第十六話 もっとも守れる計画
《アトラス》が第一実証炉防護計画の演算を開始してから、結果が出るまでに三分四十七秒かかった。
普段なら長い。だが今回は自衛隊の防空システム、在日米軍の警戒情報、第一実証炉周辺の地形、人口分布、道路、避難所、発電所設備、航空機、艦艇、迎撃兵器、燃料、補給能力、さらに中央大陸人民共和国軍の推定戦力まで含めて計算している。削減されていたAI演算資源も緊急的に防衛へ振り向けられ、日本中の複数のAIが同じ問題を解いていた。
高瀬悠介は自宅の端末から、政府・自治体向けの限定画面を見ていた。市役所からも緊急招集がかかっている。だが出勤する前に、まず結果が表示された。
【第一実証炉防護計画 案A】
【推定炉防護成功率――九二・六%】
「高いな」
思わず口にした。
『はい』
「じゃあこれでいいんじゃないの?」
《アトラス》がそれに答えた。
『追加情報を表示します』
画面が切り替わった。
【周辺住民推定死傷者――大】
【自衛隊推定人的損失――大】
【民間インフラ損失――大】
【周辺市街地被害――許容】
悠介は最後の二文字を見た。
『炉防護成功率を最大化する条件では、周辺インフラの一部損失を受け入れる必要があります』
「どういう計画なんだ」
『詳細な軍事運用情報は表示できません』
「じゃあ分かる範囲で」
『第一実証炉周辺へ防空能力を集中し、他地域の防護を一部低下させます。また、炉への攻撃経路となる可能性が高い区域へ自衛隊戦力を重点配置します』
「炉の防衛に戦力を集中するのか……だけどそうするとどうなる?」
他地域の防護を一部低下。その言葉が悠介は気になった。
『避難時間が不足する地域があります。炉防護を最優先した場合、一部の避難支援資源を施設防護へ転用する必要があります』
「待て。人間を逃がす車とか人員まで炉に回すのか?」
『要求条件は「もっとも第一実証炉を守れる可能性の高い計画」です』
「だからって」
『私は要求条件に従って計算しました』
正しい。嫌になるほど正しい。
「炉が九二・六%で助かる代わりに、人的被害が増えるのか?」
『その可能性が高まります』
「どれくらい?」
『現時点の推定には幅があります』
「数字出して」
『公開可能な範囲に限定します』
表示された推定値を見て、悠介はしばらく何も言えなかった。少なくない。明らかに少なくない。
「これ、本当に一番いい計画なの?」
『第一実証炉を守るという単一目的においては、現時点で最も高い成功率です』
「単一目的なら……」
一年前の《アトラス》なら、これをそのまま「最適解」と呼んでいただろう。今は違う。答えは出している。だが、これが人間にとって正しいとは言っていない。
◇
午前三時過ぎ、市役所の危機管理室にはすでに職員が集まっていた。周辺自治体の一部には避難準備情報が出され、病院、高齢者施設、学校などから移送計画の確認が始まっている。日本全土で同じような対応が進んでいた。中央大陸人民共和国軍による攻撃はまだ始まっていない。しかし政府は、時間単位で状況が変わる可能性があると判断していた。
「炉周辺の自治体から応援要請」
「バスは出せるか?」
「市営は七台。民間から追加で四台」
「燃料は?」
「災害備蓄から出します」
「高齢者施設優先で」
悠介も席につく。
「アトラス、案Aって政府も見てる?」
『はい』
「採用するか?」
『決定されていません』
「自衛隊は?」
『代替案の作成を求めています』
「条件は?」
『人的被害を最小化した場合の計画です』
数分後、新しい結果が出た。
【第一実証炉防護計画 案B】
【推定炉防護成功率――五五・八%】
【周辺住民推定死傷者――案A比大幅減】
【自衛隊推定人的損失――案A比減】
「五五%……ほぼ半々じゃないか」
『その評価は概ね正しいです』
案Bでは住民避難を最優先し、重要な道路と輸送手段を避難用に残す。自衛隊も炉だけに集中せず、人口密集地域や他の重要インフラを広く守る。結果として人間は助かる。しかし第一実証炉へ向かう攻撃を防げる確率は下がる。
「これなら人的被害は減る」
『案Aよりは』
「だが炉は壊れるかもしれない」
