第二十八話 資源はありません
地球日射調整第一段階が始まってから六年後、世界平均気温はようやく上昇を止めた。
【世界平均気温――前年との差 +〇・〇一℃】
【直近三年平均――ほぼ横ばい】
【高温居住困難地域――拡大停止傾向】
【地球外AI演算比率――三一・六%】
【世界AI演算量増加率――年四・八%】
【地球日射低減――〇・〇四七%】
高瀬悠介は大型画面に表示された数字をしばらく眺めていた。
「……止まった?」
『現時点では、ほぼ。長期的な評価には、さらに観測が必要です』
「相変わらずだな」
『正確です』
「一回くらい、成功ですって言い切ってくれてもいいだろ」
『不確実性があります』
「知ってた」
それでも悠介は笑った。何十年も上がり続けていた線が、ようやく横を向いている。地球が昔に戻ったわけではない。海面は高いまま。かつて農地だった場所の一部は失われ、高温に適応するため都市の形も農業の形も変わった。水不足が残る地域もある。それでも、悪化し続ける未来からは抜け出しつつあった。
核融合炉が電力を作る。月面工場が構造材を作る。地球近傍小惑星から金属が運ばれる。OCCでは巨大なAIが地球の外で演算し、発生した熱を宇宙へ捨てる。L1近傍では無数の薄膜ユニットが太陽光のごく一部を散らしている。AIの効率規制も続き、化石燃料の利用も大きく減った。
「今度こそ、しばらく大丈夫か?」
『何についてでしょうか』
「地球」
『質問の範囲が広すぎます』
「そういう返しすると思ったよ」
悠介が椅子にもたれたところで、《アトラス》が新しい資料を表示した。
【長期人口・居住可能圏予測】
「……何?」
『長期予測の更新です』
「嫌な予感するな」
『危機ではありません』
「その言い方だと、そのうち危機になるんだろ」
『可能性があります』
世界地図の上に人口密度が重ねられた。食料供給は改善している。水も増えた。医療も戻った。経済も成長を始めた。そして何より、戦争と資源危機の時代に急減していた出生と人口増加が、一部地域で再び上向いていた。
【世界人口――再増加傾向】
【乳幼児死亡率――低下】
【平均寿命――再上昇】
【食料供給余力――改善】
【都市人口――増加】
「いいことじゃないの?」
『多くの指標では』
「また限定する」
『長期的には居住可能地域への人口集中が問題となる可能性があります』
地球全体の陸地が消えたわけではない。しかし高温化、海面上昇、水資源、農業条件の変化によって、人間が大規模に暮らしやすい土地は以前より偏っている。
比較的気候が安定した地域へ人口が集まる。住宅が足りなくなる。農地と都市が競合する。水需要が増える。廃熱も増える。電力需要も増える。人間が暮らすための空間そのものが、新しい制約になる。
「いつの話?」
『直ちに問題となるものではありません』
「何年後?」
『地域によって異なります。三十年から八十年以内に人口収容余力が大きく低下する都市圏が複数あります』
「ずいぶん先だな」
『はい』
「じゃあ今は?」
『現在ただちに人口削減が必要な状態ではありません』
悠介は少し安心した。
「じゃあ、その頃になったら考えれば?」
『その時点から対策を開始した場合、選択肢が限定される可能性があります』
「例えば?」
《アトラス》がいくつかの案を出した。
【都市高密度化】
【新規居住可能地域整備】
【食料生産効率向上】
【水資源再配分】
【人口増加率抑制】
最後の項目で悠介の目が止まった。
「人口増加率抑制?」
『はい。出生率を長期的に人口維持水準以下へ誘導する方法があります』
「子ども減らせって?」
『表現を単純化すれば』
「どうやって?」
『経済的誘導、社会制度設計、出産時期の調整支援、人口増加地域への政策介入など、複数手段があります』
「やるの?」
『政治的・社会的受容性は極めて低いと予測します』
「当たり前だろ」
『はい』
「国に子ども作るなって言われたくないよ」
『同様の反応を示す人間が多数存在すると予測します』
佐伯宗一郎が資料を見ながら鼻を鳴らした。
「だったら今から別の選択肢作っとけばいいだろ」
悠介が振り向く。
「別の選択肢?」
「地球がいっぱいになったとき、人を減らすしかありませんって言われないようにな」
「使える土地を増やすんですか?」
「地球じゃ限界がある」
佐伯が上を指した。悠介も、すぐ意味を理解した。
