4
雨は、天が泣き叫んでいるかのように激しく、私の視界をすべて奪い去ろうとしていた。
エンドリッヒ伯爵邸を飛び出してから、どれほどの時間が経っただろう。
私は厚手の旅装の上から、雨合羽を羽織り、馬を走らせていた。没落してから、生きるために馬の扱いも覚えた。泥を撥ね上げ、岩を乗り越え、魔獣が蠢くという北の森へと突き進む。
顔を叩く雨は氷のように冷たく、体温を容赦なく奪っていく。指先はすでに感覚がなく、手綱を握る力も限界に近かった。
「……うぅ……っ」
寒さと恐怖で、歯がガチガチと鳴る。
一介の令嬢が、こんな嵐の夜に、しかも魔獣の領域に剣も持たずにで入るなんて、正気の沙汰ではない。オズウェルが止めるのも当然だ。
けれど、私の心の中にあったのは、恐怖よりも、もっと熱く、切実な衝動だった。
(カシアン様……、カシアン様、どうか生きていて……!)
脳裏には、ゲーム『凍てつく月の騎士』のマップが鮮明に浮かんでいる。
伝令が言っている「奇襲に遭った渓谷」。カシアン様が部隊を逃がすために殿を務め、谷底へ落ちた場所。
ゲームのシナリオでは、彼はそこで行方不明になり、数日後に瀕死の状態で発見される。その間、彼は独り、傷と高熱、そして魔獣の毒に苛まれるのだ。
その孤独な苦しみを想うだけで、胸が張り裂けそうになる。
公式ファンブックのインタビューで、シナリオライターが言っていた。『バッドエンドルートでは、カシアンは誰にも頼ることを知らずに死んでいくキャラクターとして描いた』と。
「……そんな結末、絶対に許さないんだから!」
私は叫び、馬の腹を蹴った。
たとえシナリオがそうでも、今の私には前世の知識がある。そして何より、彼に『三つの神器』を渡した。
銀月草のサシェ。あれがあれば、この森に満ちる魔獣の瘴気に身体を蝕まれることはないはずだ。
渓谷の縁にたどり着いた時、雨はさらに激しさを増していた。
「シルヴィアナ、ここから下に降りるのは不可能です。回り込んで……」
「それじゃあ半日もかかって、手遅れになってしまうわ!」
下を覗き込むと、真っ暗な闇の中に、濁流が渦巻く音が聞こえる。ここから落ちて、無事でいられるはずがない……普通の人間なら。
私は馬を降り、木に繋いだ。
「一体何を!?」
「ここからは、徒歩で下りなければならないの。手伝って!」
「……畏まりました」
ゲームの隠しルート、崖の僅かな亀裂を伝って、彼が潜伏しているはずの洞窟へ向かう。
泥だらけになりながら、岩にへばりつき、一歩一歩下へ向かう。
何度も足が滑り、谷底へ落ちそうになった。そのたびに、カシアン様の冷徹な、けれどどこか孤独な瞳を思い出し、自分を奮い立たせる。
(……もし、彼が私の渡したものを捨てていたら?)
