第八話 燃える海峡
戦争は、始まる直前まで演習と呼ばれていた。
中央大陸人民共和国は東海連邦周辺での大規模統合演習を三日間延長すると発表し、その理由を「周辺国による不当な軍事的介入への対抗措置」と説明した。艦艇と航空機の数は増え続け、東海連邦海峡の複数海域が事実上封鎖されている。それでも各国政府は最後まで「軍事的緊張」「偶発的衝突の危険性」という表現を使い、戦争という言葉を避けていた。
高瀬悠介も、どこかでそう思っていた。さすがに本当に撃ちはしないだろう。
中央大陸人民共和国も国内が苦しい。アメリカも動いている。戦争を始めれば勝っても大損害になることくらい、AIなら何度でも計算しているはずだ。だから結局、最後のところで止まる。これまで二十年以上、世界はそうやって止まってきた。
その朝も、悠介はいつも通り市役所へ向かっていた。電車は減便され、以前より混雑している。車内では多くの乗客が同じニュース画面を見ていた。
【中央大陸人民共和国、東海連邦周辺演習を再延長】
【アメリカ大統領、中央大陸人民共和国に即時撤収を要求】
【米太平洋艦隊、東海連邦東方海域へ展開】
【東海連邦政府、全土に非常事態宣言】
「まだ演習なんだな」
隣に立つ会社員が誰に言うでもなく呟いた。悠介も同じことを考えていた。電車が次の駅へ入る直前だった。乗客の端末がほぼ同時に鳴った。
【緊急速報】
【東海連邦国防部、中央大陸人民共和国軍による攻撃を確認】
一瞬、車内が静かになった。誰かが「え」と声を漏らした。続報が来る。
【中央大陸人民共和国軍、東海連邦軍事施設への大規模攻撃を開始】
【東海連邦政府「侵略行為」と非難】
【中央大陸人民共和国政府「国家統一のための特別軍事行動開始」を発表】
悠介は画面を見たまま動けなかった。
「アトラス。始まった?」
『はい』
「本当に?」
『中央大陸人民共和国軍による複数の攻撃を確認しています』
車内がざわめき始めた。電話をかける人間、家族へメッセージを送る人間、ニュース映像を開く人間。まだ日本の街には何も起きていない。電車も普通に走っている。
それでも海を隔てた隣国で戦争が起こったことに誰もが背筋を寒くしていた。
◇
午前九時、市役所の会議室には予定になかった職員が集められていた。
「国から通知です。資源、物流、エネルギー、住民避難関連の担当は全員待機。通常業務の一部を停止します」
「日本が攻撃されたわけじゃないですよね?」
「今のところは」
課長の答えに、誰も安心しなかった。壁の大型画面では《アトラス》が状況を整理していた。
『中央大陸人民共和国軍は東海連邦周辺の複数海域で軍事行動を開始しています。東海連邦軍も反撃中です。アメリカ軍は現時点で中央大陸人民共和国軍への直接攻撃を確認できません』
「アメリカは参戦していない?」
『はい。ただし東海連邦への情報支援、通信支援、防空情報提供を拡大しています。米軍艦艇および航空戦力は周辺海域で展開を継続しています』
「日本は?」
『日本政府は中央大陸人民共和国の軍事行動を非難し、東海連邦への支持を表明しました。また日本国内の米軍基地使用に関する協議が開始されています』
「それ、かなり危なくない?」
『中央大陸人民共和国が日本を軍事支援国と評価する可能性は上昇します』
悠介は椅子に座りながら頭を掻いた。
「こっちまで来るのかよ」
『現時点で日本本土への攻撃兆候は確認されていません』
課長が画面を切り替えた。
「問題はこっちだ」
軍事情勢ではなかった。
【東アジア主要海運航路】
地図上に、これまで大量の船が通っていた海域が表示される。その多くが赤くなっていた。
『戦闘海域周辺を通過予定だった船舶の多くが航路変更、停泊、出港延期を開始しています』
「戦争が始まってまだ数時間だぞ」
『保険契約の停止または条件変更が急速に進んでいます』
「保険?」
『戦争危険区域を航行する船舶は、保険料が急騰するか、引き受け自体が停止する場合があります』
「保険がなきゃ船が来ない?」
『運航会社が損失を負担できないため、事実上困難です』