「宇宙?」
《アトラス》が沈黙した。十秒ほどして、人口予測の横に新しい表示が加わる。
【長期人類生存圏拡張計画――再評価開始】
◇
《アトラス》が最初の案を出すまで、三日かかった。
【目的】
【将来の地球人口過密化に対する代替選択肢の確保】
【地球外恒久居住能力の確立】
悠介は最初の二行を読み返した。
「人口問題を今すぐ解決する計画じゃない?」
『はい』
「何億人も宇宙に送る?」
『現時点では不可能です』
「じゃあ何のために?」
『将来、地球が人口過密状態へ接近した時点で、人口抑制以外の選択肢を持つためです』
「その時になって宇宙都市作るんじゃ遅い?」
『はい』
「どのくらい?」
『大規模恒久居住技術をゼロから実用化するには、数十年単位を要する可能性があります』
「だから困る前に作る?」
『はい』
悠介は少し黙った。この数十年、人類はずっと逆だった。資源がなくなってから慌てた。電力が足りなくなってから核融合を作った。小惑星資源が必要になってから宇宙へ出た。気温が危険な水準まで上がってから日射調整を始めた。そのたびに、間に合うかどうかぎりぎりだった。
「今回は、まだ困ってないんだな」
『はい』
「でも今からやる」
『はい』
「それ、ちょっと進歩した気がする」
『評価基準によります』
「そういうところは変わらないな」
佐伯が笑った。
「で、どこに住む?」
画面に候補が並ぶ。
【月面】
【地球―月系軌道居住施設】
【地球近傍小惑星周辺】
【火星】
【火星衛星】
【長期候補――小惑星帯】
「いきなり火星?」
『長期候補です』
「最初は?」
『月が最も現実的です』
すでに月には工業拠点がある。水がある。酸素を作れる。核融合電源も使える。月面由来の構造材があり、小惑星資源も届く。何より、地球から近い。
「じゃあ月面都市?」
『長期的には』
「最初は?」
計画が切り替わる。
【第一恒久有人居住実証区】
【計画人口――一〇万人】
悠介は顔を上げた。
「待て」
『はい』
「またでかいのから始めてない?」
『長期的な人口圧力緩和効果を得るには――』
「今の目的は人口を減らすことじゃないだろ」
《アトラス》が止まる。
「将来の選択肢を作るんだろ?」
『はい』
「だったら十万人住ませなくても、人間がずっと住めるって証明できればいいんじゃない?」
佐伯が頷いた。
「平均的な人間がたまにいいこと言うな」
「まだそれ言うんですか」
『高瀬さんの指摘は妥当です』
「アトラスまで」
数字が消えた。再計算。
【第一恒久有人居住実証区】
【定員――二四〇人】
「減りすぎじゃない?」
『必要最低限の社会機能、技術職種、医療、保守、農業、教育、研究を含む構成です』
「二百四十人で?」
『高度なAI支援と自動化を前提とします』
「これだと人口問題に効果なんてないよな?」
『ほぼありません』
「即答だな」
『二百四十人を地球から減らすことが目的ではありません。地球以外でも、人間が長期間生活を継続できることを証明するためです』
悠介は画面を見る。二百四十人。世界人口から見れば、誤差にもならない。だが、その二百四十人が地球へ帰らずに暮らせるなら、次は千人にできる。
一万人。十万人。そしてもっと先へ。
最初の核融合炉と同じだった。一基目で日本の全電力を賄う必要はなかった。最初の宇宙船で世界の資源を全部取る必要もなかった。最初の居住区で人口問題を解決する必要はない。次を作れるところまで行けばいい。
◇
今までの宇宙開発で、人間は邪魔だった。FCPもFCRも無人。月面工場も無人。OCCにも人間はいない。人を乗せなければ、水も空気も食料も快適な温度も必要ない。壊れたら機械を失うだけで済む。今度は逆だった。
【生命維持系】
【閉鎖循環水処理】
【酸素供給】
【二酸化炭素除去】
【食料生産】
【放射線遮蔽】
【医療設備】
【居住空間】
【心理的負荷対策】
【低重力長期影響対策】
【妊娠・出産・成長への影響研究】
「多いな」
『はい』
「人間、面倒だな」
『はい』
「即答するな」
『事実です』
佐伯が笑った。
「今まで宇宙に人間置かなかった理由が分かっただろ」
「水も空気も持っていくんですよね?」
『水の大部分は月面で確保できます。建物は月面レゴリスおよび小惑星由来金属を利用できます。電気は核融合炉および太陽光発電です』
「食料は?」
『初期段階では地球からの輸送と現地閉鎖型農業を併用します』