不意に、最悪の想像が頭をよぎった。
彼は私を憎んでいる。私の渡したお守りなんて、呪いの品として、森に入った瞬間に捨てたかもしれない。
(……もしそうなら、私は……)
その時。
私の指先が、微かに「温かいもの」に触れた。
「……っ!」
それは、瘴気とは違う、微かな、けれど確かな『気配』だった。
ゲームの知識だけではない。今の私は、この世界の魔力の流れを僅かに感じ取ることができる。
「間違いない。この先に彼がいるわ!」
「き、気をつけて下さい。落ちれば命はないです」
最後の岩場を乗り越え、私は小さな洞窟の入り口へと転がり込んだ。
そこは雨風こそ凌げるものの、じめじめと冷たく、死の気配が漂っていた。
「……カシアン様? カシアン様、いらっしゃいますか!?」
「閣下! 閣下!」
私は懐から魔石を組み込んだ魔導ランタンを取り出し、明かりを灯した。
青白い光が洞窟の奥を照らし出す。
そこに……彼はいた。
「…………ぁ」
「カシアン様!」
「閣下!?」
私は、その場に崩れ落ちそうになった。だが兵士が支えてくれた。
カシアン様は岩壁に背を預け、座り込むようにして倒れていた。
あの美しかった銀髪は泥と血で汚れ、漆黒の外套は無惨に裂けている。何より、その右脇腹からは、大量の血が溢れ出し、地面を赤黒く染めていた。
意識はない。
顔色は死人のように白く、呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。
「カシアン様! カシアン様!」
私はランタンを置き、彼のもとへ駆け寄った。
その身体は氷のように冷たい。
私は震える手で彼の傷口に触れた。魔獣の牙による、深く、毒を含んだ傷。…ゲームのイベントで見た通りだ。
「……嘘、嘘よ。こんな……!」
涙が溢れてくる。
最推しの、私の大切な、世界で一番幸せになってほしかった人が、今、目の前で死にかけている。
私の策略で、彼をこんな場所に追い込んだ。私が、彼を殺そうとしている……。
「……っ、違う! 今は泣いている暇なんてないわ!」
私は自分の頬を強く叩いた。
前世の知識、そして没落してから学んだ薬草の知識。すべてを総動員する。
私は旅装のポケットから、救急箱を取り出した。
中には、ヴァリエール家に伝わる、魔獣の毒を中和する強力な薬草の軟膏と、止血剤、そして滋養強壮に効くポーションが入っている。
そして何より――。
私はカシアン様の懐を、必死に探った。
もし、もし捨てられていたら、私の薬なんて効かないかもしれない。瘴気にやられて、身体が薬を受け付けない。
「……あっ!」
見つけた。
彼の外套の内側。心臓に最も近い場所に、あの『銀月草のサシェ』が、泥に汚れながらも、確かに収められていた。
「……捨てて、なかった……」
それだけではない。
彼が握りしめていた愛剣の柄には、私が渡した、あの簡素な、髪のアミュレットが、銀の糸を微かに光らせながら、固く巻き付けられていた。
「…………カシアン様……っ」
胸が熱くなる。
捨てると言ったのに。ゴミだと言ったのに。
彼は私が渡した『呪い』を、最期の瞬間まで手放さなかったのだ。
それが、私への憎しみからなのか、それとも、ただの騎士としての律儀さからなのかは分からない。けれど、私にはそれが、彼と私の間に結ばれた、微かな『約束』のように感じられた。
「……絶対に、死なせない。死なせてたまるもんですか!」
私は、まず脇腹の傷を洗った。ポーションを直接傷口に注ぐ。カシアン様の身体が、激痛に微かに痙攣する。
「……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……でも、耐えて!」
私は泣きながら、軟膏を厚く塗り、止血剤を散布した。そして、兵士が予備の雨合羽を裂き、包帯代わりにして傷口を固く縛った。
それから、滋養強壮剤を彼に飲ませた。
令嬢としての羞恥心なんて、とっくに森の雨に流されている。
彼の氷のような唇をこじ開け、すべて彼の中に注ぎ込む。
「……飲んで、カシアン様。私の命、すべてあげてもいいから……」
何度も、何度も。
彼がコクン、と喉を鳴らして薬を飲み下すまで、私は口付けを止めなかった。
────
手当てを終えた時、外の雨はいくらか小降りになっていた。伝令の兵士が腰に差した剣の柄に手を置き、洞窟の入り口を見張っている。もし魔物が来たら……私にはなにもできない。
ランタンの光の中で、カシアン様の顔色が、微かに、本当に微かに、赤みを帯びてきた。呼吸も安定し、死の淵からは遠ざかったようだ。
私は精根尽き果てて、彼の隣にへたり込んだ。
身体は冷え切り、全身が悲鳴を上げている。けれど、彼の鼓動が感じられるだけで私は幸せだった。
