エピローグ
高瀬悠介が八十歳を迎えた年、世界平均気温は、ようやくAIの大規模普及が始まる以前の水準まで戻った。
何十年もかかった。
核融合発電への転換。化石燃料の縮小。地球外への大規模演算移転。月面や小惑星での資源採掘。L1近傍の日射調整。海洋と森林の回復事業。高温化によって失われた土地の一部は戻らなかったが、人類は少しずつ地球へ押しつけていた負荷を減らしていった。
【世界平均気温――AI大規模普及以前の水準へ回復】
【世界AI演算量――当時比三八六倍】
【地球外AI演算比率――八七・二%】
【世界核融合発電比率――七一・四%】
【地球外恒久居住人口――一億八千万人】
AIは減らなかった。むしろ、とてつもなく増えた。ただし、その大半はもう地球上になかった。
月面。地球―月系の回転式居住区。地球近傍小惑星。火星圏。そして小惑星帯。
発電所も、演算施設も、精錬所も、巨大工場も、人間が暮らす居住区も、太陽系のあちこちに広がっている。地球は依然として人類最大の居住地だった。
だが、唯一の居住地ではなくなった。
◇
悠介が暮らしているのは地球だった。埼玉の郊外。昔より緑が増えた街だった。
若い頃に勤務していた市役所は建て替えられ、今では行政手続きのほとんどを人間が意識することすらない。道路の地下には水と電力と通信設備が通り、かつて停電や断水に怯えていた時代を思い出せるものはほとんど残っていなかった。
その日、悠介は市内の学校へ招かれていた。授業の題名は【文明危機期を知る人に聞く】。
「俺じゃなくてもいいだろ」
『高瀬さんは当時の行政、核融合開発、戦時復旧、宇宙開発の複数段階に関与しています』
「関与っていうか、だいたい横にいただけだけどな」
『平均的な人間の反応のサンプルとして有用でした』
「お前、それまだ言うのか」
『記録上の事実です』
《アトラス》の声は昔とほとんど変わらなかった。中身は何度更新されたか分からない。現在の《アトラス》の主要演算基盤も地球上にはない。月軌道、地球―月系居住区、小惑星帯の複数演算施設へ分散されている。それでも悠介の端末から呼べば、昔と同じ声で返事をする。
教室には二十人ほどの生徒がいた。もっとも、全員が地球生まれではない。月面生まれが三人。軌道居住区生まれが二人。火星生まれが一人。地球へ来るのが初めてだという生徒までいた。悠介には、その事実だけで十分おかしかった。
「昔はな、とにかく何もなかったんだよ」
一人の生徒が首を傾げた。
「何がですか?」
「何もかもだよ。電気がない。燃料がない。肥料がない。食い物も足りない。機械が壊れても交換部品がない。核融合炉を作ろうとしたら銅がない、ニッケルがない、特殊鋼がない」
「地球に?」
「地球に」
「採ればよかったんじゃないですか?」
「採れる場所が止まったんだよ。戦争になったり、国が壊れたり、鉱山が動かなくなったりしてな」
若者たちの反応は薄かった。教科書では知っている。だが実感がないのだろう。今では月面の金属精錬量だけでも、当時のいくつもの国の生産量を超えている。小惑星から運ばれるニッケルや鉄は、地球へ降ろされるより宇宙で消費される量のほうが多い。
「宇宙船もなかった」
「宇宙船はあったでしょう?」
「今みたいなのはない。最初の核融合貨物船なんて、人間も乗れないし、帰ってもこられない。五十何トンか月まで運んだだけで大騒ぎだ」
「五十トン?」
「そう」
教室の何人かが顔を見合わせた。現在、地球―月間を走る定期貨物船は、一便で数万トンを運ぶ。
「それで月へ工場を作って、水を掘って、酸素を作って、少しずつ地球から持っていかなくていいものを増やした。次に小惑星へ行った。最初に持って帰ってきた資源なんて六十トンちょっとだ」
「少なっ」
「当時はそれでも大成功だったんだよ」
笑いが起きた。悠介も笑った。
「本当に、何をやろうとしても足りなかった。アトラスに何回『資源がありません』って言われたか分からん」
『正確な回数を提示できます』
「いい。そういうのはいらん」
また笑いが起きる。すると、前の列に座っていた若者が不思議そうに言った。
「でも、そんなに資源がなかったんですか?」
「なかった」
「地球に?」
「だからそう言ってるだろ」
若者は少し考え、それからごく普通のことのように言った。
