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玄関ホールに、重苦しい沈黙が降りた。
居合わせた騎士たちの視線が、不敬な発言をした私――この屋敷の「招かれざる女主人」にグサグサと突き刺さっている。
カシアン様は馬上から私を見下ろしていた。
その瞳は獲物を定める猛禽のように鋭く、一切の感情を排している。だが私は見た。わずかに動いた彼の喉仏を。そして、冷たい風が吹く中で、彼の額に滲んだ薄い汗を。
「条件だと……?」
地を這うような低い声。それは警告のようだった。これ以上言葉を重ねれば、本気で切り捨てるという拒絶のサイン。
並の人間なら、その気迫に腰を抜かして逃げ出すだろう。
けれど私は、生粋の「オタク」なのだ。
(ああ、なんて素晴らしい威圧感……。これよ、これ! ゲームの第4章で見せた、敵軍を計略で壊滅させる時の『死神の眼光』! この殺気を間近で浴びられるなんて……。じゃなくて! 今はそんなこと言ってる場合じゃないわ!)
私は己の頬を内側から噛み、高鳴る鼓動を抑えつけた。
ここで怯んでは、彼は死ぬ。ゲームのシナリオ通り、過労と魔獣の毒に侵され、高熱の中で孤独に倒れる結末へ向かってしまう。そして、本来の私は嘲笑って豪遊を満喫。
「はい。カシアン様。あなたがその遠征を強行されるというのなら、私と一つ、取引をしていただきますわ」
「……言ってみろ。手短にな」
カシアン様は苛立ちを隠そうともせず、手綱を握る手に力を込めた。
私は周囲に聞こえるような通る声で、凛とした態度を崩さずに告げた。
「遠征の間、私が用意した『三つの神器』を肌身離さず身につけること。そして、五日以内に必ず生きてこの屋敷に帰還すること。……もし、これを守っていただけるなら」
私は一度言葉を切り、カシアン様の目を真っ直ぐに見つめた。
「私が弄んだ策略――。あなたを強引に結婚へと追い込んだあのスキャンダルの『証拠』と、私の『離縁届』を、あなたの帰還と同時にお渡しいたしますわ」
その瞬間、ホールの空気が爆発したかのようにざわついた。
「離縁」という言葉に、一番驚いたのはオズウェルだっただろう。彼は目を見開き、信じられないという顔で私を見ている。
カシアン様の瞳に初めて「動揺」の火が灯った。
彼にとって、私との結婚は忌まわしい呪いそのものだ。それを解く権利を、自分から差し出すと言ったのだから。
「……正気か、シルヴィアナ。お前はヴァリエール家を再興するために、その地位を求めたのではなかったのか」
「ええ、そうですわ。でも、夫が戦死してしまっては、元も子もありませんもの。未亡人として慎ましく暮らすよりは、自由な身になって別の『獲物』を探したほうが効率的だと思い至りましたの」
あえて。あえて最低の女を演じてみせる。
「あなたを愛しているから、死なないでほしい」なんて真実を伝えても、今の彼には毒にしか聞こえない。ならば、「強欲な女の打算」として納得させたほうがいい。
「…………三つの神器とは、何だ?」
カシアン様がついに折れた。
私は勝利を確信し、用意していたものを懐から取り出した。
「一つ目は、このハーブを詰めた小袋ですわ。……笑わないでくださいませ、これは私の実家に伝わる、魔を退け、精神を安定させる特殊な香合です。これを兜の裏、あるいは胸元に忍ばせてください」
実際には、これはゲーム内で「状態異常無効」の効果を持っていた稀少な薬草『銀月草』をベースにしたものだ。前世の知識を使い、没落した実家の庭の隅に自生していたものを見つけ出し、精製した。これがあれば、北の魔獣が放つ「瘴気」による体調悪化を劇的に抑えられるはずだ。
「二つ目は、この水筒の中身。中には私が特別に調合した滋養強壮剤が入っています。……毒だと思われますなら、今ここで私が毒見をしてもよろしいですが?」
「飲んでみろ」
「はい!」
私が躊躇なく飲もうとすると、直前で「……不要だ。三つ目は?」
私は最後の一つを差し出した。
それは、私の髪を一房切り取り、銀の刺繍糸で編み込んだ、ごく簡素なアミュレット(お守り)だった。
「これを、剣の柄に。……いえ、そんな嫌そうな顔をしないで下さい。これは『呪い』のようなものですわ。これをつけている限り、あなたは私という『不愉快な現実』から逃げることはできません。死んで楽になることさえ、私が許さない……という印ですわ」
カシアン様は、忌々しげにそのアミュレットを見つめた後、ひったくるようにしてそれらを奪い取った。
「……いいだろう。その離縁の話、違えれば容赦はせんぞ。貴様の『三つのゴミ』など、戦場に着けば捨ててやる」
「ええ、お好きにどうぞ。けれど、生きて帰らなければ、私がこの家を相続し、離縁届も無効になりますから、ご注意くださいませね」
カシアン様は鼻で笑うと、鋭く手綱を引いた。
「出発だ!」
その号令と共に、重装騎兵たちが一斉に動き出す。
蹄の音が石畳を叩き、彼らの背中が遠ざかっていく。
カシアン様の漆黒の外套が風に翻る。
その背中を、私は門の外まで追いかけて見送り続けた。
彼が一度も振り返らないことは分かっていた。嫌われているのだから。
それでも私は叫ばずにはいられなかった。
「カシアン様! 信じておりますわ! 私の離縁届を、その手で破り捨てる……じゃなくて、受け取りに帰ってくることを!」
