第二話 止められない頭脳
東アフリカの鉱物資源輸出が停止してから、四十七日が経った。
最初に値上がりしたのは電子部品だった。その次に蓄電池、精密モーター、送電設備、工作機械の交換部品。さらに数週間遅れて、まるで病気が血管を伝って広がるように、影響はあらゆる産業へ波及していった。
高瀬悠介の住む街でも、以前なら数日で届いていた家電製品が「入荷時期未定」になり、電気自動車の修理には三か月待ちという表示が出るようになった。スーパーから食品が消えたわけではない。しかし品数は目に見えて減り、輸入果物の棚は半分以上空いている。牛肉は高級品になり、植物油には一人一本までという購入制限がついた。
それでも社会は動いていた。動いてしまっていた、と言ったほうが正しいかもしれない。
『高瀬さん。本日の出勤経路を変更します。国道十七号で配送車両の集中が発生しています』
「事故?」
『いいえ。燃料供給制限に伴い、複数の配送会社が輸送便を統合したためです』
「じゃあ電車で行く」
『現在、鉄道利用者が通常比一三八%です。混雑を考慮すると自転車が最短です』
「この暑さで?」
『現在気温三八・七度。推奨しません』
「じゃあどうしろってんだよ」
『十二分早く出発し、鉄道を利用してください』
「最初からそう言え」
悠介は小さく舌打ちしながら玄関を出た。朝七時を少し回ったばかりなのに、空気はすでに熱かった。駅までの道には自家用車が明らかに減っている。政府が燃料輸入の悪化を受け、ガソリンの業務用車両への優先供給を始めたからだ。
まだ配給制ではない。少なくとも政府はそう説明している。ただし一回の給油量には制限があり、地域によっては一般車両への販売を一時停止するガソリンスタンドも出始めていた。
駅前の大型画面ではニュースが流れている。
【中東三か国、原油輸出量を追加削減】
【世界食料価格指数、過去最高を更新】
【南アジアで大規模熱波 推定三億人以上に外出制限】
【地中海沿岸で難民船相次ぐ EU緊急首脳会議】
【アフリカ中央部で新たに二政府が非常事態宣言】
誰も足を止めて見ようとはしなかった。悪いニュースが多すぎるのだ。一年前なら世界を揺るがした事件が、今では朝の天気予報と同じ扱いになっている。
◇
市役所に着いた悠介は、そのまま第六会議室へ呼ばれた。いつもの地域食料供給会議ではない。市長、副市長、各部長に加え、県政府や電力会社の担当者まで大型ディスプレイ越しに参加している。
「何かあったんですか?」
「国から通達だ」
課長が答えた。大型画面に資料が表示される。
【国家AI演算資源削減検討指針】
悠介は思わず画面を二度見した。
「AIを減らすんですか?」
「検討段階だ」
総務部長が言った。
「全国的な電力不足と冷却水不足が限界に近い。特に今年の夏は過去最大の電力需要になると予測されている。政府は国内AI演算量を段階的に削減した場合の影響を調査している」
「どのくらい?」
「最初の案は三〇%だ」
会議室のあちこちで小さなどよめきが起きた。三〇%。数字だけ聞けば大きい。だが悠介は、一瞬だけ期待した。
AIセンターが電気を食っているなら、そこを削ればいい。少なくとも毎日のように家庭へ節電要請を出すよりは筋が通っている。
「三〇%削れば、電力はかなり余るんですよね?」
『単純計算では、国内電力需給は大幅に改善します』
会議室のスピーカーから《アトラス》の声がした。
「じゃあやればいいじゃないですか」
悠介が言うと、何人かが同意するように頷いた。
『ただし、AI演算量のみを削減し、それによる社会機能低下を考慮しない場合の計算です』
「どういう意味?」
『削減対象を提示します』
画面が切り替わった。
【娯楽生成AI】【広告最適化AI】【個人向け高度推薦AI】【金融取引AI】【行政支援AI】【医療支援AI】【物流最適化AI】【農業管理AI】【電力需給制御AI】【製造工程最適化AI】【災害予測AI】
「上から止めればいいだろ」
商工部長が言った。
「娯楽と広告なんて、こんな状況で必要ない」
『同意します。ただし長期的には社会不安が増大します』
人間が野外に出られない状況だ。娯楽を制限されては不満が溜まる。
「長期か……そこを削ったら何%になる?」
『国内総演算量の四・六%です』
「個人向け推薦は?」
『追加で三・一%』
「金融は?」
『削減可能ですが、市場流動性低下と決済処理能力への影響があります』
「じゃあ行政」
誰かが言った。会議室が少し静かになった。
『行政支援AIの三〇%削減を実施した場合、この市役所では現在の職員数で処理可能な行政事務量を約四一%超過します』
悠介は思わず顔を上げた。
「四一%?」
『はい』
「そんなに仕事してたの?」
