた。

 氷河色の瞳が熱を帯びて私を射抜いている。


「かかか、庇うだなんて……。私はただ、私の『離縁計画』が邪魔されるのが嫌だっただけで……」


「嘘をつけ。……お前は、あの男が私を侮辱した時、あきらかに怒っていた」


 カシアン様は、私の手首を掴んだまま、ゆっくりと距離を詰めてきた。

 逃げ場のない至近距離。

 彼の清潔な雪のような香りが鼻先を掠める。んっ♡


「……シルヴィアナ。お前は私を嫌っていると言いながら、なぜ、私のためにそこまで身体を張る。……なぜ、私のために泣き、私のために怒るんだ」


「そ、それは……」


 (それは、あなたが私の『最推し』だからよ! あなたが傷つく姿なんて、ドット絵の一片さえも見たくないからよ!)


 心の叫びをゴクリと飲み込み、私は必死に「策略令嬢」の仮面を繋ぎ止めようとした。


「……か、勘違いなさらないでください。私は、完璧な状態のあなたを捨ててやりたいだけですわ。ボロボロの男を捨てても、悪女のプライドが満たされませんもの」

く、苦しすぎる言い訳だ。


「…………そうか」


 カシアン様は、私の苦し紛れの言い訳を聞き、ふっと……。

 

 本当に一瞬だけ。

 氷が解けるような美しすぎる笑みを浮かべた。


「……ならば、精々私を『完璧』にしてみせろ。……それまでは離縁など絶対に許さん」


 そう言い残し、彼は私を解放して、力強い足取りで階段を登っていった。


 一人残されたホールで、私は自分の心臓の音を聴いていた。


「…………えっ!? あっ!? うっ!?」


 い、いま、何て言った?

 離縁など許さないって……?


(待って、待って。カシアン様、今、笑ったわよね? あの『氷壁の伯爵』が、私の前で笑った……? しかも、何その独占欲を感じさせるセリフ! ルート分岐!? これ、完全に『執着愛ルート』に突入してない!?)


 私の頭の中はパニック発作と歓喜で真っ白になった。


 しかし、その時の浮かれた私はまだ知らなかった。

 私が追い払ったバルトが、さらなる卑劣な手段を画策していることを……。

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