世界一諦めの悪い「妻(ファン)」
眩い朝陽が、私の瞼を容赦なく叩いた。
重い瞼を押し上げると、そこには見慣れない……けれど、どこか既視感のある高い天井が広がっている。
「……あ。そうだわ、私、嫁いだんだわ。あのカシアン様に」
むくりと身体を起こすと、寝台の冷たさが肌に伝わってきた。
昨夜、カシアン様が去った後、私は一人でこの広すぎる寝台に横たわったのだ。本来なら初夜を共にするはずの夫に「吐き気がする」と言い捨てられて。
普通の令嬢なら、ショックで寝込んでしまうか、あるいは屈辱に身を震わせるところだろう。
けれど、今の私――前世の記憶という名の「推しへの情熱」を取り戻した私にとっては、状況が全く違って見えていた。
「思い出しただけでも、昨夜のカシアン様……最高にクールで、最高に美しかった……」
私は寝具をぎゅっと抱きしめ、ゴロゴロと身悶えした。
あの、冬の湖のような冷徹な瞳。見下すような冷ややかな口調。そして、去り際に一瞬だけ見せた、苦虫を噛み潰したような苦悶の表情!
ゲーム『凍てつく月の騎士』において、カシアン様は「報われない愛」を背負うキャラクターだった。彼が苦悩すればするほど、画面の向こう側のファン(私)は「あぁっ、幸せにしてあげたい!」と身悶えしたものである。
それが今、目の前に。vrどころか、現実の解像度で存在しているのだ。
「……ハッ! いけないわ。悦に浸っている場合じゃない」
私はパッと顔を上げ、鏡の前に座った。
鏡の中のシルヴィアナは、まだ少しやつれている。没落した実家を立て直すため、そしてカシアン様を罠に嵌めるために心血を注いできたのだ。肌のツヤも足りないし、目の下には薄っすらとクマがある。
「これじゃあ、カシアン様の隣に立つ資格なんてない。何より、こんな不健康なオーラを纏っていては、カシアン様を癒やすことなんて到底無理だわ」
昨夜の彼の言葉を思い出す。
――『明日からは、この屋敷の北棟で静かに暮らせ』。
――『お前を抱くことも、愛することも、生涯あり得ない』。
要するに、彼は私を「いらない存在」として隔離するつもりなのだ。
だが、それは裏を返せば「干渉されない」ということでもある。
私はかつての記憶を総動員して、この世界……いや、この伯爵家の状況を分析した。
(確かゲームの設定では、エンドリッヒ伯爵家は北方領土の守護。常に魔獣の脅威に晒され、領地経営は常に逼迫していたはず。カシアン様がいつも激務で倒れそうだったのは、単に彼が真面目すぎるからだけじゃない……家臣たちや領民を想うあまり、自分を削っていたからよ)
昨夜の至近距離での観察でも分かった。
彼の顔色の悪さ。声の僅かな掠れ。あれは重度の過労と、栄養の偏りによるものに違いない。
「……決めたわ。まずは『食』と『環境』。ここから攻めるわよ」
私は手早く着替えを済ませた。侍女など呼んでも、今の私には誰も来ないことは分かっている。策略で入り込んだ「泥棒猫」の世話をしたい者など、この屋敷には一人もいないだろうから。
廊下に出ると、案の定、冷ややかな視線が突き刺さった。
すれ違う使用人たちは、一応足を止めて礼をするが、その瞳には隠しきれない軽蔑が宿っている。
「おはようございます、奥様」
声をかけてきたのは、昨夜案内してくれた老執事のオズウェルだった。
彼はカシアン様の乳兄弟の父であり、エンドリッヒ家に長く仕える重鎮だ。
「おはよう、オズウェル。カシアン様はどちらに?」
「……旦那様は、すでに執務室に入られております。朝食も摂らずに」
オズウェルの声には、主人を案じる響きと同時に「お前のせいだ」と言いたげな刺々しさがあった。
