表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/4

初夜の冷遇

 重厚なオークの扉が、私の背後で重々しく閉ざされた。

 カチリと小さく鳴った錠の音が、まるで私の自由を永遠に奪う宣告のように部屋に響き渡る。


 ここはエンドリッヒ伯爵邸、主寝室。

 今夜、私はこの屋敷の主――カシアン・ヴォルフ・エンドリッヒ伯爵の妻となった。

 本来ならば、一介の没落令嬢である私、シルヴィアナ・ド・ラ・ヴァリエールが彼のような「北の氷壁」と謳われる英雄の伴侶になるなど、天地がひっくり返ってもあり得ない話だった。


 けれど、私はここにいる。

 純白のシルクに包まれた身体は、緊張と、そしてどこか冷めた高揚感で震えていた。


「……ようやく……ようやく手に入れた」


 鏡の中に映る自分を見つめる。

 青白い肌に、勝ち誇ったような歪な微笑。

 父が残した莫大な借金、差し押さえられた屋敷、泥を啜るような惨めな生活。それらすべてから逃れるために、私は「卑劣な策略」を弄した。


 王宮夜会での毒の自作自演。彼が私を助けざるを得ない状況を作り出し、さらにはその場を衆目に晒すことで、彼の騎士道精神と家名の誇りを人質に取ったのだ。

 彼は私を救ったのではない。救わされたのだ。この、狡猾な女に。


 不意に、部屋の外で規則正しい足音が聞こえた。

 硬い軍靴が絨毯を鳴らす音。

 私の心臓が、早鐘を打つ。


 バタン、と乱暴に扉が開かれた。

 そこに立っていたのは、夜の闇を溶かしたような漆黒の外套を羽織った男――カシアン・ヴォルフ・エンドリッヒだった。


「……満足か、シルヴィアナ」


 冷え切った声だった。

 部屋の空気が一瞬で氷点下まで下がるのを感じる。

 銀糸のように美しい髪を短く整え、冬の湖を思わせる氷河色の瞳が私を射抜いている。その整いすぎた容貌は、彫刻家が心血を注いで削り出した芸術品のようだが、そこに向けられた感情は、あからさまな「嫌悪」と「侮蔑」だった。


「カシアン様……お待ちしておりましたわ」

「その口で私の名を呼ぶな。吐き気がする」


 彼は部屋の中央まで歩み寄ると、私から数歩離れた位置で足を止めた。

 近づくことさえ汚らわしいと言わんばかりの距離。

 彼は手袋を脱ぎ捨て、それを執務机の上に放り投げた。


「望み通り、エンドリッヒ伯爵夫人の座は与えた。お前の実家の借金もすべて精算済みだ。……だが、それ以上を望むな。私がお前を抱くことも、愛することも、生涯あり得ないと思え」


 カシアンの瞳を分析する。

 瞳孔の収縮、微かに震える眉間の筋。彼は単に怒っているのではない。徹底的に、生物学的なレベルで私を拒絶している。彼の精神構造において、私は「守るべき弱者」ではなく「排除すべき害虫」としてカテゴライズされているのだ。


「明日からは、この屋敷の北棟で静かに暮らせ。社交への出席も禁じる。お前には『生きた人形』として、ただそこに存在することだけを許そう」


 それが私の夫となった男の、最初の言葉だった。

 あまりの冷徹さに、私は言葉を失う。

 ……いえ、違う。

 確かに彼を嵌めたのは私だ。この結末は予想していたはず。なのに、なぜこんなに胸が痛むのか。


 その時だった。

 視界が、ぐにゃりと歪んだ。


「……っ、あ……」


 激しい頭痛が私を襲った。

 脳髄を直接、熱い針でかき回されるような衝撃。

 立っていられず、私は寝台の柱を掴んで膝をついた。


「どうした。今度は、同情でも買うつもりか?」


 冷ややかなカシアンの声が遠ざかっていく。

 視界が真っ白に染まり、私の意識の中に、見たこともない「記憶」の濁流が流れ込んできた。


 ――それは、別の世界の物語。

 アスファルトの道路、空を突くような鉄のビル、手のひらの中で光る四角い機械。

 私は、そこではシルヴィアナではなかった。

 ごく普通の、けれど熱狂的な「オタク」と呼ばれる日本人女性だった。


 そして思い出す。

 今、目の前で私を蔑んでいるこの男の正体を。


『あぁ……今日もカシアン様が尊い……。不器用で、孤独で、誰よりも純粋なのに、報われない悲劇のサブキャラ……。誰か彼を幸せにしてあげてよ!』


 意識の底で、かつての自分の声が叫んでいた。

 

