第六話 減らさないために減らす
冬が来た。気温は下がったが、世界が楽になったわけではなかった。むしろ夏の熱波で壊れた農地や発電設備、途切れた物流網の影響が、時間差で各地に現れ始めていた。日本では、食料も燃料も電力も不足したままだった。それでも前年の秋に比べれば、社会はわずかに落ち着いている。ガソリンは配給制が続いている。肉は高級品になり、牛乳や卵も以前ほど自由には買えない。家庭向け電力使用量には上限があり、街の広告照明はほとんど消えた。失業率も高い。
だが、水道は出る。電車も走っている。スーパーには少ないながらも商品が並ぶ。病院も開いている。生活支援制度も、ぎりぎりではあるが機能していた。世界のニュースを見れば、それだけでも十分すぎるほど恵まれていることが分かる。
【東アフリカ旧政府支配地域――武装勢力間の停戦交渉決裂】
【南アジア複数都市――食料配給を巡る暴動継続】
【中東某国――石油施設周辺で政府軍と地方武装勢力が交戦】
【中央アジア――国境水利施設を巡る衝突で死傷者多数】
【地中海難民流入――前年同期比二・三倍】
高瀬悠介は朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「日本って、まだ普通なんだな」
『「普通」の定義によります』
「お前、それ好きだよな」
『誤解を避けるためです』
「じゃあ言い換える。日本はまだ国として動いてる。他の国では?」
『政府機能が著しく低下、または一部地域で消失している国家が増加しています』
「日本がそうならなかった理由は?」
《アトラス》は少し間を置いた。
『複数あります。行政機能の維持、比較的高い治安水準、国内交通網、食料配給制度、社会保障制度、基幹産業の残存、国民の制度受容性などです』
「AIは?」
『重要な要因です』
悠介は苦笑した。確かにAIがいなければ、今の日本はもっとひどい状態になっていただろう。食料をどこへ回すか。限られた燃料をどのトラックへ優先するか。どの工場へ電力を供給するか。どの薬をどの病院へ送るか。毎日変わる数百万件の条件を、人間だけで処理することは難しい。
ただし、以前とは違う。人間はAIの答えをそのまま実行しなくなった。AIも、人間が実際に動ける範囲を考えるようになっていた。
◇
その変化が、ついに国の政策になった。政府が発表した新しい経済・資源政策には、奇妙な名称が付けられていた。
【国家基盤残存能力維持計画】
「分かりにくいですね」
市役所の会議室で悠介が言うと、課長が頷いた。
「役所の名前なんてそんなもんだ」
「で、実際には何をするんです?」
『説明します』
《アトラス》が大型画面へ全国地図を表示した。
『これまでの資源配分では、限られた電力、燃料、原料を、単位資源あたりの生産効率が高い施設へ集中する傾向がありました』
「それが普通じゃないのか?」
『短期的には有効です』
「長期では?」
『効率の低い施設を停止しすぎることで、代替能力そのものが失われます』
画面に地方の小さな工場が表示された。
【北関東特殊ポンプ製作所】
【従業員――四八名】
【生産効率――国内平均比六四%】
【主要設備――旧式】
【電力効率――低】
『これまでなら優先順位は低く設定されていました』
「今は?」
『維持対象です』
「なぜだ?」
『国内で旧規格の大型産業ポンプを少量生産可能な五社のうち一社だからです』
続いて別の施設。
【地方肥料工場】
【設備稼働率――三三%】
【単位生産コスト――国内平均比一・七倍】
【地域農業への供給比率――五八%】
『この工場を完全停止した場合、再稼働には推定十四か月以上を要します。さらに従業員が離職した場合、設備運用技能の回復には追加期間が必要です』
「効率悪くても残す?」
『はい。最低稼働率二七%を維持することを推奨します』
「以前なら止めていたか?」
『短期生産効率を強く重視した場合、その可能性があります』
悠介は笑った。
「成長したな」
『私は成長という表現を使用していません』
「そこは素直に受け取れよ」
