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 雨は、天が泣き叫んでいるかのように激しく、私の視界をすべて奪い去ろうとしていた。


 エンドリッヒ伯爵邸を飛び出してから、どれほどの時間が経っただろう。

 私は厚手の旅装の上から、雨合羽を羽織り、馬を走らせていた。没落してから、生きるために馬の扱いも覚えた。泥をね上げ、岩を乗り越え、魔獣がうごめくという北の森へと突き進む。


 顔を叩く雨は氷のように冷たく、体温を容赦なく奪っていく。指先はすでに感覚がなく、手綱を握る力も限界に近かった。


「……うぅ……っ」


 寒さと恐怖で、歯がガチガチと鳴る。

 一介の令嬢が、こんな嵐の夜に、しかも魔獣の領域に剣も持たずにで入るなんて、正気の沙汰ではない。オズウェルが止めるのも当然だ。

 けれど、私の心の中にあったのは、恐怖よりも、もっと熱く、切実な衝動だった。


(カシアン様……、カシアン様、どうか生きていて……!)


 脳裏には、ゲーム『凍てつく月の騎士』のマップが鮮明に浮かんでいる。

 伝令が言っている「奇襲に遭った渓谷」。カシアン様が部隊を逃がすために殿しんがりを務め、谷底へ落ちた場所。

 ゲームのシナリオでは、彼はそこで行方不明になり、数日後に瀕死の状態で発見される。その間、彼は独り、傷と高熱、そして魔獣の毒にさいなまれるのだ。


 その孤独な苦しみを想うだけで、胸が張り裂けそうになる。

 公式ファンブックのインタビューで、シナリオライターが言っていた。『バッドエンドルートでは、カシアンは誰にも頼ることを知らずに死んでいくキャラクターとして描いた』と。


「……そんな結末、絶対に許さないんだから!」


 私は叫び、馬の腹を蹴った。

 たとえシナリオがそうでも、今の私には前世の知識がある。そして何より、彼に『三つの神器』を渡した。

 銀月草のサシェ。あれがあれば、この森に満ちる魔獣の瘴気しょうきに身体をむしばまれることはないはずだ。


 渓谷の縁にたどり着いた時、雨はさらに激しさを増していた。

「シルヴィアナ、ここから下に降りるのは不可能です。回り込んで……」

「それじゃあ半日もかかって、手遅れになってしまうわ!」

 下を覗き込むと、真っ暗な闇の中に、濁流が渦巻く音が聞こえる。ここから落ちて、無事でいられるはずがない……普通の人間なら。


 私は馬を降り、木に繋いだ。

「一体何を!?」

「ここからは、徒歩で下りなければならないの。手伝って!」

「……畏まりました」


ゲームの隠しルート、崖の僅かな亀裂を伝って、彼が潜伏しているはずの洞窟へ向かう。


 泥だらけになりながら、岩にへばりつき、一歩一歩下へ向かう。

 何度も足が滑り、谷底へ落ちそうになった。そのたびに、カシアン様の冷徹な、けれどどこか孤独な瞳を思い出し、自分を奮い立たせる。


(……もし、彼が私の渡したものを捨てていたら?)


 不意に、最悪の想像が頭をよぎった。

 彼は私を憎んでいる。私の渡したお守りなんて、呪いの品として、森に入った瞬間に捨てたかもしれない。


(……もしそうなら、私は……)