 この世界は、前世で私が死ぬほどやり込んだ乙女ゲーム『凍てつく月の騎士』の世界だ。

 そして、カシアン・ヴォルフ・エンドリッヒ。

 彼は攻略対象の一人でありながら、ヒロインを愛するあまり、物語の終盤で彼女を逃がすために盾となって死ぬ、究極の「自己犠牲キャラクター」だった。


 ゲーム画面越しに、何度彼の幸せを願って涙したことか。

 冷徹な振る舞いの裏に隠された、深い慈愛と孤独。

 公式ファン投票で圧倒的一位を走り続けた、私の「最推し」――。


「…………カ、シアン……様……?」


 頭痛が引き、視界がクリアになる。

 先ほどまでの絶望が、嘘のように消え去っていた。


 目の前に、本物がいる。

 3Dモデルでも、美麗なスチルでもない。

 体温を持ち、呼吸をし、私を憎々しげに見つめている、生身のカシアン様が。


「……、……っ!」


 私は、思わず自分の頬を両手で押さえた。

 

(待って、待って。今、カシアン様が私を罵倒した? あの「吐き気がする」っていう氷点下の低音ボイスを、この至近距離で浴びたの!? ご褒美……じゃなくて、なんてこと!!)


 状況を整理しろ、私。

 今の私は、カシアン様の人生を策略で台無しにした、最低最悪の「没落悪女」だ。

 ゲームのシナリオには存在しなかった、彼を苦しめるためだけの端役。

 

 カシアン様は私を嫌っている。当然だ。

 彼は今、私のせいで、愛してもいない女と結婚させられ、自由を奪われ、激しいストレス下に置かれている。

 私の推しが、私のせいで、不幸になっている……!


……ふざけるなっ!


 私は心の中で思いっ切り叫んだ。

 そして立ち上がり、ドレスの裾を払う。


 カシアン様は、私が狂ったとでも思ったのか、眉を寄せて訝しげにこちらを見ている。

 その訝しげな顔さえも、黄金比に基づいた完璧な美しさだ。まつ毛の影が頬に落ちる角度。か、完璧すぎる。


「シルヴィアナ、何がおかしい。早く部屋から出て行け」


 いいえ、カシアン様。

 私はもう、ただの「策略令嬢」ではありません。

 

 私は決めた。

 この卑劣な結婚を利用して、私はあなたの隣に居座る。

 けれど、それはあなたの財産や名声のためじゃない。

 

 あなたを幸せにするためだけに。

 

 ゲームのシナリオで、ヒロインに振り向かれず、最後は孤独に戦死していったあなた。

 そんな結末、私が、この「シルヴィアナ」という役割を全力で使い倒して、書き換えてみせる。


 そのためには、まず――。


「カシアン様」


 私は一歩踏み出した。

 カシアン様が目に見えて身構える。彼の筋肉が緊張し、戦闘態勢に入る時の微かな予備動作。考察するまでもない、徹底した拒絶のサイン。


「……何だ。まだ何か企んでいるのか」


「いいえ。ただ、改めてご挨拶をと思いまして」


 私は、前世で培った「淑女のカーテシー」ではなく、心からの敬意を込めて、深く、深く頭を下げた。

 今の私にできる、精一杯の誠実さを見せるために。


「不肖、シルヴィアナ・ド・ラ・ヴァリエール。今日この時より、あなたの妻として、そしてあなたの『最大の理解者』として、命を懸けてお仕えいたしますわ」


 ……顔を上げると、カシアン様は、まるで正体不明の魔物でも見るかのような目で私を見つめていた。


「……狂ったか。これ以上、話しても無駄なようだ」


 吐き捨て、彼は今度こそ背を向けて部屋を出て行った。

 扉が閉まる音が、先ほどよりも一層激しく響いた。


 一人残された寝室で、私は拳を握りしめる。

 

 嫌われている。完全に。

 マイナスからのスタートなんてレベルじゃない。深淵の底からのスタートだ。

 けれど、推しの幸せのためなら、嫌われヒールなんてお安い御用。


 待っていてください、カシアン様。

 あなたの生活を、健康を、そしてその凍てついた心を。

 私が最高のオタク魂……いえ、妻としての愛で、溶かして差し上げますわ!


 こうして、私の「推し活」兼「新婚生活」の幕が、最悪の形で、けれど最高の情熱と共に切って落とされた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