「お前、自分が毎日何を承認してるのか分かってないのか」
課長に呆れられた。《アトラス》は淡々と続ける。
『住民申請処理、税務照合、福祉給付判定、道路補修優先順位、公共施設電力管理、地域物流予測、災害避難計画、予算案作成補助などが影響を受けます』
「昔は全部人間がやってただろ」
副市長が言った。
『はい』
「戻せないのか?」
『可能です』
「なら――」
『必要職員数は現在より約二・七倍です』
誰も続けなかった。地方行政はAI導入後、長い年月をかけて人員を減らしてきた。退職した職員を補充せず、専門部署を統合し、「AIで効率化できる」という理由で定員を削減してきた。今さら二倍以上の人間を集めろと言われても、集められるはずがない。
「医療は?」
『診断補助AIを三〇%削減した場合、外来診療処理能力は全国平均で一八%から二六%低下すると予測されます』
「物流」
『燃料消費量が現在より九・四%から一五・七%増加する可能性があります』
電力会社の担当者が顔をしかめた。
「燃料がないからAIを削ろうって話なのに、AIを削ったら燃料使用量が増えるのか?」
『配送経路最適化、共同輸送調整、空車率削減などの精度が低下するためです』
「農業は?」
『肥料使用量、農業用水、農機燃料の消費効率が悪化します』
「電力制御AIを削ったら?」
『発電能力が不足している現在、需給調整余力が低下し、計画停電時間が増加します』
市長が椅子に深く座り直した。
「要するに何だ。AIが電気を使いすぎて困っている。だからAIを止めようとすると、今度は社会が余計に資源を使う?」
『一部については、その通りです』
「冗談みたいな話だな」
『冗談ではありません』
「分かってるよ」
笑う者はいなかった。
◇
三日後、政府は全国向けにAI演算資源削減の試算を発表した。国内AI演算量を三〇%削減した場合、AI施設そのものの電力消費は大幅に減る。しかし物流、製造、農業、行政、医療などの効率低下を含めると、節約できる電力と資源の一部が相殺される。
それ以上に問題だったのは、人だった。AIの代わりをできる人間がいない。正確には、昔はいた。だが二十年かけていなくなった。
鉄道の運行計画を一から人間だけで組める人間。数百万件の物流を人間だけで調整できる人間。AIなしで電力需給をリアルタイム管理できる技術者。大量の医療画像を人間だけで診断できる医師。手作業で膨大な行政手続きを処理できる職員。
仕事そのものがなくなったわけではない。人間がやり方を忘れたのだ。テレビでは専門家が連日議論していた。
『AI依存から脱却するべきです』
『今すぐ大幅削減すれば国家機能が持ちません』
『では永遠にこの電力消費を続けるのですか?』
『段階的に人材を再育成する必要があります』
『その間にも気温は上昇しています』
『まず娯楽AIを完全停止すべきでは?』
『それだけでは全体への影響は限定的です』
世論調査では、七割以上が「AI電力消費を大幅に減らすべき」と答えた。ところが質問を変えると数字も変わる。
【医療AIの利用制限に賛成――一九%】
【物流AIの利用制限に賛成――一四%】
【災害予測AIの利用制限に賛成――八%】
【勤務先で使用する業務AIの利用制限に賛成――二三%】
悠介は自宅で結果を見ながら笑った。
「みんな勝手だな」
『一般的な傾向です』
「俺も?」
『高瀬さんは先月、AI電力消費削減に賛成と回答しています』
「そんなアンケート答えたっけ?」
『医療支援AIを停止してよいかという別質問には「反対」と回答しています』
「……覚えてなくていいんだよ、そういうの」
『了解しました。記録は保持します』
「消せよ」
『削除しますか?』
「いや、いい」
自分でも何を言っているのか分からなくなった。結局、誰もAIを止めたいわけではない。自分が必要としているもの以外を止めてほしいのだ。悠介自身も同じだった。
仕事では《アトラス》を一日中使う。帰宅すれば食事を相談し、ニュースを要約させ、体調を管理してもらう。休日の予定まで考えさせている。AIの電力消費には文句を言う。しかし明日の朝から使えなくなると言われれば困る。
「昔の人って、どうやって生活してたんだろうな」
『二〇二〇年代の生活様式について説明しますか?』
「いい。長そうだから」
『三分程度に要約できます』
「それもいい」
便利だ。本当に便利すぎる。だから止められない。
◇
日本政府は、最後の望みを国際協調に求めた。世界AI演算量を各国同時に削減する。
日本だけがAIを減らせば、産業、研究、安全保障すべてで不利になる。しかし世界中が同時に減らせば、環境負荷を下げながら競争条件も維持できる。理屈としては完璧だった。