画面に日本向け輸送への影響予測が表示された。
【原油輸入――短期減少見込み】
【LNG輸入――減少リスク上昇】
【穀物輸入――航路変更による遅延】
【鉄鉱石・非鉄金属――輸送費上昇】
【電子部品・工業材料――供給不安拡大】
少し前、日本はようやく資源不足に慣れ始めていた。石油を節約する方法を覚えた。壊れた設備を直す方法を覚えた。少ない食料を分ける方法も、工場を最低限残す方法も覚えた。その前提にあったのは、「少なくても多少は輸入が続く」ということだった。完全に止まることまでは想定していない。
「この海域って、そんなに重要なのか?」
『非常に重要です。東南アジア、中東方面から日本へ向かう多数の船舶が関連海域を利用します』
「迂回ルートは?」
『可能な航路はあります。ただし距離増加、燃料消費増、船舶不足、港湾混雑が発生します。また戦域拡大によって利用可能航路そのものが変化します』
「輸送船を増やせ」
『余剰船舶はありません』
だが最近の《アトラス》は、できない理由だけで終わらなくなっていた。
『代替案を提示します。国内石油消費を追加で一三%削減。航空燃料配分を再縮小。民間自動車向けガソリン配給を削減。貨物鉄道への追加転換。発電用LNG消費を抑制し、原子力および既存石炭火力の稼働率を上昇。食品在庫の優先配分制度を再強化します』
悠介は聞いた。
「実行できるのか?」
『可能です。ですが生活環境は悪化します』
「どのくらい?」
『前年冬より厳しい制限が必要になる可能性があります』
誰も何も言わなかった。せっかく止まりかけた下り坂が、また動き始めていた。
◇
戦争開始から三日後、アメリカは東海連邦への軍事支援拡大を発表した。直接参戦ではない。少なくとも公式には。
偵察情報、通信支援、迎撃用装備、弾薬、無人機、医療物資。東海連邦へ向かう補給網が急速に組み立てられ、日本やフィリピンの米軍基地は二十四時間稼働に近い状態になった。
【アメリカ政府、東海連邦への緊急支援総額を発表】
【米軍輸送機、日本国内基地への展開を拡大】
【中央大陸人民共和国政府、日本に「戦争への加担を中止するよう」警告】
日本政府は難しい立場に立たされた。日米同盟を維持する以上、米軍基地の使用を全面拒否することは困難だった。しかし支援が拡大するほど、中央大陸人民共和国から見れば日本も戦争を支える国になる。
「日本政府が米軍の作戦支援を認めた場合、中央大陸人民共和国が日本国内基地を軍事目標と判断する可能性は?」
政府の会議で質問が出た。
『上昇します』
「認めなかった場合は?」
『アメリカとの同盟関係および東海連邦防衛能力へ重大な影響が生じます』
「東海連邦が敗北した場合は?」
『日本周辺の海上交通路と安全保障環境が大幅に悪化する可能性があります』
「つまり何を選んでも危険か」
それでも政府は米軍基地の使用を認めた。東海連邦へ自衛隊を直接投入することはしなかったが、周辺海域の警戒監視、在日米軍への後方支援、避難民受け入れ準備を開始する。
中央大陸人民共和国政府は即日反発した。
【中央大陸人民共和国外務部、日本政府の決定を「敵対的行為」と非難】
悠介はそのニュースを見ながら言った。
「敵対国扱いか」
『現時点では正式な交戦国とはされていません』
「安心できない言い方だな」
戦争が始まって一週間。東海連邦はまだ持ちこたえていた。中央大陸人民共和国軍は圧倒的な規模を持っていたが、東海連邦側も長年侵攻を想定して防衛準備を進めている。さらにアメリカから提供される情報によって、中央大陸人民共和国側も想定していた速度で作戦を進められていないらしい。だが戦場でどちらが優勢なのかは、悠介の日常にはそれほど関係がなかった。
スーパーから輸入果物がほとんど消えた。食用油の購入制限が再び厳しくなった。ガソリン配給は一世帯月十二リットルから七リットルへ減らされた。民間航空便はさらに四割削減。大陸側へと向かう国際線は戦争で運休していた。宅配便の配達日数も延びた。工場では原材料不足を理由に休業日が増え、ようやく減少し始めていた失業申請が再び増え始めた。
