第五話 人間のやり方
食品配送センターの古い循環ポンプは、修理から二十三日が過ぎても動いていた。
設計性能の七一%。消費電力は新品より八%多く、振動値も高い。メーカーが見れば使用停止を勧告する状態だったが、一日数回の点検と潤滑油の追加でどうにか持ちこたえている。三か月動けば上出来だと誰もが思っていた。その三か月の間に新品が手に入る保証はない。それでも三か月あれば、次の手を考える時間ができる。
高瀬悠介は最近、それで十分なのではないかと思うようになっていた。
『循環ポンプの軸受温度が、過去七日平均より二・三度上昇しています』
「止める必要は?」
『現時点ではありません。ただし点検間隔を十二時間から八時間へ短縮することを推奨します』
「部品は?」
『交換用軸受はありません』
「調達できるか?」
『近隣町工場で再加工可能です。前回の作業記録をもとに工程を改善した場合、加工時間を一八%短縮できます』
「お前、ずいぶん町工場に詳しくなったな」
『学習しました』
「誰から?」
『前回修理を担当した技術者の作業記録からです』
悠介は少し笑った。
「人間から、でいいだろ」
『人間から学習しました』
「よし」
最近、《アトラス》の返答が少し変わった。以前なら設備が壊れれば新品交換を最初に提案した。新品がなければ同等品。それもなければ生産。それも無理なら他施設への機能移転。どの案も理論的には正しい。しかし今は、最初から廃棄設備、休止工場、旧型機器、中古部品の在庫まで検索するようになった。
日本中で似たことが起きていた。資源がないなら、捨てたものを掘り返す。新品がないなら、古いものを直す。正規部品がないなら、別の部品を加工する。百点の設備を作れないなら、六十点で動く設備を作る。それは、豊かな時代なら非効率と呼ばれた方法だった。今では、生き残るための方法になっていた。
◇
「次は冷蔵トラックです」
十一月初旬、市役所の会議室で物流担当者が資料を表示した。
【市内食品輸送用冷蔵車両】
【登録台数――一八四台】
【稼働可能――一二七台】
【修理待ち――三八台】
【部品待ち――一九台】
「一九台は何がないんです?」
悠介が聞く。
「冷却ユニットの制御基板。海外製だ」
『国内代替品への置換には設計変更が必要です』
「何日?」
『安全試験を含め最短四十六日』
「長いな」
『ただし、食品輸送用途を限定し、冷却温度条件を緩和する場合は別案があります』
以前なら出なかった言葉に、悠介が顔を上げる。
『冷凍食品には使用できませんが、野菜、飲料、一部乳製品の短距離輸送であれば、既存の簡易冷却設備を流用できます』
「どこにある?」
『市内の閉鎖済み業務用厨房、廃業した飲食店、旧型自動販売機整備倉庫などに、転用可能な冷却機器が推定六十二台あります』
物流会社の担当者が眉をひそめた。
「自販機の部品でトラックを直すのか?」
『そのまま使用するわけではありません。圧縮機、熱交換器、制御部品を再構成します』
「それでいけるのか?」
『寿命は推定四か月から一年二か月となります』
「十分だ」
担当者が即答した。悠介は笑う。
「最近、みんな判断早くなりましたね」
「新品が来ないって分かってるからな。昔だったらメーカー保証がどうのって三週間会議してたよ」
《アトラス》が補足する。
『事故リスクを低減するため、運行距離を一日八十キロメートル以内に制限し、積載物を限定することを推奨します』
「それなら可能だな」
『さらに、修理待ち三十八台のうち十一台は、他車両から部品を移植することで復旧可能です』
「部品取りか」
『はい』
「潰す車は?」
『走行距離、車体劣化、残存部品価値から六台を候補にしています』
「六台潰して十一台直す?」
『はい』
「やろう」
失うものを決めて、残すものを動かす。それもまた、人間が覚え始めたやり方だった。
◇
変化は雇用にも現れた。失業者は増え続けていたが、一方で農業、鉄道、電力、上下水道、設備修理、資源回収などでは人手が足りない。問題は、失業した人間がそのまま不足分野で働けるわけではないことだった。
国は当初、大規模な職業転換計画を発表した。
【失業者百二十万人を農業・基幹インフラ分野へ再配置】
《アトラス》が作った初期計画では、適性、職歴、居住地、求人需要から全国規模で人員を最適配置することになっていた。しかし実際に募集すると、計画はほとんど進まなかった。
家族がいる。住宅ローンがある。親の介護がある。子供を転校させたくない。農村に移住したくない。給与が下がる。仕事そのものが合わない。AIが「合理的」と評価した移動先へ、人間は動かなかった。そこで計画は作り直された。