(……あぶない、本音が漏れそうになったわ)
姿が見えなくなるまで見送り、私はようやく深く長い息を吐き出した。
膝が笑っている。
あんなに冷酷な殺気を向けられて、平気なはずがなかった。
「……奥様。本当に、よろしかったのですか?」
背後から、オズウェルが複雑な表情で声をかけてきた。
「離縁など……あんなものは、旦那様を追い詰めるための嘘でしょう? それとも、本当に旦那様を見捨てるおつもりなのですか?」
私はオズウェルに向き直り、すっと表情を消した。
「策略令嬢」としての、冷徹な仮面を被る。
「オズウェル。私は一度言ったことは守りますわ。……彼が無事に帰ってくれば、私は彼を解放して差し上げます。それが、今の私が彼にしてあげられる、唯一の『誠実』ですもの」
――嘘だ。
離縁なんて、したくない。本当は。
死ぬまで彼の隣にいたい。彼の不器用な優しさを引き出し、いつかあの氷のような瞳を、熱い情熱で溶かしてみたい。
けれど、今の私は「彼を不幸にした加害者」なのだ。
加害者が被害者を愛しているなんて、そんな傲慢な理屈が通るはずがない。
だから、まずは彼を救う。
彼を死の運命から引きずり戻す。
その対価として、私は彼の前から消える覚悟をしなければならない。
「さあ、オズウェル。悲しんでいる暇はありませんわ。彼が帰ってきた時、この屋敷が泥棒猫に荒らされた廃墟のままでは困るでしょう?」
「……はい?」
「掃除をします。それから、北領の帳簿をすべて持ってきてちょうだい。……没落したとはいえ、私はヴァリエール家の娘。数字の扱いには慣れていますわ。カシアン様が不在の間、私がこの屋敷の『膿』をすべて出し切って差し上げます」
私はドレスの袖をまくり上げた。
ゲームの知識によれば、エンドリッヒ伯爵家の財政が逼迫している原因は、私や魔獣被害だけではない。
家臣の中にある、横領。そして、隣国との不当な交易ルート。
カシアン様があんなに無理をして働かなければならない「本当の理由」が、この屋敷の闇に隠れている。
(待ってて、カシアン様。あなたが戦場で戦っている間、私はこの屋敷という戦場で戦うわ。あなたが帰ってきた時、少しでも肩の荷が軽くなっているように。……それが、私の『推し活』の集大成よ!)
────
その夜から、エンドリッヒ伯爵邸には激震が走った。
北棟に引きこもっているはずの「策略夫人」が、凄まじい勢いで屋敷の管理に介入し始めたのだ、と。
「この食費の計上、おかしくありませんか? 北方の小麦の相場と三割も乖離していますわ。……あぁ、説明は不要です。今すぐ、この取引先との契約を解除して、こちらの商会に切り替えなさい。私の知人の商会です、手加減はさせませんわ」
「この備品管理、誰がやっているの? 在庫が合わないわ。……あら、そんなに震えなくても。逃げても無駄よ。エンドリッヒ家の騎士団は今出払っているけれど、私個人で雇っている『協力者』が、あなたの逃げ道をすべて塞いでいますから」
冷徹に、そして優雅に。
私は「悪女」としての評判を最大限に利用した。私を甘く見ればどうなるか。
恐れられているのなら、それを最大限利用すればいい。
憎まれているのなら、それを推進力にすればいい。
カシアン様を苦しめるネズミたちを次々と罠にかけ、屋敷の歪みを正していく。
その合間に、私は何度も北の空を見上げた。
(カシアン様……、銀月草の香りは届いているかしら。あのお守り、ゴミみたいに捨ててないかしら……)
不安で胸が張り裂けそうになる。
ゲームでは、遠征から三日目に最初の悲報が届くはずだった。
「伯爵が崖下に転落し、行方不明」という報せだ。
そして、三日目の夜。
激しい雨が屋敷を叩く中、一人の伝令が玄関に転がり込んできた。
「ほ、報告します……! 遠征部隊が、魔獣の奇襲に遭いました! 閣下は……カシアン閣下は……っ!」
私の心臓が凍りついた。
周囲の使用人たちが悲鳴を上げる中、私は伝令の肩を掴み、その目を覗き込んだ。
「落ち着きなさい! 閣下はどうされたの!? 言いなさい!」
「閣下は……っ、魔獣の牙をその身に受けながらも……信じられないことに、お一人で殿を務め……部隊を逃がされました! ですが、閣下ご自身は、谷底へ……!」
――シナリオ通り!? なんで!? どうして!?
絶望が私の全身を支配する。
けれど、私はふっと思い出した。
カシアン様は、私が渡した『三つの神器』を持っているはずだ。
ととと、特にあのハーブ。あれには瘴気を払うだけでなく、一時的に感覚を研ぎ澄ませる効果がある。そうよ。
「……し、死んでいないわ」
私の呟きに、オズウェルが顔を上げた。
「……奥様?」
「あの人は死なない。死なせませんわ。……オズウェル、馬を用意して。それから、応急用品と、私のコートを」
「お、奥様! 無茶です! この雨の中、しかもあそこは魔獣の領域……!」
「無茶なのは分かっています。でも、私にしか見つけられない。……あの人にかけた『呪い』が、どこにあるか、私には分かるんです!」
私は前世で何度もプレイしたゲームのマップを脳裏に展開した。
カシアン様が落ちる場所。彼が潜伏する洞窟。
その座標は私の魂に刻まれている。絶対の自身がある。
(待ってて、カシアン様。今度は私が、あなたを『策略』で救い出してあげる!)
私は、純白のドレスの上から分厚い旅装を羽織ると、伝令と共に豪雨の中へと飛び出した。