(……助かった。……よかった。ゲームのシナリオ、変えられたわ……)
私は彼の泥だらけの銀髪を愛おしげに撫でた。
普段なら絶対にできない。嫌われる、侮蔑される、それ以前に殺される。
けれど今、彼は眠っている。私を憎むことも、冷酷な瞳で睨むこともできない、無防備な状態で。
(……あぁ、なんて整った寝顔……。睫毛、長いわ……。この眉間のシワ、普段からどれだけ無理をしていたのかしら……)
オタク的な観察眼が、再び稼働し始める。
傷だらけの、けれど黄金比に基づいた完璧な美貌。彼が『最推し』である理由が、改めて腑に落ちる。この孤独な美しさを、私は愛していたのだ。
「……カシアン様。私は……」
私は彼の額に、自分の額を重ねた。
「……私は、あなたのことが……」
――その時。
「…………ん……」
カシアン様の唇から、微かな呻き声が漏れた。
「……! カシアン様?」
私は慌てて額を離した。
カシアン様の睫毛が、微かに震える。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、その瞼が開かれた。
「…………」
氷河色の瞳が、ぼんやりと虚空を見つめている。
まだ意識は混濁しているようだ。
「……カシアン様。お分かりになりますか? 私です。シルヴィアナです」
私の声を聞いた瞬間。
彼の瞳に、急速に「正気」が戻ってきた。
「…………き、貴様……」
掠れた、けれど、冷え切った声。
その瞳に宿ったのは、感謝でも安堵でもない。あからさまな「拒絶」と「憎悪」だった。
「閣下!」
「アドラス……無事で良かった……」
「閣下のおかげです……」
「……なぜ……私は死んだ、のでは……ないのか……」
彼は脇腹の痛みに顔を歪めながらも、岩壁を背に身体を起こそうとした。
だが身体は動かない。私達が施した止血剤とポーションが、彼を縛り付けている。
「……カシアン様、動かないでください! 傷が開きます!」
「……触るな! ……卑劣な泥棒め……」
伝令の兵士は辛辣な表情で松明を持ったまま立ち尽くし、萎縮している。
カシアン様は、私の手を乱暴に振り払おうとした。だが、その力は弱々しく、私の手に力なく触れただけだった。
「……貴様が……なぜ……。……まさか……、……私を……辱めに……?」
辱め。
彼にとって、私に助けられるということは、死ぬことよりも屈辱的なのだ。
自分の命を、策略で自分を嵌めた、最低の女に救われた。その事実が彼の騎士としての誇りを、粉々に砕いている。
「辱め? いいえ、カシアン様。私はただ、私の財産を守りに来ただけですわ」
私はすっと表情を消した。
「策略令嬢」の仮面を被る。
ここで「あなたを愛しているから助けた」なんて言っても、彼をさらに傷つけるだけだ。ならば、私の行動を「打算」として納得させたほうがいい。
「財産……?」
「ええ。あなたの命ですわ。カシアン様。あなたは、私が『離縁』と『策略の証拠』を受け取るまでは、死んではいけない約束です。……もしあなたがここで死ねば、私は未亡人となり、この屋敷に一生居座ることになります。……それは、お嫌でしょう?」
カシアン様は私の言葉を聞き、目を見開いた。
そして、その瞳に複雑な色が混ざり合う。
憎悪。屈辱。困惑。そして、微かな……安堵?
「………………」
彼は何も言わず、ただ私を睨み続けた。
その氷の瞳の奥に、私は初めて、彼の「感情の揺らぎ」を見た気がした。
彼は私の手を、弱々しく、けれど、今度は振り払わずに握りしめた。
泥だらけの、冷たい手。
けれど、その手から彼の、生きようとする凄まじい執念が伝わってきた。
「……待っていろ、……シルヴィアナ」
地を這うような掠れた声。
「……貴様から、……離縁届を、……毟り取ってやる。……この、……策略女め……」
そう言い残し、彼は再び意識を失った。
「閣下!?」
「大丈夫よ。あぁ、雨は止みそう?」
「いいえ……暫くは動けないでしょう。しかし、雨が止んだら、早く移動した方が安全です」
「分かったわ。一緒に来てくれてありがとう」
「騎士の務めですから、奥様」
カシアン様の今度の眠りは、先ほどとは違う。生きようとする、熱い魔力が彼の身体を巡り始めていた。
私は、彼の握りしめた手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「待っておりますわ。カシアン様。……あなたが、私をこの屋敷から追い出すのを。……全力で、お仕えして、全力で嫌われて、そして……全力であなたを幸せにしてから、追い出されて差し上げますわ」
――こうして、嵐の洞窟で。
私たちの、奇妙で、最低で、けれど最高の「新婚生活」が、本当の意味で幕を明けたのだ。