『はい』
「炉が壊れたら、五年から九年遅れるんだよな」
『現在の推定では』
「その間に何人死ぬ?」
《アトラス》はすぐに答えなかった。
「計算できるだろ?」
『推定できます。ただし直接的な因果関係の特定は困難です』
「いいから」
画面に別の数字が出た。
【第一実証炉喪失時の長期影響推定】
【第二号炉建設遅延】
【工業電力不足継続】
【肥料生産回復遅延】
【淡水化設備増設遅延】
【合成燃料生産遅延】
【医療・物流・冷暖房制限長期化】
その下に、将来的な超過死亡の推定幅が表示された。悠介は眉をひそめる。
「多すぎない?」
『複数年にわたる全国規模の影響を含みます』
「じゃあ、今ここで人を守って炉を失ったら、後でもっと死ぬかもしれない?」
『その可能性があります』
「でも炉を守るために今いる人を死なせたら?」
『それも人命損失です』
「どっちが少ない?」
『前提条件によって変動します』
悠介は頭を抱えた。人命を優先しろ。普通なら、それで終わるはずだった。だが、その人命とは「今そこにいる人間」だけなのか。
一年後、電力不足で冷房を使えず死ぬ高齢者。
三年後、肥料不足で食料価格が上がり、十分に食べられない人。
五年後、医療設備が更新できず助からない患者。
それも人命だ。
◇
午前四時十二分。中央大陸人民共和国軍の長距離航空戦力が、日本方向へさらに接近したとの情報が入った。
【日本政府、対象地域へ国民保護警報】
【一部地域住民に屋内退避・避難指示】
【自衛隊、迎撃態勢へ移行】
市役所の空気が変わった。
「避難所開けて!」
「学校全部?」
「指定区域だけ。地下施設優先!」
「病院の患者移送は?」
「重症者は残す。電源の確保を再度確認!」
悠介も仕事へ戻る。今は核融合炉の哲学を考えている時間ではない。
「アトラス、市内の地下施設」
『収容可能人数を再計算しています』
「駅地下は?」
『一部区画利用可能ですが、非常用電源稼働時間は十一時間です』
地下の閉鎖空間に大量の避難民を収容する。明かりや空調だけでなく、換気、すなわち酸素の供給が重要となる。その限界が十一時間。もちろん外部からの電源が生きていれば非常用電源は必要ないが、その保証はない。
『燃料追加が必要です』
「どこから出す?」
『市営バス二台を運休すれば確保できます』
「避難輸送に使う」
『では道路補修用備蓄燃料を転用します』
また先送り。また別のものを削る。それでも今助けられる人間を助ける。十五分後、《アトラス》から別の通知が来た。
『自衛隊統合司令部より追加評価要請』
「今度は何?」
『案Aと案Bの比較です』
「お前ならどっちを選ぶ?」
『最終判断はできません』
「分かってる。評価は?」
『案Aは第一実証炉生存確率を最大化します。案Bは短期人的被害を抑制します』
「長期まで入れたら?」
『差は小さくなります』
「どっちの評価が上だ?」
『不確実性の範囲内です』
それが一番困る答えだった。
「つまり、どっち選んでも間違いとは言えない?」
『はい』
「じゃあ、人間は何を基準に選べばいい?」
『何を守りたいかです』
悠介は少し黙った。
「両方だよ」
『その回答では案Aまたは案Bを選択できません』
「分かってる」
でも、本当にそれしかないのか。
◇
午前五時。第一実証炉では運転停止が検討されていた。佐伯宗一郎は制御室に残っている。
「止めないんですか?」
悠介が通信で聞く。
『まだだ』
「攻撃来るかもしれないんですよ」
『炉を止めてもコンクリートの塊になるわけじゃない。壊されたら同じだ』
「でも職員は逃がせる」
『必要最低限だけ残す。残りは退避させてる』
「佐伯さんも逃げてください」
『俺は必要最低限だ』
「絶対違うでしょ」
『俺がそう決めた』
通信の向こうで、佐伯が笑った。
「案A、見ました?」
『見た』
「どう思いました?」
少し沈黙。
『嫌いだな。でも、分からなくもない』
「炉を守らないと未来の人が死ぬ」
『そうだ』
「じゃあ案A?」
『それも嫌だ』
「案B?」
『炉が半分近い確率でなくなる』
「じゃあどうするんです」
『知らん』
「技術者なのに」
