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 嵐が去った後のエンドリッヒ伯爵邸は静寂に包まれていた。

 ……いいえ、正確には「嵐の前の静けさ」と言うべきだろう。


 私が豪雨の森から瀕死のカシアン様を連れ帰ったあの日から、もう三日が経った。

 泥まみれ、血まみれのドレスで、意識を失った主君を馬に乗せて現れた私の姿は、屋敷中の使用人や残っていた騎士たちに、拭い去りようのない衝撃を与えたらしい。


 カシアン様は今、主寝室で眠っている。

 傷は深く、一時は高熱に浮かされていたが、私が調合した薬草の効果と、彼自身の並外れた生命力によって、山場は越えた。


 そして私は今、カシアン様の執務室の椅子に深く腰掛けていた。


「……以上が、この三日間で私が片付けた『事務処理』の結果ですわ。何か異存はありますか?」


 私の前で、数人の男たちが震えながら立っている。

 一人は屋敷の金庫番を任されていた会計責任者。もう一人は、領地の物資調達を一手に引き受けていた御用商人だ。


「そ、そんな……奥様! これまでの慣例というものがございます! 我々は先代の頃からこのエンドリッヒ家を支えて……」


「『支えて』? 面白い冗談ですわね。シロアリが柱を食い荒らすことを、この国では支えると言うのかしら?」


 私は机の上に、一冊の帳簿を叩きつけた。

 カシアン様が不在の間、私が不眠不休で洗い出した不正の証拠。架空の魔獣対策費、水増しされた兵糧の請求書、そして隣国の闇商会へと流れていた多額の裏金。


「私は策略家ですのよ? 他人の嘘を見抜くことに関しては、そこのあなたたちよりもずっと年季が入っておりますわ。……カシアン様は優しすぎましたのね。騎士としての矜持きょうじを重んじるあまり、背後のネズミたちがこれほど肥え太っていることに気づかないふりをされていた……。あるいは、気づいていても手が回らなかったのかしら」


 私は扇を広げ、口元を隠して冷ややかに笑った。

 

(本当は、ゲームの設定で『カシアン様は身内に甘く、それが原因で暗殺未遂に遭う』っていう脚本を知っていただけなんだけど。実際に調べてみたら、想像以上に真っ黒けじゃないの。私の推しを、よくもここまで食い物にしようとしてくれたわね……!)


 内面の怒りはマグマのように煮えくり返っているが、表向きはあくまで「自分の利益を守る悪女」を演じる。


「オズウェル。この方々を地下の独房へ。カシアン様が目覚めたら、直接裁いていただきましょう。ああ、抵抗しようとしても無駄ですわよ。すでに騎士団の副団長には話を付けてあります。彼らも、自分たちの給与がどこに消えていたかを知って、少々血気盛んになっていますから、お気をつけなさい」


 私の言葉に、男たちは顔を真っ白にして引き立てられていった。

 オズウェルは去り際に一度だけ私を振り返った。その瞳には、かつての軽蔑はなく、形容しがたい「畏怖」と、そして微かな「信頼」が混ざっていた。


 一人になった執務室で、私はふぅ、と長い息を吐き出した。


「……あぁ、疲れた! 疲れたよぉー!」

バニラアイスでも食べたい。悪役をやるのも体力がいるわね……。


 机に突っ伏したい衝動を抑え、私は立ち上がった。

 これからが本日のメインイベントだ。


 私はキッチンへ向かい、保温魔法をかけた小鍋を手に取った。

 中に入っているのは、特製の「栄養満点・重湯風粥」だ。カシアン様の弱った胃腸をいたわりつつ、失われた魔力と体力を急速に回復させるための秘密のスパイスが練り込まれている。


 主寝室の前へ行くと、若い騎士が二人、門番として立っていた。

 彼らは私を見ると、即座に背筋を伸ばし、敬礼した。


「奥様! 閣下は今、お目覚めになられました!」


「そう……。ご苦労様。私が看病を代わりますから、あなたたちは休憩に行きなさい」


「はっ! ありがとうございます!」


 以前なら「毒婦を近づけるな」とにらまれていたはずが、今や私は、騎士たちから「閣下を救った救世主」あるいは「敵に回すと恐ろしい女主人」として、妙な一目置かれ方をしていた。


 重厚な扉を開け、私は部屋に入った。


 カーテンの隙間から、柔らかな午後の光が差し込んでいる。

 ベッドの上で、カシアン様は身体を起こしていた。

 上半身は裸で、清潔な包帯が幾重にも巻かれている。その逞しい胸板と、引き締まった腹筋、そして銀髪が乱れたままの無防備な姿――。


(……っ! 尊い……ッ! 3Dモデルでは再現しきれなかった、このリアルな筋肉の質感、そして病み上がり特有の、この儚げな色気! スチル確定だわ、今すぐ脳内にスクリーンショットを保存しなきゃ……!)


