第十八話 勝者のいない戦争
中央大陸人民共和国軍による日本への大規模攻撃から、三週間が過ぎた。
戦闘そのものは一時的に沈静化していたが、日本人の生活は戦争前より明らかに悪くなっていた。第一実証炉は七万五千キロワット前後で低出力運転を続けている。主変圧設備は仮設、冷却系統は片肺、磁場コイルも一部を切り離したまま。それでも病院、水道、通信、復旧工事へ電力を送り続けていた。
だが、電気だけではどうにもならないものがあった。
【日本国内死者――四二六人】
【負傷者――二八七〇人】
【行方不明――三一人】
【一時避難者――約八四万人】
【住宅全壊・大破――一八九七棟】
【最大停電戸数――約三一〇万戸】
【主要港湾被害――六か所】
【直接経済損失推計――約七・八兆円】
これが攻撃による直接被害だった。しかし、本当の打撃はその後に来た。
【原油輸入――戦争前比三一%】
【LNG輸入――戦争前比三八%】
【穀物輸入――戦争前比四二%】
【飼料輸入――戦争前比二九%】
【肥料原料輸入――戦争前比二四%】
【主要港湾貨物処理能力――一八%低下】
東海連邦周辺での戦争に加え、日本自身が交戦国になったことで、多くの民間船が日本航路から撤退した。戦争保険料は跳ね上がり、船員を確保できない会社も増えた。さらに港が攻撃され、荷役設備や倉庫も壊れている。
船が来ない。来ても荷物を下ろせない。下ろしても、それを運ぶ燃料がない。そして国内で作ろうにも、工場の一部は攻撃で止まり、電力も原料も人手も足りなかった。高瀬悠介が市役所の危機管理室へ出勤した朝、最初に渡された資料は戦況ではなく食料だった。
【全国食料供給見通し】
【穀物――不足拡大】
【食用油――重大な不足】
【乳製品――供給制限】
【鶏卵――減産】
【食肉――大幅減産】
【加工食品――製造能力低下】
「戦争前も足りなかったよな」
『はい。輸入減少に加え、国内輸送能力と食品加工能力がさらに低下しています』
「国内で作った米や野菜は?」
『輸送用燃料が不足しています。貨物列車は高稼働状態です。一部路線は戦争被害により輸送能力が低下しています。船舶による国内沿岸輸送も燃料と船舶不足の影響を受けています。トラックでの輸送は軽油の軍事・救急・インフラ向け優先配分によって、民間物流への供給量が低下しています』
悠介は黙った。食料がないわけではない。北海道にはジャガイモがある。東北には米がある。関東近郊には野菜もある。しかし、それを必要な場所へ運ぶ燃料がない。
「余って腐ってる地域もある?」
『あります』
「食べ物足りなくて困ってる地域も?」
『あります』
「お前なら配れるだろ」
『配分計画は作成できます。しかし輸送手段そのものは生成できません』
その言葉に、悠介は何も返せなかった。一年前なら、《アトラス》が最適な配送計画を作ればかなりの問題を解決できた。今は違う。AIは一台のトラックを十倍効率よく使う方法を考えられる。だが、トラックそのものがなければ走らない。軽油がなければ動かない。食べ物がなければ分けられない。どれだけ賢い頭脳でも、存在しないものまでは配れなかった。
◇
政府は戦争開始後、燃料と物資の優先順位をさらに変更していた。
【第一優先――自衛隊・国民保護・救急】
【第二優先――水道・電力・通信・医療】
【第三優先――基礎食料生産・輸送】
【第四優先――基幹産業】
【その他民生用途――原則制限】
悠介は一覧を見た。
「農業と食料輸送が三番? 前はもっと上だったよな」
『戦時防衛需要の追加によって順位が変化しました』
航空機。艦艇。防空部隊。輸送車両。発電機。自衛隊だけではない。在日米軍への補給、日本各地の避難輸送、被災施設の復旧にも大量の燃料と資材が必要だった。
国を守るために物資を投入する。当然のことだった。だが、投入した分だけ民間から消える。
「もし軍への燃料を減らせば?」
『防衛能力が低下します』
「食料輸送に回せる」
『はい。ただし迎撃能力および部隊運用能力が低下します』
「どっちが優先だ?」
『政府が決定します』
何度目か分からない問いだった。今回は「炉か人か」ではない。戦うための燃料か、食べ物を運ぶための燃料か。どちらも人間を守るために必要だった。
中央大陸人民共和国は日本からは撤退したが、東海連邦とはまだ交戦状態にあった。もはや日本に攻め込む余力はないはずだったが、だからといって日本の防衛力は削れなかった。