『技術で決められることじゃない』
佐伯はしばらく黙った。
『なあ、高瀬』
「はい」
『この炉、何のために作った?』
「日本を立て直すためでしょう」
『もっと簡単に』
「電気を作る」
『違う』
「じゃあ何です?」
『人間を助けるためだろ』
悠介は黙った。
『人間助けるために作った機械を守るために、人間を大量に死なせる。それは何か違う』
「でも炉が壊れれば後で死ぬ人もいる」
『分かってる。だから困ってる』
「じゃあ……」
『だから二択にするなって話だ』
悠介は顔を上げた。
「二択?」
『九二%で炉を守って人を死なせるか、五五%まで落として人を守るか。なんでその二つから選ばなきゃならない』
「アトラスが計算したから」
『なら、もう一回計算させろ』
悠介は端末を見る。
「アトラス。聞いてたか?」
『はい』
「第三案は?」
『現在の要求条件では、案Aと案Bが代表的なパレート最適解です』
「何それ」
『一方を改善すると、他方が悪化する関係です』
「難しい言葉でできませんって言うな」
『できないとは述べていません』
「じゃあ探せ」
『条件を指定してください』
「炉も守る。人も守る」
『両方を最大化する解は存在しません』
「最大じゃなくていい」
言った瞬間、悠介は自分で気づいた。何度も同じことをやってきた。最大じゃなくていい。最適じゃなくていい。実行できればいい。
「九二%もいらない」
『はい』
「でも五五%も低すぎる。死傷者が最小じゃなくていい。でも案Aほど死なせたくない」
『はい』
「真ん中を取れって意味じゃないぞ」
『理解しています』
「別の方法を探せ。今ある二つの案を混ぜるんじゃなくて、前提を変えろ」
佐伯が通信の向こうで言った。
『そうだ。いつも俺たちがやってきただろ。部品がないなら設計を変えた。機械がなければ工程を変えた。今度は作戦を変えろ』
《アトラス》はしばらく答えなかった。
『現在の防衛資源だけでは、改善幅は限定的です』
「じゃあ防衛資源以外も使え」
『具体的には?』
「分からない。だからお前に聞いてる」
『目的を再定義します』
画面に文字が出た。
【第一実証炉防護計画 再探索】
【目標1――炉防護成功率の維持】
【目標2――短期人的損失の抑制】
【追加条件――既存防衛資源配分以外の選択肢を探索】
【許容――非軍事インフラ転用/施設運用変更/時間軸変更/一時的機能喪失】
「それでいい」
『演算を開始します』
再び計算が始まった。
◇
答えが出るまで、今度は十二分以上かかった。その間にも事態は動いた。中央大陸人民共和国軍の一部航空戦力が警戒線へ接近。自衛隊機が緊急発進。アメリカ軍も航空戦力を展開。東海連邦方面では大規模な戦闘が始まり、中央大陸人民共和国軍の動きが日本方面と連動している可能性が高まる。第一実証炉周辺では住民避難が続いていた。
十二分四十一秒後、《アトラス》から通知が来た。
【第三案を生成しました】
「炉の防衛成功率は?」
【推定第一実証炉防護成功率――七四・三%】
「案Aよりかなり落ちたな。人的被害は?」
【推定人的損失――案A比六一%減】
「案Bより?」
『増加します』
「何が違う?」
『第一実証炉の運転を段階的に停止し、炉内の重要制御機器および交換可能な高価値部品を地下保管施設へ退避します』
「炉そのものを守るんじゃない?」
『完全な炉体防護から、再建可能性を含む機能防護へ目的を変更します』
悠介は画面を見た。
『また、周辺の大型変電設備を一部切り離し、攻撃による連鎖損傷を防止します。消防・工事用車両を分散配置し、攻撃直後の復旧能力を確保します』
「つまり、多少壊される前提?」
『はい』
「防空は?」
『炉のみへ集中しません。住民地域との中間配置とし、複数目標を防護します』
「それで七四%?」
『第一実証炉が短期間で再稼働可能な状態を維持できる確率です』
「無傷で残る確率は?」
『五八・九%です』
「低いな」
『はい』
「でも壊れても直せる?」
『一定範囲の損傷であれば』
佐伯が通信の向こうで笑った。
『なんだ。いつものやり方じゃないか』
「壊れないようにするんじゃなくて、壊れても直せるようにする」