 その時。

 私の指先が、微かに「温かいもの」に触れた。


「……っ!」


 それは、瘴気とは違う、微かな、けれど確かな『気配』だった。

 ゲームの知識だけではない。今の私は、この世界の魔力マナの流れを僅かに感じ取ることができる。


「間違いない。この先に彼がいるわ!」

「き、気をつけて下さい。落ちれば命はないです」


 最後の岩場を乗り越え、私は小さな洞窟の入り口へと転がり込んだ。

 そこは雨風こそしのげるものの、じめじめと冷たく、死の気配が漂っていた。


「……カシアン様? カシアン様、いらっしゃいますか!?」

「閣下! 閣下!」


 私は懐から魔石を組み込んだ魔導ランタンを取り出し、明かりを灯した。

 青白い光が洞窟の奥を照らし出す。


 そこに……彼はいた。


「…………ぁ」


「カシアン様!」

「閣下!?」


 私は、その場に崩れ落ちそうになった。だが兵士が支えてくれた。


 カシアン様は岩壁に背を預け、座り込むようにして倒れていた。

 あの美しかった銀髪は泥と血で汚れ、漆黒の外套は無惨に裂けている。何より、その右脇腹からは、大量の血が溢れ出し、地面を赤黒く染めていた。


 意識はない。

 顔色は死人のように白く、呼吸は浅く、今にも止まりそうだ。


「カシアン様! カシアン様!」


 私はランタンを置き、彼のもとへ駆け寄った。

 その身体は氷のように冷たい。

 私は震える手で彼の傷口に触れた。魔獣の牙による、深く、毒を含んだ傷。…ゲームのイベントで見た通りだ。


「……嘘、嘘よ。こんな……!」


 涙が溢れてくる。

 最推しの、私の大切な、世界で一番幸せになってほしかった人が、今、目の前で死にかけている。

 私の策略で、彼をこんな場所に追い込んだ。私が、彼を殺そうとしている……。


「……っ、違う! 今は泣いている暇なんてないわ!」


 私は自分の頬を強く叩いた。

 前世の知識、そして没落してから学んだ薬草の知識。すべてを総動員する。


 私は旅装のポケットから、救急箱を取り出した。

 中には、ヴァリエール家に伝わる、魔獣の毒を中和する強力な薬草の軟膏と、止血剤、そして滋養強壮に効くポーションが入っている。

 そして何より――。


 私はカシアン様の懐を、必死に探った。

 もし、もし捨てられていたら、私の薬なんて効かないかもしれない。瘴気にやられて、身体が薬を受け付けない。


「……あっ!」


 見つけた。

 彼の外套の内側。心臓に最も近い場所に、あの『銀月草のサシェ』が、泥に汚れながらも、確かに収められていた。


「……捨てて、なかった……」


 それだけではない。

 彼が握りしめていた愛剣の柄には、私が渡した、あの簡素な、髪のアミュレットが、銀の糸を微かに光らせながら、固く巻き付けられていた。


「…………カシアン様……っ」


 胸が熱くなる。

 捨てると言ったのに。ゴミだと言ったのに。

 彼は私が渡した『呪い』を、最期の瞬間まで手放さなかったのだ。

 

 それが、私への憎しみからなのか、それとも、ただの騎士としての律儀さからなのかは分からない。けれど、私にはそれが、彼と私の間に結ばれた、微かな『約束』のように感じられた。


「……絶対に、死なせない。死なせてたまるもんですか!」


 私は、まず脇腹の傷を洗った。ポーションを直接傷口に注ぐ。カシアン様の身体が、激痛に微かに痙攣けいれんする。

 

「……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……でも、耐えて!」


 私は泣きながら、軟膏を厚く塗り、止血剤を散布した。そして、兵士が予備の雨合羽を裂き、包帯代わりにして傷口を固く縛った。

 

 それから、滋養強壮剤を彼に飲ませた。

 令嬢としての羞恥心なんて、とっくに森の雨に流されている。

 彼の氷のような唇をこじ開け、すべて彼の中に注ぎ込む。


「……飲んで、カシアン様。私の命、すべてあげてもいいから……」


 何度も、何度も。

 彼がコクン、と喉を鳴らして薬を飲み下すまで、私は口付けを止めなかった。


────


 手当てを終えた時、外の雨はいくらか小降りになっていた。伝令の兵士が腰に差した剣の柄に手を置き、洞窟の入り口を見張っている。もし魔物が来たら……私にはなにもできない。

 ランタンの光の中で、カシアン様の顔色が、微かに、本当に微かに、赤みを帯びてきた。呼吸も安定し、死の淵からは遠ざかったようだ。


 私は精根尽き果てて、彼の隣にへたり込んだ。

 身体は冷え切り、全身が悲鳴を上げている。けれど、彼の鼓動が感じられるだけで私は幸せだった。


(……助かった。……よかった。ゲームのシナリオ、変えられたわ……)


 私は彼の泥だらけの銀髪を愛おしげに撫でた。

 普段なら絶対にできない。嫌われる、侮蔑される、それ以前に殺される。

 けれど今、彼は眠っている。私を憎むことも、冷酷な瞳でにらむこともできない、無防備な状態で。


(……あぁ、なんて整った寝顔……。睫毛まつげ、長いわ……。この眉間のシワ、普段からどれだけ無理をしていたのかしら……)