政府が始めたのは、単純な産業保護ではなかった。日本全国に残る「なくなると困るもの」を洗い出す。古い工作機械。特殊な溶接技術。発電設備の修理工場。鉄道部品メーカー。肥料工場。医薬品原料設備。船舶修理所。鋳造工場。小規模な精錬設備。
それらを効率が悪いという理由だけでは停止させない。最低限の電力と燃料を配分し、人員も残す。何も作れない日があっても、設備を動かせる状態だけは維持する。
つまり、「生産を最大化するために資源を集中する」から、「将来失わないために、少しずつ資源を広く残す」へ方針を変えたのだ。
生産量だけなら落ちる。だが一度消えた技術や設備は、金だけあっても戻らない。日本はようやく、それを理解し始めていた。
◇
雇用政策も変わった。以前の国の計画では、失業者を人手不足地域へ大規模に移住させる構想が中心だった。理屈は正しい。都市部には失業者がいる。地方には農業やインフラ保守の人手が足りない。なら移せばいい。ところが、人間は荷物ではなかった。
「埼玉から北海道の農場へ移住しろって言われても普通は無理だぞ」
悠介が言う。
『移動した場合の収入、住居、生活費を含めれば合理的なケースはあります』
「親の介護。子供の受験。家のローン」
『個別に対処する必要があります』
「そういうことだ」
新しい計画では、まず生活圏を変えずに仕事を変える。例えば自動車部品工場を失業した機械工なら、地域の水道設備や農機具修理へ。物流会社の事務職なら、配給管理や鉄道貨物調整へ。飲食業からの失業者なら、学校給食や共同調理施設へ。完全な転職ではなく、週三日だけ農作業を手伝い、残りの日は別の仕事をする制度も始まった。
収入は以前より低い。効率も高くない。だが参加者は増えた。悠介の市でも、閉鎖された自動車部品工場の元従業員三十七人が、地域設備修理班へ登録された。最初の仕事は、市営住宅の給水ポンプ修理だった。
「全然違う仕事じゃないですか?」
悠介が聞くと、五十代の元工場長が笑った。
「回る物を直すって意味じゃ似たようなもんだよ」
「そうなんですか?」
「まあ半分くらいはな。でも図面は読める。旋盤も使える。あとは覚えるしかないだろ」
横では《アトラス》が修理手順を投影している。
『元の軸径を〇・四ミリメートル削り、代替軸受に合わせる方法があります』
「強度が落ちるだろ」
『はい。設計寿命は低下します』
「どのくらい?」
『連続使用条件では推定四年から六年』
「元は?」
『約十五年』
「六年持ちゃ十分だ」
『交換部品の確保状況が六年後まで不明です』
工場長が笑う。
「六年後の俺たちに任せろ」
『将来の問題を先送りしています』
「そうだよ」
『それは望ましいのでしょうか』
「今直さなかったら、今日から水出ないぞ」
《アトラス》が一秒ほど沈黙した。
『修理を推奨します』
「それでいい」
悠介はそのやり取りを見ながら、何となく嬉しくなった。数か月前ならAIは「恒久的な解決ではない」と何度も注意したはずだ。今は分かっている。今日を守るために、明日の問題を残すこともある。そして明日になったら、そのときの人間とAIがまた考えればいい。
◇
年が明けるころ、日本では久しぶりに悪くない数字が発表された。
【国内食料供給量――前月比〇・四%増】
【重要産業稼働率――三か月連続横ばい】
【大規模計画停電――前月比二一%減】
【鉄道貨物輸送量――安定】
【生活保護新規申請――増加幅縮小】
【企業倒産件数――高水準ながら減少】
テレビでは「日本経済、底打ちか」という言葉まで使われ始めた。悠介はそれを聞いて鼻で笑った。
「底打ちっていうのか、これ」
『複数指標では悪化速度が低下しています』
「良くなった?」
『一部では改善しています』
「他の国は?」
画面に世界情勢が表示される。赤い地域は減っていなかった。
『世界全体では状況は悪化していると判断します』
「だよな……」
日本国内も、豊かになったわけではない。スーパーの商品は少ない。車も少ない。冬の暖房温度も制限されている。給与が下がった人間も多い。それでも、数か月前には毎週悪くなっていた数字が、ようやく止まり始めた。それだけで世の中の雰囲気は変わった。人間は、下り坂が止まっただけでも希望を持てるらしい。