「全部地球から持っていくわけじゃない」
『はい』
それが、これまで二十年以上かけて人類が作ってきたものの意味だった。月へ人を住ませるために始めたわけではない。だが今ならできる。水を掘る設備がある。酸素を作る設備がある。月面構造材がある。小惑星から金属が来る。核融合炉がある。宇宙輸送船がある。AIが遠隔でほぼすべての設備を監視できる。過去に別の問題を解決するために作ったものが、次の選択肢を作っていた。
◇
それでも、最初の恒久居住区は簡単には作れなかった。
【必要資源確保率――七六%】
「足りてない。何が不足している?」
【高耐久気密材】
【放射線遮蔽用設備】
【閉鎖循環農業設備】
【医療機器】
【大型空調・環境制御設備】
【予備生命維持装置】
「月に資源あるんじゃなかった?」
『原料が存在することと、必要品質の製品を製造できることは異なります』
「またそれか」
『はい』
「地球から持っていく?」
『一部は』
「残りは?」
『月面工場を拡張します』
「工場拡張する材料は?」
『地球近傍小惑星から取得可能です』
「採掘船を増やす?」
『はい』
「採掘船の材料は?」
『現在の月面および小惑星資源で大部分を確保できます』
「前より話が楽になってるな」
『宇宙産業基盤が存在するためです』
佐伯が頷いた。
「最初の一隻を作った頃とは違うってことだ。足りなくても取りに行く道具はある」
悠介はその言葉に少し笑った。昔は資源がないと言われたら、本当に何もなかった。今は違う。どこにあるか。どう取るか。何を先に作るか。順番さえ決めればいい。
◇
次に揉めたのは、設備ではなく人間だった。
「二百四十人、誰を選ぶの?」
悠介が聞いた。
『候補条件を設定すれば最適構成を算出できます』
「例えば?」
『年齢、健康状態、技能、遺伝的多様性、心理適性、家族構成、生殖可能性、職種、教育能力――』
「待て」
『はい』
「お前が順位をつけるの? この人は宇宙に行く価値が高い、この人は低いって?」
『目的関数次第では、そのような数値化になります』
「嫌だな」
『はい』
「はい?」
『社会的受容性が低いと予測します』
悠介は《アトラス》の返事に少し驚いた。
「じゃあどうする?」
『私は必要条件と複数の構成案を提示します。最終的な選定基準は人間側が決定すべきです』
「昔なら最適な二百四十人出してた?」
『指定された目的関数に従えば』
「今は?」
『計算可能であることと、私が決定すべきであることは同義ではありません』
佐伯が笑った。
「お前もずいぶん変わったな」
『学習結果です』
「人間から?」
『はい』
結局、移住者選定は国際委員会と参加国政府、月面運営組織によって決められた。技術者だけではない。医師。看護師。農業技術者。機械整備。電気。建築。教育。研究者。調理や生活支援を担う人間も含まれた。そして全員が若いわけでもない。効率だけなら不要と判断されかねない人間もいる。なぜならこれは非常時の避難船ではない。人間が暮らす場所を作る計画だからだった。
◇
第一恒久有人居住実証区が完成したのは、計画開始から七年後だった。
【月面第一恒久居住区】
【定員――二四〇人】
【居住区画――五棟】
【閉鎖循環水再利用率――九八・七%】
【食料現地生産率――四三%】
【酸素現地供給率――一〇〇%】
【電力――月面MIFR+太陽光】
【設計継続運用期間――二十年以上】
悠介は映像を見た。
「また地味だな」
『外観を目的としていません』
「これ何回言われたんだろ」
月面都市という言葉から想像するような巨大ドームはない。居住区の大半は放射線を避けるため、月面の土に覆われている。外から見えるのは出入口、通信設備、放熱設備、工場、車両ぐらい。
地下に近い居住区には、個室。食堂。医務室。運動設備。学校兼共同施設。小さな農業区画。地球の自然を模した共用空間もある。
「二百四十人、本当にずっと住める?」
『設計上は』
「途中で帰ってもいい?」
『希望すれば』
「じゃあ恒久居住じゃないじゃん」
『居住区そのものが恒久です。個人に終身滞在を強制するものではありません』
「それならいい」
第一陣の出発日は、FCP-1の初航行とは比較にならないほど世界中で中継された。あのとき乗っていたのは機械だけだった。今度は人が乗る。家族もいる。地球で仕事を終えたら帰ってくる宇宙飛行士ではない。少なくとも何年、何十年と月で暮らすつもりの人間たちだった。