政府は結局、防衛用燃料を維持した。その代わり、一般家庭向けガソリン配給は事実上停止した。仕事上必要な人間を除き、自家用車はほとんど動かなくなる。宅配便は緊急物資を除いて週一回程度。コンビニへの配送も毎日ではなくなった。スーパーでは地域ごとに入荷日が決められ、店頭に商品が並ぶと長い列ができた。
そして政府は、ついに食料配給基準をさらに厳しくした。
【成人一人あたり標準食料配分――一日一八〇〇キロカロリー相当】
【重労働者・妊婦・成長期児童――追加配分】
【高齢者・疾病患者――栄養状態に応じ個別調整】
悠介は数字を見た。
「一八〇〇で足りるのか?」
『短期間であれば、多くの成人にとって生命維持に重大な問題が生じる水準ではありません』
「そういう聞き方してない」
『十分な食生活とは言えません』
「だよな……」
市役所の食堂から肉料理が消えた。米と芋と豆、それに少量の野菜。魚や卵が出れば当たりの日だった。街でも同じだ。牛肉はほぼ姿を消し、豚肉も珍しい。鶏肉は医療施設、学校、高齢者施設への優先供給が増えた。輸入飼料がない。食べさせる穀物があるなら、人間へ回したほうが効率がいい。
「アトラス。もっと上手く分配できないのか?」
『すでに全国規模で最適化を実施しています』
「まだ何かあるだろ」
『食品廃棄率の追加低減、輸送距離短縮、地域内消費の拡大、代替作物への変更などを進めています』
「それでも足りない?」
『はい』
初めてに近いほど、はっきりした答えだった。
「お前がいても?」
『はい』
悠介は黙った。AIが負けたわけではない。計算はできている。配送もこれ以上ないほど効率化している。それでも、分母が小さすぎる。百あるものを百二十に分けることはできない。
◇
そして、そんな日本で最も大量の資源を要求している民間プロジェクトの一つが、核融合炉だった。
特殊鋼二百八十トン。高純度銅、追加八十六トン。冷却設備用配管、ポンプ、パワー半導体。政府の資源配分会議で、佐伯宗一郎は一歩も引かなかった。
「第二号炉じゃありません。一号炉の修理だけでこれですか?」
「そうだ」
「港も水道も変電所も壊れてる。鉄も銅も全部欲しがってる」
「知ってる」
「だったら核融合炉は後回しにするべきでは?」
「駄目だ」
会議室の空気が張りつめた。悠介もオンラインで参加していた。
「佐伯さん。今、食料輸送のトラックすら足りないんですよ」
「分かってる」
「核融合炉の修理に工場回したら、トラックの部品作れなくなるところもある」
「それも分かってる。だから直すんだよ」
佐伯が画面の第一実証炉を指した。
「今の不足を全部解決する方法なんかない。食料に鉄を回したら、次は電力設備が止まる。水道に銅を回したら、次は工場が止まる。全部ちょっとずつ延命して、どこまで持つ?」
誰も答えない。
「一号炉を直せば電気が増える。十二万まで戻せば、その電気で製鉄所を動かせる。精錬所も動かせる。工作機械も動かせる。肥料工場も少し動かせる」
佐伯の声が強くなった。
「ずっと今日だけ助けてたら、明日はもっと貧乏になる」
《アトラス》が資料を表示した。
【第一実証炉修復に資源を投入しない場合】
【短期民生資源供給――改善】
【三か月後――食料物流・インフラ補修に一定の改善】
【六か月以降――電力不足による産業回復遅延】
【肥料・金属・輸送機器部品生産――回復遅延】
【二年後社会機能――悪化】
次。
【第一実証炉修復を優先する場合】
【短期民生資源供給――追加悪化】
【炉出力十二万キロワット到達後――製鉄・精錬・肥料関連産業の稼働余力増加】
【第二号炉建設――継続可能】
【中長期食料供給能力――改善】
政府担当者が聞いた。
「人命で比較したら?」
『短期では修復を後回しにする案が有利です』
「長期は?」
『修復優先案が有利となる可能性が高いです』
「いつ逆転する?」
『現時点推計では八か月から一年四か月程度です』
会議室が静かになった。
「じゃあ八か月先の人間を助けるために、今の人間に我慢させる?」
誰かが言った。
『はい』
《アトラス》は曖昧にしなかった。
「お前は推奨するのか?」
『第一実証炉の修復を推奨します』
「食料不足がさらに悪化しても?」
『短期間の悪化が許容可能な範囲に収まることを条件とします』
悠介はその言葉を聞きながら、ずっと以前の《アトラス》なら同じ結論でも違う出し方をしただろうと思った。効率だけを示した。数字だけを示した。今は違う。我慢させることも、先送りすることも、その代償まで含めて答えている。