無理もない。カシアン様は昨夜、私との「望まぬ結婚」のせいで一睡もできなかったのかもしれないのだ。
「朝食を摂っていない……? それはいけませんわ」
「……旦那様は昔から、仕事が立て込むと食事を疎かにされるお方です。閣下の邪魔をなさらないよう、奥様は北棟でお過ごしください」
やんわりとした拒絶。
だが私は怯まない。むしろオズウェルの目が赤くなっているのを見逃さなかった。彼もまた、主人の健康を心配して、けれど何もできない自分に歯がゆさを感じているのだ。
「オズウェル。台所を借りてもよろしいかしら?」
「……はい?」
老執事が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「私が、カシアン様の朝食を用意いたします。……いえ、そんな顔をしないで。毒なんて盛りませんわ。この結婚を維持するためには、彼に死なれては困りますものね」
あえて「策略家」らしい、打算的な言い方をした。
今の私が「彼を愛しているから」なんて言っても、誰にも信じてもらえない。むしろ、「何かを企んでいる」と思わせておいた方が、彼らは納得する。
「……料理など、令嬢のお遊びで何ができるというのです」
「見ていらっしゃい。没落したヴァリエール家で、私が何を食べて生き延びてきたか。……少なくとも、今のカシアン様の胃袋に必要なものが何かは、私の方が分かっているはずよ」
私は半ば強引にオズウェルを押し切り、厨房へと向かった。
厨房では、料理人たちが驚愕の表情で私を迎えた。
彼らを無視して、私は食材を確認する。
北方の地らしく、保存食や肉類は豊富だが、新鮮な野菜が極端に少ない。そして何より、全体的に味が濃く、脂っこいものばかりだ。これでは、疲労が溜まっているカシアン様の胃をさらに痛めつけてしまう。
(カシアン様は確か、公式のファンブックで『好きな食べ物は特にないが、強いて言えば温かいスープ』って書いてあったわ……。ゲーム内のイベントでも、冬のパトロール帰りに兵士たちと囲む素朴なスープに目を細めていた……あの尊いスチル……!)
私はエプロンを借り、慣れた手つきで調理を開始した。
没落してからの数年間、私はプライドを捨てて自ら包丁を握っていた。生きていくために、安価な食材でいかに栄養を摂るかを研究し尽くしたのだ。
まず鶏のガラで丁寧に出汁を取る。
アクを根気強く取り除き、透き通った黄金色のスープを作る。そこに、根菜を細かく刻んで甘みを出し、隠し味に自家製のハーブ塩――これはヴァリエール家の庭で育てていた、滋養強壮に効く薬草だ――を加える。
料理人たちが、初めは嘲笑っていたものの、次第に漂ってくる芳醇な香りに言葉を失っていく。
「お、奥様、それは……?」
「カシアン様のための『特製・過労回復スープ』よ。……さあ、オズウェル。これを執務室へ」
私は出来上がったスープと、軽く炙った全粒粉のパンを盆に乗せた。
「……旦那様が、召し上がるとは思えませんが」
「いいのよ。置いてくるだけで。……もし、一口も飲まれなかったら、私が自分で飲むわ」
私は不敵に微笑んでみせた。
オズウェルは困惑しながらも、スープの香りに抗えなかったのか、静かに盆を受け取った。
――数十分後。
私は昨日と違う質素な北棟の自室で、ドキドキハラハラしながら報告を待っていた。
(あぁ、どうしよう。カシアン様、「あいつの作ったものなど毒と同じだ」って言って、床にぶちまけたりしないかしら。……いや、それはそれで『冷徹なカシアン様』という属性に合致していて、ちょっと興奮しちゃうかも……。いやいや、それじゃ彼の栄養にならないじゃない!)