 オタク的な観察眼が、再び稼働し始める。

 傷だらけの、けれど黄金比に基づいた完璧な美貌。彼が『最推し』である理由が、改めてに落ちる。この孤独な美しさを、私は愛していたのだ。


「……カシアン様。私は……」


 私は彼の額に、自分の額を重ねた。


「……私は、あなたのことが……」


 ――その時。


「…………ん……」


 カシアン様の唇から、微かなうめき声が漏れた。


「……! カシアン様?」


 私は慌てて額を離した。

 カシアン様の睫毛が、微かに震える。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、そのまぶたが開かれた。


「…………」


 氷河色の瞳が、ぼんやりと虚空を見つめている。

 まだ意識は混濁しているようだ。


「……カシアン様。お分かりになりますか? 私です。シルヴィアナです」


 私の声を聞いた瞬間。

 彼の瞳に、急速に「正気」が戻ってきた。


「…………き、貴様……」


 かすれた、けれど、冷え切った声。

 その瞳に宿ったのは、感謝でも安堵でもない。あからさまな「拒絶」と「憎悪」だった。


「閣下!」

「アドラス……無事で良かった……」

「閣下のおかげです……」


「……なぜ……私は死んだ、のでは……ないのか……」


 彼は脇腹の痛みに顔を歪めながらも、岩壁を背に身体を起こそうとした。

 だが身体は動かない。私達が施した止血剤とポーションが、彼を縛り付けている。


「……カシアン様、動かないでください! 傷が開きます!」


「……触るな! ……卑劣な泥棒め……」


伝令の兵士は辛辣な表情で松明を持ったまま立ち尽くし、萎縮している。


 カシアン様は、私の手を乱暴に振り払おうとした。だが、その力は弱々しく、私の手に力なく触れただけだった。


「……貴様が……なぜ……。……まさか……、……私を……はずかしめに……?」


 辱め。

 彼にとって、私に助けられるということは、死ぬことよりも屈辱的なのだ。

 自分の命を、策略で自分を嵌めた、最低の女に救われた。その事実が彼の騎士としての誇りを、粉々に砕いている。


「辱め? いいえ、カシアン様。私はただ、私の財産を守りに来ただけですわ」


 私はすっと表情を消した。

 「策略令嬢」の仮面を被る。

 ここで「あなたを愛しているから助けた」なんて言っても、彼をさらに傷つけるだけだ。ならば、私の行動を「打算」として納得させたほうがいい。


「財産……?」


「ええ。あなたの命ですわ。カシアン様。あなたは、私が『離縁』と『策略の証拠』を受け取るまでは、死んではいけない約束です。……もしあなたがここで死ねば、私は未亡人となり、この屋敷に一生居座ることになります。……それは、お嫌でしょう?」


 カシアン様は私の言葉を聞き、目を見開いた。

 そして、その瞳に複雑な色が混ざり合う。

 憎悪。屈辱。困惑。そして、微かな……安堵?


「………………」


 彼は何も言わず、ただ私を睨み続けた。

 その氷の瞳の奥に、私は初めて、彼の「感情の揺らぎ」を見た気がした。


 彼は私の手を、弱々しく、けれど、今度は振り払わずに握りしめた。

 泥だらけの、冷たい手。

 けれど、その手から彼の、生きようとする凄まじい執念が伝わってきた。


「……待っていろ、……シルヴィアナ」


 地を這うような掠れた声。


「……貴様から、……離縁届を、……むしり取ってやる。……この、……策略女め……」


 そう言い残し、彼は再び意識を失った。


「閣下!?」

「大丈夫よ。あぁ、雨は止みそう?」

「いいえ……暫くは動けないでしょう。しかし、雨が止んだら、早く移動した方が安全です」

「分かったわ。一緒に来てくれてありがとう」

「騎士の務めですから、奥様」


 カシアン様の今度の眠りは、先ほどとは違う。生きようとする、熱い魔力が彼の身体を巡り始めていた。


 私は、彼の握りしめた手を、自分の両手でそっと包み込んだ。

 

「待っておりますわ。カシアン様。……あなたが、私をこの屋敷から追い出すのを。……全力で、お仕えして、全力で嫌われて、そして……全力であなたを幸せにしてから、追い出されて差し上げますわ」


 ――こうして、嵐の洞窟で。

 私たちの、奇妙で、最低で、けれど最高の「新婚生活」が、本当の意味で幕を明けたのだ。

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