遠くへ移住させるのではなく、まず通勤可能圏内で仕事を探す。フルタイムで農家へ転職させるのではなく、繁忙期だけ農作業へ入る。工場の機械加工経験者なら、農業機械や水道設備の修理を覚えてもらう。閉鎖工場の技術者を一人ずつ別の企業へ散らすのではなく、元のチーム単位で地域修理班として契約する。
効率は落ちた。それでも参加者は増えた。
「今日から二人来ます」
市内の小さな機械加工会社で、社長が悠介に言った。
「二人は自動車部品の会社からですか?」
「そう。二人とも去年までエンジン部品削ってたらしい。うちは今、水道ポンプと農機の修理ばっかりだから助かるよ。給料は前より下がっちゃうけど、でも失業してるよりいいってさ」
工場の中では、古い旋盤が音を立てていた。最新型の工作機械もあるが、交換部品不足で一台は止まっている。代わりに、十年以上前に生産を終えた機械が現役へ戻っていた。
『この旋盤は加工精度が現在の標準を満たしません』
悠介の端末から《アトラス》が言う。社長が笑った。
「何作るかによるよ」
『説明を求めます』
「航空機のエンジン作るなら駄目だ。水道ポンプの軸なら使える」
『許容公差を確認します』
「ほらよ」
図面を読み込ませる。数秒後、《アトラス》が答えた。
『この用途であれば使用可能です』
「だろ?」
『ただし加工後の検査頻度を増やす必要があります』
「それはお前に任せる」
『了解しました』
社長が悠介を見た。
「こいつ、前より話分かるようになったな」
「俺もそう思います」
『評価ありがとうございます』
「褒めてないぞ」
『否定的な意味を検出できませんでした』
「その辺はまだだな」
二人で笑った。世界のどこかでは、鉱山を巡って武装勢力が撃ち合っている。その同じ日に、日本の小さな町工場では、古い旋盤で水道ポンプの部品を削っている。悠介には最近、その差がとても大きなものに思えた。
◇
冬が近づくと、新しい問題が出てきた。野菜だった。肥料輸入の減少と夏の酷暑によって、翌年の国内生産量が大幅に落ちる可能性が高まっていた。政府は休耕地の再利用を急いでいたが、農機も肥料も燃料も足りない。
《アトラス》は当初、大規模農地への集約を提案した。小規模農地をまとめ、高効率な農機と自動化設備を集中投入する。理論上は合理的だった。しかし現場から反対が続出した。
「この畑と隣の畑じゃ水の流れが違う」
「大型機械入れたら畦がもたない」
「その土地は春になると沈む」
「地図じゃ同じ農地でも土が違う」
「そこ、昔から鹿が入る」
AIには地形も土壌も気象も分かっている。だが、長年土地を使ってきた農家しか知らない細かな事情が大量にあった。農業担当者は、高齢農家を集めて《アトラス》との検討会を開いた。
「肥料が半分しかないとして、どう作る?」
『収量最大化を目的とした場合――』
「最大化じゃなくていい」
七十二歳の農家が遮った。
「来年も作れるようにしろ」
『意味を確認します』
「今年全部使い切るなってことだ。土地も肥料も機械も人間も」
《アトラス》が数秒黙る。
『持続可能性を優先条件へ追加します』
「あと米だけ増やしても駄目だ。野菜もいる」
『カロリー供給効率は低下します』
「人間はカロリーだけ食って生きてるんじゃねえ」
『栄養素についても評価しています』
「そういう意味じゃねえんだよなあ」
老人が頭を掻いた。
「毎日同じもの食わせたら嫌になるだろ」
『食事満足度を条件へ追加します』
「それでいい」
それから四時間、人間とAIで計画を作り直した。収量は初期案より九%低い。肥料使用量も最小ではない。機械効率も悪い。
だが高齢農家でも続けられる。失業者が補助作業として参加できる。農機故障時にも全部が止まらない。複数の作物を残せる。翌年用の種と肥料も確保できる。最後に《アトラス》が評価を表示した。
【総合生産効率――初期案比九一%】
【実行可能性――上昇】
【地域受容性――上昇】
【翌年度継続可能性――上昇】
老人が画面を見た。
「結局どっちがいいんだ?」
『今回の条件では、修正案を推奨します』
「最初の案より効率悪いぞ」
『実行されない計画の期待効果は低いためです』
悠介はその言葉に反応した。
「それ、前から言ってた?」
『いいえ』
「覚えたのか」
『過去四十三日間の複数事例から評価基準を修正しました』
《アトラス》は一言付け加えた。
『人間から学習しました』
今度は言い直させる必要がなかった。
◇