「どこまでなら削れる?」
悠介が聞いた。
『核融合炉修復用資材を一七%削減し、修復期間を三十四日延長する代わりに、農業機械・物流車両修理用資材を確保する案があります』
「食料輸送は?」
『最速修理案より改善します』
「炉は?」
『遅れます』
佐伯が少し考えた。
「それでいこう」
政府担当者が驚く。
「いいんですか?」
「食えなきゃ炉直す人間も死ぬ」
悠介は少し笑った。
「佐伯さんまで妥当解ですね」
「うるさい」
核融合炉だから特別扱いする。だが、すべてを核融合炉へ回すわけではない。今日を生きるための食料輸送も残す。未来を作る炉も残す。また両方だった。
◇
第一実証炉の修理は、戦闘中よりある意味で難しかった。攻撃直後は、とにかく動かすことだけを考えればよかった。今は、日本中が同じ部品を欲しがっている。ポンプを一台核融合炉へ回せば、水道設備の修理が一台遅れる。銅を一トン使えば、変圧器か鉄道車両のモーターが作れなくなる。大型トラックを一台使えば、食料を運べる車が一台減る。技術者にも限りがある。
「この冷却ポンプ、搬入いつ?」
『十二日後です』
佐伯が顔をしかめる。
「遅い」
『食品輸送用冷蔵車両の修理を優先しています』
「……なら仕方ない」
「佐伯さんが折れた」
悠介が言う。
「食い物には勝てん」
『別案があります。旧火力発電所の循環ポンプを転用できます』
「使えるのか?」
『性能は必要値の六八%です』
「また六割か」
『並列二基で必要流量を確保できます。ただし電力消費は増加しますが、正規品を待つより十日早く修復可能です』
「やれ」
全国で似たようなことが繰り返された。正規部品を待たない。違う設備から持ってくる。壊れたもの同士を組み合わせる。設計性能を下げる。自動化を諦めて、人間が監視する。交換寿命が一年でも使う。第一実証炉は、最初に作られたとき以上に継ぎ接ぎになっていった。だが出力は少しずつ戻った。
【正味出力――七万五千キロワット】
【八万三千】
【九万一千】
【一〇万】
十万キロワットを超えた日、佐伯は制御室で小さく拍手した。
「あと二万」
『十二万キロワットは保証されていません』
「夢くらい見せろよ」
『到達可能性は七八%です』
「十分だ」
その電力はすぐに工場へ回った。製鉄。変圧器。農業用ポンプ。トラック部品。肥料製造。核融合炉が作った電気で、食料を運ぶための部品を作る。ようやく循環が始まりつつあった。悠介はその数字を見ながら思った。これが止まれば、また減らすだけの国に戻る。
食料を減らす。電気を減らす。輸送を減らす。仕事を減らす。人間の生活を少しずつ小さくして、その寿命を延ばすだけ。だから今の日本にとって、第一実証炉はただの発電所ではなかった。唯一、減っているものを増やす方向へ戻せる機械だった。
◇
その一方で、中央大陸人民共和国は急速に崩れ始めていた。
日本との戦闘に投入した大量の燃料、航空機、艦艇、長距離兵器は戻ってこない。東海連邦戦線でも補給不足が深刻化し、軍需優先によって民間物流はさらに悪化していた。
【主要都市電力供給――追加制限】
【食料配給遅延地域――拡大】
【複数地方政府、中央政府向け穀物供出を停止】
【軍管区の一部、中央命令への服従を拒否】
【大都市圏で抗議行動拡大】
「日本よりひどい?」
悠介が聞いた。
『食料総量では中央大陸人民共和国が上回ります。しかし物流と統治能力の低下により、地域間格差が極端に拡大しています』
「食料あるのに届かない?」
『はい。日本で発生している問題と同様です。ただし行政・物流組織の統制維持度には差があります』
AIが配分案を作っても、それを運ぶ車がない。運ぶ車があっても燃料がない。燃料があっても、途中の道路を誰が管理しているのか分からない。中央政府が食料輸送を命じても、地方政府が倉庫を開けない。その段階まで行けば、AIの計算能力などほとんど意味を持たない。
日本はまだそこまでは壊れていなかった。ギリギリだったが命令が届く。トラックは指定された場所へ向かう。配給所には列ができる。少なくても順番に分けられる。
戦争開始から七か月、東海連邦戦線で中央大陸人民共和国軍の大規模撤退が始まった。補給不足に陥った部隊が戦線を維持できなくなり、一部では命令系統そのものが消失した。
【中央大陸人民共和国政府、東海連邦方面での「戦略的配置転換」を発表】
「撤退?」
『実質的には』
さらに続報。
【軍管区二か所、中央政府命令系統から事実上離脱】