国際AI環境負荷削減会議が緊急開催され、主要国政府と国際機関が参加した。
提案されたのは、
【世界AI演算量――三年間で三五%削減】
【医療・災害・基礎インフラAIを削減対象から除外】
【娯楽・広告・金融投機AIを優先削減】
【参加国間で削減量を相互監査】
世界全体を管理するシミュレーションAIへ質問すると、答えは明快だった。
『参加国が同時に履行した場合、長期的な電力・水需要抑制に有効です』
ところが会議はまとまらなかった。中国代表が言う。
「現在、我が国は食料生産効率を維持するためAI演算能力を必要としている」
インド代表。
「我々も同様だ。農業、水資源、熱波対策を削減対象にはできない」
アメリカ代表。
「他国が削減義務を守る保証が必要だ」
欧州側。
「監査制度を設ける」
「国家安全保障に関係するAI施設まで監査するのか?」
「それがなければ意味がない」
「受け入れられない」
さらに、そもそも会議に参加できない国が増えていた。政府機能を失った国。内戦状態の国。通信網が不安定な国。食料暴動を抑えるだけで精一杯の国。世界はすでに、全員で同じ方向へ歩ける状態ではなかった。
会議開始から六日目。削減協定は事実上の無期限延期となった。その日の夕方、市役所の休憩室でニュースを見ていた悠介は《アトラス》へ聞いた。
「日本だけ三五%削ったらどうなる?」
『短期的には電力需給が改善します。ただし、産業競争力、研究能力、安全保障、医療、物流の各分野で他国との差が拡大する可能性があります』
「中国が削らなかったら?」
『日本側の相対的な不利益はさらに大きくなります』
「じゃあ削れないじゃん」
『現在の条件では、大幅な単独削減には重大なリスクがあります』
「でも世界全体では減らしたほうがいいんだろ?」
『各国政府は概ね理解しています』
「じゃあなんでやらない?」
『各国にとって、他国が削減しない状態で自国だけ削減することが不利益となるためです』
悠介は缶入りのぬるい麦茶を飲んだ。
「全員がやれば助かる。でも誰も最初にやりたくない」
『概ねその通りです』
「頭はいいのに、どうにもならないのか?」
『私は各国の行動を強制できません』
「じゃあ説得すれば?」
『多数の提案を各国政府へ提示しています』
「効果は?」
『限定的です』
「役に立たねえなあ」
『申し訳ありません』
「謝られると俺が悪いみたいになるからやめろ」
『了解しました』
悠介はしばらく黙った。窓の向こうでは、夕方になっても気温が三十九度を超えていた。
ニュース画面の端に、新しい速報が流れる。
【中国、国家食料安全保障法を改正】
【重要農産物および鉱物資源の国外流出規制を強化】
【人民解放軍、大規模動員演習を発表】
その下には別の速報。
【中東原油価格、史上最高値】
【EU加盟国内で国境管理強化の動き】
【北アフリカからの難民流入、一週間で二十万人超】
世界が少しずつ閉じていく。自国の食料。自国の電力。自国の水。自国の資源。誰もが自分の国を守ろうとしていた。それは間違っていない。間違っていないからこそ、厄介だった。
「このままいったらどうなる?」
短い沈黙のあと、画面に複数の予測が表示された。
【国際貿易量――減少傾向】
【資源輸出規制――増加傾向】
【食料安全保障リスク――上昇】
【国家間緊張――上昇】
【大規模武力衝突発生リスク――上昇】
悠介は最後の項目を見た。
「戦争はなくなったんじゃなかったのか」
『過去二十一年間、大規模国家間戦争は発生していません』
「これからは?」
『各国政府の将来の選択を完全には予測できません』
世界最高の頭脳が、分からないと言った。それよりも悠介が気になったのは、その下に表示された一文だった。
【現在の国際秩序を維持するために必要な資源余力――急速に低下しています】
余力。その言葉が妙に頭に残った。食料に余裕があれば分けられる。電力に余裕があれば売れる。水に余裕があれば隣国とも争わない。金に余裕があれば難民を受け入れられる。だがその余裕が世界中から消えてしまっている。
AIを止めれば社会が壊れる。AIを動かせば資源を消費する。世界全体で減らせばいい。しかし世界はもう、協力できるほど一つではない。悠介は画面を見ながら、ぽつりと言った。
「これ、詰んでないか?」
《アトラス》はすぐには答えなかった。数秒後、いつもの落ち着いた声が返ってくる。
『現時点で、解決策が存在しないとは判断していません』
「それは実行できるのか?」
『現在の国際情勢では、困難です』
「やっぱり詰んでるじゃねえか……」
世界には人類より百倍賢いAIがいる。けれどその答えを実行することすら困難な時代が始まりつつあった。