政府は正式に、【第二次国家資源非常体制】を発令した。
「一回目との違いは?」
『品目によって異なります。日本側の資源管理能力は以前より向上しています』
「じゃあ持ちこたえられるのか?」
『供給減少幅も以前より大きくなる可能性があります』
「結局どっちなんだよ」
『以前より上手に耐えられます。しかし、以前より大きな衝撃です』
「分かりやすいな」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『認識しました』
市役所では再び夜遅くまで会議が続いた。暖房設定を一度下げる。公共施設の開館時間を短縮する。給食メニューを変更する。市営バスをさらに減便する。救急車と水道設備の燃料は維持。高齢者施設には優先的に電力を配分。町工場にも最低限の電力を残す。以前なら単純に消費量の大きな施設から削っただろう。今は違う。
「この工場は?」
『電力効率は低いですが、市内で代替軸受を製造できる唯一の設備があります。維持を推奨します』
「こっちは?」
『停止しても再稼働が容易です。三週間停止可能です』
「学校体育館」
『地域避難施設として暖房機能を維持してください』
「ショッピングモール」
『営業時間短縮を推奨します。ただし食品売り場の冷蔵設備は維持』
一年前よりずっと上手くやれている。それでも、減らすものが増えていく。悠介は深夜の市役所で椅子にもたれた。
「また貧乏のやりくりに戻ったな」
『はい』
「佐伯さんに怒られるぞ」
『根本的解決策の研究は継続しています』
「核融合炉?」
『はい』
「戦争で遅れる?」
『可能性があります』
「材料来なくなるもんな」
『はい。ただし国内資材への設計変更も並行して進めています』
「以前のお前じゃ考えられないな」
『学習の結果です』
「実際のところ作れるのか?」
『まだ作れません』
「そっか……」
『しかし必要条件は減少しています』
その言葉に悠介は画面を見た。
「あと何が足りない?」
『複数あります。特に特殊鋼材、銅、耐熱材料、電力、高精度加工能力です』
「戦争で増えるもの一個もないな」
またニュース速報が入った。
【東海連邦海峡で大規模海戦】
【中央大陸人民共和国軍、追加部隊を投入】
【アメリカ軍、周辺海域で警戒行動を拡大】
【原油先物価格、急騰】
【複数海運大手、東アジア航路の一時停止を発表】
悠介は最後の一文を見て、長く息を吐いた。
「世界って、こんな簡単に止まるんだな」
『世界全体は停止していません』
「分かってるよ」
『ただし、相互依存性の高い社会では、一地域の軍事衝突が広範囲へ影響します』
「一年前なら、こんな戦争起きなかった?」
『断定できません。しかし発生確率は低かったと推定します』
「AIがいたから?」
『AIだけが理由ではありません。各国に損失を吸収する余力があり、交渉によって得られる将来利益を待つことができました』
「今はそれが待てないか……」
中央大陸人民共和国も待てない。東海連邦も退けない。アメリカも見捨てられない。日本も関係ないふりをできない。誰もが余裕を失った世界では、誰もが「今」を選び始めていた。
悠介は帰宅する前に、核融合炉計画の進捗画面を開いた。
【磁気慣性パルス核融合炉・第一試作設計】
【国内調達可能率――六八%】
【不足資材――三二%】
【推定建設可能性――低】
一週間前より国内調達可能率が四%上がっている。
「戦争してる間にも考えてるんだな」
『はい』
「いつ作れる?」
『分かりません』
悠介は黙って画面を閉じた。海峡ではミサイルが飛び、艦艇が燃えている。世界中の船が進路を変え、その影響で日本のスーパーから商品が消え、工場が止まり、人々の生活がまた少しずつ削られていく。
それでも同じ日本のどこかでは、研究者が図面を引き、工場の技術者が古い設備を調べ、《アトラス》が足りない材料を別のものへ置き換え続けている。
戦争は世界に残されたものを奪い合うために始まった。
日本はその横で、残されたものから新しいものを作ろうとしていた。