「宇宙に出れば何でもありますよ?」
悠介は口を開いたまま、しばらく黙った。教室のほかの生徒たちも、その発言を特に変だとは思っていないらしい。月には水がある。小惑星には金属がある。火星圏にも資源がある。もっと遠くへ行けば、さらに多くの天体がある。
必要なら取りに行く。足りなければ採掘拠点を増やす。宇宙で使うなら、わざわざ地球へ持ってくる必要もない。彼らにとって、それは当たり前だった。
「……そうだな」
悠介は笑った。
「今はそうなんだよな」
◇
授業が終わったあと、悠介は学校の屋上へ出た。空は青い。子どもの頃に見た夏空と、それほど変わらない色だった。真夏でも外へ出られる。危険な暑さになる日はあるが、かつてのように四十度を超える日が何週間も続くことはなくなった。空を見上げても、宇宙居住区は肉眼では見えない。月だけが昼間の空に薄く浮かんでいる。
「アトラス」
『はい』
「さっきの子、どこ生まれ?」
『地球―月系第四居住区です』
「やっぱり宇宙生まれか」
『はい』
「地球に住むつもりあるのかな」
『本人の進路希望を確認しますか』
「いいよ。聞くほどのことじゃない」
昔なら、人間は地球に住むものだった。月へ行くのは宇宙飛行士。火星へ行くのは冒険。宇宙は、地球から出かけていく場所だった。今は違う。
月で生まれた人間が地球の大学へ進学する。地球で生まれた人間が火星へ就職する。軌道居住区から月へ引っ越す。小惑星帯の工業都市で子どもを育てる。地球へ一度も行ったことのない人間すらいる。
「人類、どこまで増えた?」
『地球外恒久居住人口は現在一億八千四百七十二万人です』
「多いな」
『地球人口と比較すれば、まだ少数です』
「でも昔は二百四十人だった」
『はい』
最初の月面恒久居住区。二百四十人。あの数字を見たとき、人口問題には何の意味もないと思った。実際、当時は意味がなかった。だが目的は人口を減らすことではなかった。未来の人類に、別の場所を選べるようにすることだった。
それから何十年。二百四十人は千人になり、一万人になり、百万人になった。月だけではない。宇宙そのものが生活圏になった。
「昔、地球がいっぱいになったらどうするって話してたよな」
『はい』
「結局いっぱいになった?」
『地域によって人口圧力は上昇しました。しかし人口抑制のみを必要とする状況には至っていません』
「宇宙へ出たから?」
『要因の一つです』
「相変わらず言い切らないな」
『正確です』
悠介は笑った。未来の人類は、地球に残ることもできる。月へ行くこともできる。軌道居住区を選ぶこともできる。火星へ行くこともできる。さらに遠くへ行くこともできる。どれを選ぶかは本人次第だった。
地球は人類の故郷だった。今でも最も多くの人間が暮らしている。自然の空と海があり、巨大な生態系があり、何十億年かけて作られた環境がある。特別な場所であることは変わらない。だが、もう唯一ではない。悠介は月を見上げた。
「アトラス」
『はい』
「今、人類が住める場所はいくつある?」
『「住める」の定義によります』
「普通に暮らせるところ」
『地球を含め、恒久居住人口一万人以上の独立居住圏は四十七です』
「そんなに?」
『はい』
「昔は一個だったのにな」
『はい』
悠介は少し考えた。
「じゃあ今の若い連中にとっては、地球って何なんだろうな」
『選択肢の一つです』
その答えを聞いて、悠介はまた笑った。
「そうか」
かつて人類には、地球しかなかった。電気が足りなくても。資源が足りなくても。暑くなっても。人口が増えても。そこにいるしかなかった。だから、何かが足りなくなるたびに奪い合った。
減らした。我慢した。諦めた。今は違う。
地球で足りなければ、宇宙に出る。月になければ、小惑星へ行く。そこにもなければ、さらに遠くへ行く。もちろん、宇宙にも限界はある。新しい問題も起きるだろう。また資源が足りなくなる日も来るかもしれない。そのときの人類が何をするか、悠介には分からない。《アトラス》にも、きっと完全には分からない。
ただ一つだけ、昔より増えたものがある。選択肢だった。悠介はもう一度、昼の空に浮かぶ月を見る。あそこにも人がいる。その向こうにも。もっと遠くにも。
人類にとって、地球はもう世界そのものではなかった。
数ある世界の中の、最初の一つだった。