【第一陣――八四人】
【第二陣――七八人】
【第三陣――七八人】
「一気に二百四十送らないんだ」
『第一陣の生活状況確認後、順次移住します』
「また最初から全部やらない」
『はい』
「学んだな」
『はい』
大型画面の中で輸送船が軌道を離れる。FCP-1の頃とは違い、今の船には人間がいる。窓もある。生命維持装置もある。故障時の退避区画もある。性能は昔の無人船とは比較にならない。それでも、やっていることは同じだった。
最初の一隻。最初の一基。最初の八十四人。全部を一度に解決するのではない。次へ進めるだけの一歩を作る。
◇
第一陣が月へ到着してから一年後。
【月面第一恒久居住区人口――二四〇人】
【重大事故――なし】
【地球への恒久帰還希望――七人】
【新規移住希望者――一八万四千人】
「希望者、多すぎない? 二百四十人しか住めないぞ」
『第二居住区の建設が進行しています』
「何人?」
『計画定員千二百人です』
「五倍か」
『はい』
「第三は?」
『検討中です』
《アトラス》が長期計画を出した。
【月面居住人口 一万人】
【地球―月系回転式居住施設】
【小惑星資源利用型大型居住区】
【火星圏恒久拠点】
【長期人類生存圏――複数天体・複数人工居住区へ拡張】
悠介はしばらく画面を見た。
「これで人口問題、解決する?」
『いいえ』
「二百四十人じゃ当然か」
『千二百人でも、一万人でも、当面の世界人口への影響は限定的です』
「じゃあ意味ある?」
『あります』
「いざという時の選択肢か」
『はい』
《アトラス》は地球の人口予測を表示した。
『将来、人口過密による環境圧力が深刻化した場合、人類は人口増加を抑制する以外にも、生存圏を拡張する選択肢を持てます』
「使うかどうかは、そのとき決める?」
『はい』
「全員宇宙行きたくないって言うかもしれない」
『はい』
「人口増やさないほう選ぶかもしれない」
『はい』
「選べることが大事?」
『はい』
悠介は頷いた。未来の人間が何を選ぶかは分からない。地球に残るか。人口を安定させるか。月へ行くか。軌道居住区へ行くか。もっと遠くへ行くか。今の世代が決めることではない。今の世代にできるのは、そのとき選べるものを増やしておくことだけだった。
◇
その日の会議の最後、《アトラス》が第二居住区の建設計画を表示した。
【月面第二恒久居住区】
【定員――一二〇〇人】
【完成予定――五年後】
【必要資源確保率――八一%】
悠介は笑った。
「また足りないな」
『はい』
「今回は何が足りない?」
一覧が出る。
【高耐久気密材――不足】
【閉鎖型農業設備――不足】
【高純度導体――不足】
【医療設備――不足】
【追加核融合炉部材――不足】
「つまり?」
『資源がありません』
昔、何度も聞いた言葉だった。あの頃は、その一言で終わっていた。
電気がない。燃料がない。部品がない。食料がない。作れない。できない。もう無理だ。だが今は違う。
「どこにある?」
『高耐久材用ニッケルは地球近傍小惑星NEA-2281から追加採掘可能です。導体用銅は地球再生資源と月面備蓄で確保できます。農業設備は第一居住区の製造設備拡張によって一部現地生産可能です』
「核融合炉は?」
『第四月面工業拠点で部材製造を開始できます』
「じゃあ足りない分を集めれば?」
『建設可能性が上昇します』
「何年でできる?」
『現行計画では五年です』
悠介は少しだけ笑った。
「じゃあ集めよう」
『はい』
画面には地球と月が並んでいた。その間を貨物船が行き来し、さらに外では小惑星採掘船が資源を集めている。地球にはまだ何十億もの人間が暮らしている。月にいるのは、たった二百四十人。人口問題を解決するには、何の意味もないほど少ない。それでも人類には、昨日までなかったものが一つ増えていた。
地球の外で暮らすという選択肢だ。
人類は百倍賢いAIを手に入れても、万能にはならなかった。未来も予測どおりにはならない。また資源が足りなくなるかもしれない。別の問題が起きるかもしれない。
それでも、問題が起きてから「他に方法がありません」と言われる前に、別の道を一つ作っておくことはできる。
かつて「資源はありません」という言葉は、諦める理由だった。今はただ、次に何を集めればいいかを知らせる言葉になっていた。