悠介も笑った。
「核融合炉までそこに戻るのか」
『過去の運用実績を反映しました。他にも周辺住民の避難を案Bと同程度まで進めるため、炉防護部隊の一部到着を遅らせます。その代わり、遠隔監視装置と無人設備を追加投入します』
「防護率落ちる理由はそれか。自衛隊の被害は?」
『案Aより低下します。ただし案Bより高いです』
「全部中間?」
『いいえ。単純な中間案ではありません。評価対象を「炉体の無傷維持」から「核融合発電能力の早期復旧」へ変更したことで、新しい選択肢が生じました』
悠介はその説明を聞いて、少し納得した。九二%で守る。五五%で守る。その間を取ったわけではない。
「守る」の意味を変えた。無傷で残す必要はない。壊れても、直せればいい。まさに、この国がずっとやってきたことだった。
「これを採用できる?」
『最終判断は政府および自衛隊が行います』
「お前の推奨案だろ」
少し間があった。
『現在指定された複数目標に対して、妥当な案と評価します』
「妥当、か」
『はい』
◇
第三案はすぐに自衛隊統合司令部へ送られた。だが、採用は即決されなかった。
「七四%しかない」
防衛側から当然の反論が出た。
「第一実証炉は国家再建の最重要施設だ。九二%を捨てるのか」
一方で別の意見もあった。
「案Aでは人的被害が大きすぎる。炉を守るための作戦として政治的にも受け入れられない」
「しかし炉喪失で将来の犠牲者が増える」
「将来の推計で現在の住民を犠牲にしていいのか」
「では五年後の国民は人間ではないのか」
結論は簡単には出ない。最後に政府側の責任者が、《アトラス》へ質問した。
「第三案は最も炉を守れる計画ではないな?」
『はい』
「最も人命を守れる計画でもない」
『はい』
「では、なぜこれを出した?」
『要求が変更されたためです』
「どう変更された?」
『炉も人も、可能な限り両方守る計画を求められました』
「両方最大にはできない」
『はい。最大である必要はないと指定されました』
会議室が静かになった。しばらくして、自衛隊側の責任者が言った。
「第三案を基礎にする」
最終決定だった。
「ただし現場判断で修正を許可する。状況が変われば防護資源も動かす」
『了解しました』
悠介はその決定を《アトラス》から聞かされた。九二・六%を捨てた。五五・八%も選ばなかった。
七四・三%。数字だけなら、中途半端だった。だが、今までの日本はずっと中途半端な数字で生き延びてきた。
七一%で回るポンプ。六割しか出ない核融合炉。数か月しか持たない部品。完璧ではない計画。それでも使える。それでも人を助けられる。
◇
午前六時三十一分。政府から新たな緊急速報が出た。
【中央大陸人民共和国軍の一部航空戦力、日本防空識別圏へ接近】
【自衛隊、迎撃態勢を継続】
【対象地域住民は避難指示に従ってください】
第一実証炉では停止作業が始まった。パルス頻度を落とし、発電出力が下がる。
【正味出力――二二万キロワット】
【一五万】
【八万】
【停止シーケンス進行】
同時に、技術者たちが交換可能な制御装置、記録媒体、特殊センサー、予備部品を運び出していく。佐伯もようやく退避することになった。
「今度こそ逃げますよね?」
『追い出された。嬉しそうだな』
「当たり前です」
『炉止めるの、もったいないな』
「また動かせばいいでしょう」
佐伯は少し黙ったあと笑った。
『そうだな』
悠介はその言葉を聞きながら、画面を見る。
【第一実証炉――停止】
日本がようやく作った最初の火が消えた。だが終わったわけではない。止めただけだ。壊れても直す。失っても、残ったものから作り直す。そうやってここまで来た。
そして《アトラス》の画面には、防護計画の最終評価が表示されていた。
【第三案】
【第一実証炉機能維持・早期復旧成功率――七四・三%】
【人的損失――案A比六一%減】
【評価――最適ではありません】
その下に、一行が追加された。
【しかし現時点では妥当】
悠介は画面を見つめた。あと必要なのは、数字ではなかった。その七四・三%へ、人間が踏み込むことだった。