年末。世界情勢はさらに悪化していた。アフリカでは複数の鉱山地域が事実上の無政府状態となり、中東でも燃料施設を巡る衝突が増えていた。ヨーロッパでは難民受け入れを巡って加盟国同士の対立が深まり、いくつかの国が国境管理を復活させた。南アジアでは大規模停電から暴動が起こり、一部都市で軍が治安維持に投入された。
日本にも暴動がないわけではなかった。食料配給所で小さな騒ぎが起きる。ガソリンスタンドで殴り合いになる。失業者の抗議デモも増えた。だが、まだ国家は機能している。そして少しずつ、人間の側にも変化が出ていた。
壊れたら直す。なければ別のものを使う。一年先ではなく、まず三か月持たせる。一か所に集約しすぎず、多少非効率でも複数の経路を残す。何もかもAIへ任せるのではなく、現場の人間が条件を出し、AIが計算し、人間が修正し、またAIが計算する。
それまでの社会では、人間がAIの答えに合わせていた。今は、AIのほうも人間に合わせ始めている。ある日の夕方、悠介の端末に《アトラス》から通知が届いた。
【地域電力再配置案を更新しました】
「また削減案?」
『はい。ただし従来案とは条件が異なります』
「見せてくれ」
表示された計画を見て、悠介は少し驚いた。以前なら最も電力消費の大きい施設を優先的に止める案だった。今回は違う。町工場には最低限の夜間電力を残す。小規模スーパーの冷蔵設備も維持する。公民館や学校へ冷暖房を集中させ、家庭側の削減を補う。古い工場は効率が悪くても、代替部品を作れる設備なら残す。電力消費の大きな最新設備でも、輸入部品がなければ維持困難なものは優先順位を下げる。単純な電力効率だけでは説明できない計画だった。
「これ、お前が作ったの?」
『はい』
「前なら町工場なんか真っ先に切ってただろ」
『単位電力あたりの生産量のみで評価した場合、その可能性があります』
「今回の案は?」
『代替部品製造能力、地域雇用、修理技能の保持、設備停止後の再稼働難易度を考慮しています』
「ずいぶんと考えることが増えたな。効率はどうなんだ?」
『理論上の最大効率案より六・四%低下しますが実行可能性が高く、長期的な社会機能維持にはこちらが妥当と判断します』
また「妥当」だった。悠介は椅子にもたれた。
「お前、賢くなった?」
『性能そのものに大きな変化はありません』
「じゃあ何が変わった?」
少し間を置いて、《アトラス》が答えた。
『問題の捉え方です』
「へえ」
『以前は、与えられた条件の中で最適な解を求めることを重視していました』
「今は?」
『人間が実際に実行できる条件を探すことも、問題の一部として扱っています』
悠介はしばらく黙った。四か月前なら、このAIに苛立っていた。正しいことしか言わない。できもしないことを言う。物がないのに作れと言う。燃料がないのに運べと言う。今は少し違う。
「アトラス」
『はい』
「俺たちのやり方をどう考える?」
『非効率な場合が多いです』
「おい」
『ただし』
続きがあった。
『現在の日本では、有効です』
「なら最初からそう言えよ」
『表現を修正します』
「いや、そのままでいい」
窓の向こうには、以前より暗くなった街が広がっていた。広告看板の多くは消灯し、道路を走る車も少ない。遠くに見える工場の煙突も、半分ほどは止まっている。豊かだったころの日本から見れば、明らかに貧しくなった。
それでも水は出る。電車は走る。食料は配られる。病院も開いている。壊れた機械を直す人間がいて、その方法を計算するAIがいる。日本はまだ生きていた。悠介は、それが少しだけ誇らしかった。
だが《アトラス》の画面には、別の数字も表示されていた。
【国内石油備蓄――減少継続】
【重要鉱物在庫――減少継続】
【食料輸入量――減少継続】
【工業生産――減少継続】
やっていることは、危機を終わらせることではない。減っていくものを、上手に使っているだけだ。古いものを直し、分け合い、節約し、少しずつ寿命を延ばしている。それは確かに成果だった。しかし、いつまでも続けられるわけではない。悠介は画面を眺めながら呟いた。
「結局、減ってるんだよな」
『はい』
「俺たち、かなり頑張ってるよな」
『はい』
「お前も前より役に立つようになった」
『評価ありがとうございます』
「でも、このままじゃ駄目なんだろ?」
《アトラス》は否定しなかった。
『現在の対策の多くは、資源不足による社会機能低下を遅らせるものです』
「解決じゃない?」
『はい』
悠介は深く息を吐いた。人間とAIは、ようやく一緒に働く方法を覚え始めていた。だがその足元では、使える燃料も、金属も、食料も、まだ減り続けている。今日を越える方法は分かってきた。問題はその先だった。長期の展望にはまったく見通しが立っていなかった。