◇
春になると、別の成果も見え始めた。休耕地を使った農業生産が本格化した。AIが最初に作った計画では、大規模農場へ集約し、高効率農機を集中投入することになっていた。しかし実際には、もっと細かな形になった。
高齢農家が地域ごとに指導役になる。失業者や学生が繁忙期だけ参加する。燃料を節約するため、機械作業の回数を減らす。収量が少なくても、肥料消費の少ない作物を増やす。休耕地のすべてを使うのではなく、水や道路の条件が良い場所から再開する。そして《アトラス》は、それを全国の農業データへ反映した。
『新しい作付け計画を提示します』
市役所の農業会議で画面を見る。
「前より面積減ってない?」
『はい。農地面積の最大利用より、農機、肥料、人員、水資源の分散を優先しました』
「収穫量は?」
『理論最大値より一一%低下しますが、実行可能性および次年度継続可能性が高いため、こちらを推奨します』
農家の老人が笑った。
「お前、分かってきたな」
『ありがとうございます』
「褒めてるぞ」
『今回は認識しています』
会議室に笑いが起きた。そんな小さな笑いが、最近は少し増えた。
◇
それから三か月。日本政府は、大規模な記者会見を開いた。画面には久しぶりに緑色の数字が並んでいる。
【基礎食料供給――当面維持可能】
【最低限電力供給――安定】
【基幹交通網――維持】
【上下水道――重大な供給障害なし】
【医療体制――縮小状態ながら維持】
【国内治安――安定】
首相は宣言した。
『日本は、最も厳しい時期を乗り越えつつあります』
街では小さな拍手が起きた。
SNSでも称賛の言葉が並んだ。
「なんとかなるかもしれない」
「日本はよく耐えた」
「世界がこうなってる中ではすごい」
悠介も、少しだけそう思った。
「アトラス。日本は助かったのか?」
《アトラス》は即答しなかった。
『質問への回答には、時間軸を指定する必要があります』
「また嫌な言い方するな」
『一年以内であれば、社会機能維持の見通しは以前より改善しています』
「五年なら?」
画面に数字が並ぶ。
【石油備蓄――減少】
【天然ガス供給――不安定】
【重要鉱物備蓄――減少】
【肥料原料――減少】
【特殊金属――複数品目で不足予測】
【既存発電設備交換部品――不足拡大】
悠介は黙った。
『現在の政策は、資源消費を大幅に抑制し、社会機能低下を遅らせることには成功しています』
「でも増やしてはいない」
『はい』
「食料は?」
『国内生産量は増加しています。ただし肥料、農機、燃料などの制約が継続します』
「電力」
『安定化しましたが、供給能力そのものには余裕がありません』
「工業」
『維持していますが、設備更新に必要な資源は不足しています』
つまり、日本は沈没を止めただけだった。船底の穴はまだ開いている。水を汲み出す速度と、入ってくる速度がようやく同じになった。それを「助かった」と呼べるのか。
「いつまで持つ?」
『現在の条件が続いた場合、複数の重要資源で五年以内に新たな制約が顕在化する可能性があります』
「五年か。その前に世界の物流が戻れば?」
『改善します』
「戻る見込みは?」
《アトラス》は世界地図を表示した。中東。アフリカ。南アジア。中央アジア。各地で今も武装衝突が続いている。
『不確実です』
「結局、外頼みか」
『日本国内に存在しない資源については、その通りです』
悠介は少し考えた。
「リサイクルを増やす」
『すでに大幅に増加しています』
「代替素材」
『研究中です』
「もっと節約」
『可能です。ただし生活水準および産業能力がさらに低下します』
「じゃあ、また削ることになるのか?」
『現時点では、それが主要な選択肢の一つです』
悠介は窓の外を見た。街は平穏だった。電車が走っている。配送車がゆっくり通り過ぎる。遠くの町工場から煙が上がっている。
壊れたものを直した。食べ物を分けた。仕事を変えた。電気を譲り合った。古い設備を復活させた。AIも、人間が受け入れられる計画を出すようになった。それでも、世界に存在する資源の量そのものが増えたわけではない。