【西部複数地域、食料供出停止を継続】
【中央大陸人民共和国政府、日本・アメリカとの停戦協議を要請】
「核融合炉をよこせって言わなくなったな」
『現在は即時の食料・燃料・国内統治維持が優先されています』
「未来より今日か」
中央大陸人民共和国は、未来を奪うために戦争を始めた。そして戦争の結果、未来を考える余裕そのものを失った。
◇
停戦交渉は意外なほど早く進んだ。日本もアメリカも、中央大陸人民共和国本土へ戦争を拡大する余力はなかった。日本国内では一日一八〇〇キロカロリーの食料配給を維持することさえ大仕事になっている。東海連邦も都市と産業基盤に甚大な被害を受け、これ以上戦争を続ければ勝っても復興できなくなる。
誰にも戦争を続ける余裕がなかった。そして戦争開始から二百三十一日目。
【中央大陸人民共和国・東海連邦間 停戦発効】
【日本・アメリカに対する軍事行動停止】
市役所で小さな拍手が起きた。大歓声ではなかった。皆、疲れていた。何より、戦争が終わっても翌日の食料配給が増えるわけではないことを知っていた。
「これで船が戻るか?」
悠介が聞く。
『段階的には』
「石油は?」
『一部回復が期待できます』
「食料は?」
『輸送量は増加する可能性があります。しかし世界的な生産不足そのものは続いています』
「港も壊れてる。国内農業も肥料不足。平和になっても貧乏は終わらんな」
『当面は』
「嫌な答えだな」
『事実です』
戦争は終わった。資源不足は終わっていない。世界平均気温も下がっていない。中東の石油生産も戻っていない。アフリカの鉱山地帯では今も武装勢力が争っている。中央大陸人民共和国からは新たな避難民まで流れ出している。平和は必要だった。だが平和だけでは、食べ物も燃料も生まれなかった。
◇
停戦から九日後、第一実証炉の制御室で、小さな数字が動いた。
【正味出力――十一万七千キロワット】
「あと三千」
佐伯が画面を見る。
『冷却第二系統流量を一・四%上昇させれば到達可能性があります』
「安全余裕は?」
『許容範囲です』
「やれ」
【十一万八千】
【十一万九千】
【十二万】
そこで《アトラス》が止めた。
『十二万キロワット到達』
大歓声はなかった。佐伯が椅子にもたれた。
「やっとか」
「三十万出てたのに、十二万で喜ぶんですね」
悠介が言う。
「喜ぶよ」
『十二万キロワットも出ています』
たった十二万。日本全体から見れば小さい。戦争前の第一実証炉より半分以下。それでも、その電力で製鉄所が動く。銅を精錬できる。トラックの部品を作れる。農業用ポンプを直せる。肥料を少し増産できる。そして第二号炉を作ることができる。
「二号炉はやっぱり続けるのか?」
悠介が聞いた。《アトラス》が画面を切り替えた。
【第二号炉完成予定――一年七か月後】
【目標正味出力――四〇万キロワット】
【優先供給予定――製鉄/肥料/水処理/合成燃料/資源再処理】
「完成したら食べ物は増えるか?」
『直接食料を生成するわけではありません』
「分かってる」
『肥料生産、農業機械製造、冷蔵輸送、燃料合成などを通じて、国内食料供給能力を改善できます』
「じゃあ作るしかないか」
翌日のニュースでは、「日本、戦争に勝利」「東海連邦防衛成功」「中央大陸人民共和国事実上敗北」といった見出しが並んでいた。悠介には、どれもしっくりこなかった。日本では四百二十六人が死んだ。二千八百七十人が負傷した。護衛艦が沈み、航空機が失われ、港が壊れた。食料配給は一日一八〇〇キロカロリー。ガソリンはほとんど手に入らない。東海連邦は都市と産業を焼かれた。アメリカも兵員と装備を失った。中央大陸人民共和国は、東海連邦を得るどころか自国の統治さえ危うくなった。
「アトラス」
『はい』
「勝者は?」
少し間があった。
『明確な勝者を特定できません』
「だよな」
悠介は窓の外を見た。昔より暗い街。走る車も少ない。スーパーでは明日の配給を待つ列ができている。人類には百倍賢いAIがある。そのAIが一粒の米、一リットルの燃料、一台のトラックまで効率よく配っている。それでも足りない。
計算では、何もないところから物を生み出せない。だから日本は、傷だらけの核融合炉を直した。十二万キロワットしか出ない。だがその十二万キロワットだけが、減り続ける世界の中で、新しく増えたものだった。そしてその火を使って、二つ目の火を作ろうとしている。
戦争には勝者がいなかった。それでも日本には、まだ未来を作るための火が残っていた。




