初夜の冷遇
重厚なオークの扉が、私の背後で重々しく閉ざされた。
カチリと小さく鳴った錠の音が、まるで私の自由を永遠に奪う宣告のように部屋に響き渡る。
ここはエンドリッヒ伯爵邸、主寝室。
今夜、私はこの屋敷の主――カシアン・ヴォルフ・エンドリッヒ伯爵の妻となった。
本来ならば、一介の没落令嬢である私、シルヴィアナ・ド・ラ・ヴァリエールが彼のような「北の氷壁」と謳われる英雄の伴侶になるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない話だった。
けれど、私はここにいる。
純白のシルクに包まれた身体は、緊張と、そしてどこか冷めた高揚感で震えていた。
「……ようやく……ようやく手に入れた」
鏡の中に映る自分を見つめる。
青白い肌に、勝ち誇ったような歪な微笑。
父が残した莫大な借金、差し押さえられた屋敷、泥を啜るような惨めな生活。それらすべてから逃れるために、私は「卑劣な策略」を弄した。
王宮夜会での毒の自作自演。彼が私を助けざるを得ない状況を作り出し、さらにはその場を衆目に晒すことで、彼の騎士道精神と家名の誇りを人質に取ったのだ。
彼は私を救ったのではない。救わされたのだ。この、狡猾な女に。
不意に、部屋の外で規則正しい足音が聞こえた。
硬い軍靴が絨毯を鳴らす音。
私の心臓が、早鐘を打つ。
バタン、と乱暴に扉が開かれた。
そこに立っていたのは、夜の闇を溶かしたような漆黒の外套を羽織った男――カシアン・ヴォルフ・エンドリッヒだった。
「……満足か、シルヴィアナ」
冷え切った声だった。
部屋の空気が一瞬で氷点下まで下がるのを感じる。
銀糸のように美しい髪を短く整え、冬の湖を思わせる氷河色の瞳が私を射抜いている。その整いすぎた容貌は、彫刻家が心血を注いで削り出した芸術品のようだが、そこに向けられた感情は、あからさまな「嫌悪」と「侮蔑」だった。
「カシアン様……お待ちしておりましたわ」
「その口で私の名を呼ぶな。吐き気がする」
彼は部屋の中央まで歩み寄ると、私から数歩離れた位置で足を止めた。
近づくことさえ汚らわしいと言わんばかりの距離。
彼は手袋を脱ぎ捨て、それを執務机の上に放り投げた。
「望み通り、エンドリッヒ伯爵夫人の座は与えた。お前の実家の借金もすべて精算済みだ。……だが、それ以上を望むな。私がお前を抱くことも、愛することも、生涯あり得ないと思え」
カシアンの瞳を分析する。
瞳孔の収縮、微かに震える眉間の筋。彼は単に怒っているのではない。徹底的に、生物学的なレベルで私を拒絶している。彼の精神構造において、私は「守るべき弱者」ではなく「排除すべき害虫」としてカテゴライズされているのだ。
「明日からは、この屋敷の北棟で静かに暮らせ。社交への出席も禁じる。お前には『生きた人形』として、ただそこに存在することだけを許そう」
それが私の夫となった男の、最初の言葉だった。
あまりの冷徹さに、私は言葉を失う。
……いえ、違う。
確かに彼を嵌めたのは私だ。この結末は予想していたはず。なのに、なぜこんなに胸が痛むのか。
その時だった。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……っ、あ……」
激しい頭痛が私を襲った。
脳髄を直接、熱い針でかき回されるような衝撃。
立っていられず、私は寝台の柱を掴んで膝をついた。
「どうした。今度は、同情でも買うつもりか?」
冷ややかなカシアンの声が遠ざかっていく。
視界が真っ白に染まり、私の意識の中に、見たこともない「記憶」の濁流が流れ込んできた。
――それは、別の世界の物語。
アスファルトの道路、空を突くような鉄のビル、手のひらの中で光る四角い機械。
私は、そこではシルヴィアナではなかった。
ごく普通の、けれど熱狂的な「オタク」と呼ばれる日本人女性だった。
そして思い出す。
今、目の前で私を蔑んでいるこの男の正体を。
『あぁ……今日もカシアン様が尊い……。不器用で、孤独で、誰よりも純粋なのに、報われない悲劇のサブキャラ……。誰か彼を幸せにしてあげてよ!』