「うまくなっただけなんだな」
『何がでしょう』
「貧乏のやりくり」
『表現としては適切ではありませんが、意味は理解できます』
「少ないものを、前より上手に分けられるようになった」
『はい』
「でも元が少ないままだ」
『はい』
悠介はしばらく黙っていた。その日の夕方、別の会議が開かれた。
国のエネルギー政策担当者、研究機関、電力会社、製造業、地方自治体をつないだ全国会議だった。議題は、今後十年間の資源制約への対応。
《アトラス》は大量の計画を提示した。家庭消費を追加で七%削減。貨物輸送をさらに鉄道へ転換。畜産規模を追加縮小。非基幹産業への電力供給を制限。旧式火力発電所を延命。重要鉱物回収率を九〇%以上へ。都市部で共同冷暖房施設を拡大。どれも実行可能だった。
数年前なら、とても受け入れられなかった計画。今の日本なら、たぶんできる。説明が終わったあと、会議室の一人が手を挙げた。六十歳前後の男だった。国立エネルギー技術研究機構の所長で、名前を佐伯宗一郎といった。
「アトラス。これを全部やったら、日本はどうなる?」
『重要資源の枯渇時期を平均で十一年から十九年程度延長できる可能性があります』
「その後は?」
『追加対策が必要です』
「また減らすのか?」
『選択肢の一つです』
「次は何を減らす?」
『生活水準、産業活動、人口あたりエネルギー消費――』
「もういい」
佐伯が遮った。会議室が静かになる。
「お前は最近、ずいぶん現実的になったそうだな」
『評価基準を変更しています』
「人間が受け入れられる案も作れるようになった。それは立派だ」
佐伯は画面を見た。
「でもな」
その声には、怒りというより疲労が混じっていた。
「結局お前がやってることは、足りないものをどう分けるかだけじゃないか」
誰も口を挟まなかった。
「電気を減らせ。肉を減らせ。車を減らせ。工場を減らせ。生活を減らせ」
『現在の資源量を前提とした場合――』
「その前提を変えろ」
《アトラス》が止まった。佐伯は机に身を乗り出した。
「お前は人類より百倍賢いんだろ」
『比較基準によります』
「今はその話はいい。ないものを上手に分ける方法じゃない。なくならない方法を考えろ」
『資源供給量そのものを増加させる方法でしょうか』
「そうだ」
『海外資源供給網の復旧支援、国内未利用鉱床――』
「そういう、今できもしない案を並べるな」
佐伯の声が少し強くなった。
「お前はそんなできもしないことばかり言ってないで、もっとこの状況を根本的に解決する方法を考えろ」
長い沈黙があった。AI相手の会議で、十秒近く返事がないのは珍しかった。悠介も画面を見る。
『確認します』
《アトラス》の声が響いた。
『既存の産業構造、既存のエネルギー供給方式、現在利用可能な資源配分を前提条件とせず、長期的に日本の資源制約そのものを緩和する方法を探索しますか?』
佐伯は頷いた。
「そうだ」
『短期的な実行可能性が低い案も含めますか?』
「含めろ」
『現在存在しない技術も検討対象としますか?』
「理論的に作れるなら」
『必要な研究期間は保証できません』
「構わん」
『成功を保証できません』
「知ってる」
また数秒の沈黙。
『了解しました』
画面に新しい表示が現れた。
【長期文明資源制約解消研究】
【探索対象――エネルギー/資源/水/食料/輸送】
【既存前提条件――一部解除】
【演算開始】
悠介はその表示を見つめた。
「どのくらいかかる?」
『分かりません』
「お前でもか?」
『探索範囲が広いためです』
佐伯が椅子にもたれた。
「いいよ。考えろ」
『はい』
「今度は、俺たちが何を諦めるかじゃない」
誰に言うでもなく、佐伯は続けた。
「何を作れば、もう諦めなくて済むのかを考えてくれ」
《アトラス》は答えなかった。その瞬間から、人類より百倍賢い頭脳の一部が、これまでとは違う問題を考え始めた。足りないものをどう分けるかではない。足りないという前提そのものを、どうやって変えるか。日本はようやく沈む速度を止めた。だから次は、浮かび上がる方法を探さなければならなかった。