一人で悶々としていると、廊下から足音が聞こえてきた。
きっとオズウェルだ。
彼は部屋に入ってくると、信じられないものを見たという顔で、空になったスープ皿を私に見せた。
「……完食されました。一口飲んだ後、手を止められることなく」
「……! 本当に?」
「はい。そして、旦那様からの伝言です。『……これからは、余計な真似をするな。台所には二度と入るな』と……」
言葉の内容は、辛辣だ。明確な拒絶だ。
けれど、私は皿が空になっているのを見て、胸がいっぱいになった。
「そう……完食してくださったのね。……よかった。味が、口に合ったのかしら」
「奥様……? 普通、このような言い方をされたら、お怒りになるか、嘆くものでは……」
オズウェルの戸惑いをよそに、私はガッツポーズを作っていた。
(ツンデレ! 違う、ツンデレじゃないわ、これは「生存本能」よ! 私の料理を拒絶できないほど、彼は身体を欲していたのね……。あぁ、カシアン様。私の作った栄養が、今、あなたの血となり肉となっている……。最高だわ!)
「オズウェル。明日も作るわよ」
「えっ、しかし旦那様は入るなと……」
「『入るな』と言われたけれど、『作るな』とは言われていないわ。……そうよね?」
私は没落しても失われなかった「策略家」としての、染みついた微笑みを浮かべた。
オズウェルは呆気に取られた後、小さく肩を竦めた。
「……おかしな方ですね。策略家と噂されるシルヴィアナ様が、まさかスープ一杯でこれほど喜ばれるとは」
ふふん。策略家なんて、ただの看板よ。
今の私は、世界一の幸せ者で、そして世界一諦めの悪い「妻」なんだから。
────
だが、事態はそう簡単には進まない。
昼過ぎ、屋敷の玄関が騒がしくなった。
「カシアン様! 遠征から戻ったばかりだと伺いましたが、またすぐに発たれるのですか!?」
階下から聞こえる若い騎士たちの声。
私は窓に頬を引っ付け、外をそっと覗き見た。
そこには、馬に跨り、銀の甲冑を纏ったカシアン様の姿があった。
昨夜よりもさらに険しい表情で、彼は北の空を睨みつけている。
(……待って。あの方向はやばい! 確かゲームの序盤で『魔獣の大量発生』が起きた地域じゃない。……カシアン様はあそこで、無理をして大怪我を負うはず……!)
私の胸を嫌な予感が過った。
ゲームのシナリオでは、彼はこの遠征で数日間戻らず、帰還した時には高熱を出して倒れるのだ。
「行かせないわ……あんな顔色の悪い推しを、戦場になんて行かせない!」
私はドレスの裾を掴み、階段を駆け下りた。
嫌われる? 侮蔑される? そんなことは彼の命に比べれば羽毛よりも軽い。
玄関ホールに飛び出した私が見たのは、まさに出発しようとするカシアン様の背中だった。
「お待ちください、カシアン様!」
私の叫びに、居合わせた騎士たちが一斉にこちらを振り返る。
カシアン様もまた、冷酷な瞳で私を射抜いた。
「……しつこい女だ。北棟にいろと言ったはずだ」
「遠征に行かれるのですね。……今の体調で、それは自殺行為ですわ」
私の言葉に周囲が凍りついた。
カシアン様がゆっくりと馬を返させ、私に歩み寄る。
「私の体調? お前のような者に何がわかる。……ヴァリエールの小娘、これ以上私の職務を妨げるなら、たとえ妻であろうと容赦はせん」
目の前に突きつけられる、冷ややかな殺気。
けれど私は逃げなかった。
「分かりますわ。あなたのスープを飲み干した後の、わずかな鼓動の乱れまで。……カシアン様。私は、あなたを不幸にするためにここへ来たのではありません」
私は一歩も引かず、カシアン様の氷の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「どうしても行かれるのでしたら……条件がございます」
――さあ、ここからが「策略令嬢」の本領発揮よ。
あなたの命、勝手に散らさせるもんですか!