意識の底で、かつての自分の声が叫んでいた。
この世界は、前世で私が死ぬほどやり込んだ乙女ゲーム『凍てつく月の騎士』の世界だ。
そして、カシアン・ヴォルフ・エンドリッヒ。
彼は攻略対象の一人でありながら、ヒロインを愛するあまり、物語の終盤で彼女を逃がすために盾となって死ぬ、究極の「自己犠牲キャラクター」だった。
ゲーム画面越しに、何度彼の幸せを願って涙したことか。
冷徹な振る舞いの裏に隠された、深い慈愛と孤独。
公式ファン投票で圧倒的一位を走り続けた、私の「最推し」――。
「…………カ、シアン……様……?」
頭痛が引き、視界がクリアになる。
先ほどまでの絶望が、嘘のように消え去っていた。
目の前に、本物がいる。
3Dモデルでも、美麗なスチルでもない。
体温を持ち、呼吸をし、私を憎々しげに見つめている、生身のカシアン様が。
「……、……っ!」
私は、思わず自分の頬を両手で押さえた。
(待って、待って。今、カシアン様が私を罵倒した? あの「吐き気がする」っていう氷点下の低音ボイスを、この至近距離で浴びたの!? ご褒美……じゃなくて、なんてこと!!)
状況を整理しろ、私。
今の私は、カシアン様の人生を策略で台無しにした、最低最悪の「没落悪女」だ。
ゲームのシナリオには存在しなかった、彼を苦しめるためだけの端役。
カシアン様は私を嫌っている。当然だ。
彼は今、私のせいで、愛してもいない女と結婚させられ、自由を奪われ、激しいストレス下に置かれている。
私の推しが、私のせいで、不幸になっている……!
……ふざけるなっ!
私は心の中で思いっ切り叫んだ。
そして立ち上がり、ドレスの裾を払う。
カシアン様は、私が狂ったとでも思ったのか、眉を寄せて訝しげにこちらを見ている。
その訝しげな顔さえも、黄金比に基づいた完璧な美しさだ。まつ毛の影が頬に落ちる角度。か、完璧すぎる。
「シルヴィアナ、何がおかしい。早く部屋から出て行け」
いいえ、カシアン様。
私はもう、ただの「策略令嬢」ではありません。
私は決めた。
この卑劣な結婚を利用して、私はあなたの隣に居座る。
けれど、それはあなたの財産や名声のためじゃない。
あなたを幸せにするためだけに。
ゲームのシナリオで、ヒロインに振り向かれず、最後は孤独に戦死していったあなた。
そんな結末、私が、この「シルヴィアナ」という役割を全力で使い倒して、書き換えてみせる。
そのためには、まず――。
「カシアン様」
私は一歩踏み出した。
カシアン様が目に見えて身構える。彼の筋肉が緊張し、戦闘態勢に入る時の微かな予備動作。考察するまでもない、徹底した拒絶のサイン。
「……何だ。まだ何か企んでいるのか」
「いいえ。ただ、改めてご挨拶をと思いまして」
私は、前世で培った「淑女の礼」ではなく、心からの敬意を込めて、深く、深く頭を下げた。
今の私にできる、精一杯の誠実さを見せるために。
「不肖、シルヴィアナ・ド・ラ・ヴァリエール。今日この時より、あなたの妻として、そしてあなたの『最大の理解者』として、命を懸けてお仕えいたしますわ」
……顔を上げると、カシアン様は、まるで正体不明の魔物でも見るかのような目で私を見つめていた。
「……狂ったか。これ以上、話しても無駄なようだ」
吐き捨て、彼は今度こそ背を向けて部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、先ほどよりも一層激しく響いた。
一人残された寝室で、私は拳を握りしめる。
嫌われている。完全に。
マイナスからのスタートなんてレベルじゃない。深淵の底からのスタートだ。
けれど、推しの幸せのためなら、嫌われ役なんてお安い御用。
待っていてください、カシアン様。
あなたの生活を、健康を、そしてその凍てついた心を。
私が最高のオタク魂……いえ、妻としての愛で、溶かして差し上げますわ!
こうして、私の「推し活」兼「新婚生活」の幕が、最悪の形で、けれど最高の情熱と共に切って落とされた。