 鼻血が出そうなのを精神力で止め、私はすまし顔で歩み寄った。


「目覚められたようですわね。カシアン様」


 カシアン様は、私の声に反応してゆっくりと視線を向けた。

 その氷河色の瞳は、数日前のような殺気こそないものの、依然として戸惑いと警戒に満ちている。


「…………シルヴィアナ」


 掠れた声が、私の鼓膜を震わせる。

 彼は自分の身体を見下ろし、それからテーブルの上に置かれた私の薬草の瓶を見つめた。


「……オズウェルとアドラスから聞いた。お前が先陣を切り、私を……あの嵐の中、助けに向かうと。そして谷を躊躇なく降りると即断したと」


「あら、耳が早いことですわね。……勘違いしないでくださいませ。言ったはずです、あなたの命は、私の『財産』です。勝手に死なれては、私の計算が狂いますの」


 私は粥を器に盛り、彼に差し出した。


「召し上がれ。あなたが回復しなければ、離縁の手続きも進みませんわ」


 カシアン様は黙って器を受け取ったが、その手はまだ僅かに震えていた。

 私は溜息をつき、彼の隣に座った。


「貸してください。……本当、手のかかるお人だわ」


「なっ……! 貴様、何をする」


「あーん、ですわ。いいから口を開けてください。それとも、口移しの方がよろしくて?」


 あえて挑発的な笑みを浮かべて見せると、カシアン様の顔が一瞬で耳まで真っ赤に染まった。


「……貴、貴様……っ、……!」


「あら、怒っては体に毒ですわよ」


 私は、スプーンですくった粥を彼の口元へ運んだ。

 カシアン様は屈辱に顔を歪ませながらも、抗えない飢餓感と、そして何より私の「毒気」に押されたのか、観念したように口を開けた。


「…………う、美味いな」


 小さく、呟くように漏れた言葉。

 

(やった……! カシアン様からの『美味い』、いただきました! 推しに自分の作った料理を食べてもらえるなんて、前世の私に教えてあげたいわ。今なら死ねる……いや、まだ死なない、死ぬまで推しの幸せを見届けるんだから!)


 心の中での絶叫とは裏腹に、私は淡々と粥を運んだ。


「……シルヴィアナ。一つ、聞かせてくれ」


 器が空になった頃、カシアン様が不意に真剣な声を出した。

 

「なぜ、離縁などという条件を出した。……お前は、裏があるとはいえ、私との結婚を強く望んでいたのではないのか。この地位と、財産を手に入れるために、あの夜会であれほどの芝居を打ってまで」


 彼の問いは鋭く私の核心を突いた。

 カシアン様は、ずっと考えていたのだろう。私という女が、何を企んでいるのか。自分を救い、屋敷の不正を暴き、その上で自分を捨てようとしている。その矛盾が、彼の論理的な思考を狂わせているのだ。


 私は空の器を置き、窓の外に視線を向けた。

 北の空は嵐が去った後とは思えないほど澄み渡っている。


「……カシアン様。私は確かに、強欲な女です。欲しいものは、どんな手を使っても手に入れたい。……けれど、手に入れたものが『壊れていく』のを見るのは、私の美学に反しますの」


 嘘は言っていない。私は振り返り、彼の瞳をじっと見つめた。


「あなたは、このエンドリッヒ家の重責を一人で背負い、誰にも頼らず、自分を削って生きてこられた。……そんな、そんなあなたの隣に、私のような『毒』を持った女がいては、あなたはいつか本当に壊れてしまいますわ」


 これは、半分は本心。

 彼には、もっと清らかな、彼を心から愛し、支えてくれる「聖女」のような女性が相応ふさわしい。……ゲームのヒロインのように。


「だから、一度すべてを整理しましょう。屋敷のネズミは私が駆除しておきました。領地の不正も、これから私が根こそぎ暴きます。……あなたが万全な状態で、清廉な騎士として再出発できるようになった時。……その時が、私の『仕事』の終わりですわ」


 私は立ち上がり優雅に一礼した。


「それまでは、せいぜい私にこき使われて、健康になってくださいませね。旦那様」


 カシアン様は何も言わなかった。

 ただ私が部屋を出て行くまで、その氷河色の瞳で、私の背中をずっと、ずっと見つめていた。

 その視線が、以前のような憎しみではなく、もっと重く、複雑な「何か」をはらんでいることに、私はまだ気づいていなかった。


 廊下に出た瞬間、私は壁に背中を預けてズルズルと崩れ落ちた。


……ふえぇぇ……かっこよすぎ〜♪……。あの困惑した顔、最高にエモかった……。でも『清廉な騎士として再出発』なんて、私、かっこいいこと言っちゃったわよね〜。本当は離縁届なんて一生出したくないのに!


 私は自分の失言(本音を隠すための嘘)を後悔しながらも、にやけそうになる頬をビシビシ叩いた。


 待っていてください、カシアン様。

 あなたの生活を完璧に整えて、最高の「推し」として完成させたあかつきには。

 私は潔く身を引いて……。


(……いや、やっぱり無理! せめて、遠くから眺める権利だけは、策略で勝ち取ってみせるんだから!)


 私の「推し活」は、いよいよ本格的な「内助の功(物理)」へと突入していくのであった。


────


 その数日後。

 ようやくベッドから起き上がれるようになったカシアン様が、執務室で見た光景。

 そこには私がお仕置き(解雇)したネズミたちの代わりに、私がどこからか連れてきた「怪しいけれど極めて有能な人材」たちが、キビキビと立ち働いている姿があった。


「シルヴィアナ……。あの男は、確か隣国で指名手配されていた天才詐欺師ではなかったか?」


「あら、人聞きが悪いですわ。彼は今、わが家の『帳簿監察官』です。詐欺師だからこそ、詐欺の手口には誰よりも詳しいでしょう?」

詐欺師。それはプレイヤーを騙すただの飾りの札。


「…………」


 カシアン様がこめかみを押さえて絶句する姿もまた、私の脳内アルバムの貴重な一ページとなった。

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