第十四話 六割
第一実証炉の初回点火は、予定より七日前倒しされた。
通常なら避ける判断だった。統合試験で見つかった細かな異常はまだ残っている。磁場コイル三番系統の冷却効率は設計値より四・六%低く、圧縮電源六基のうち一基では出力変動がわずかに大きい。真空容器の接合部にも再点検が必要な箇所が二つあった。それでも《アトラス》は、すべてを点火中止が必要な致命的不具合とは評価しなかった。
『初回点火成功確率は、通常工程を完了した場合より低下します』
「どのくらい?」
制御室で佐伯宗一郎が聞く。
『単一パルスで核融合反応を確認できる確率は七四%から六六%へ低下します』
「壊れる可能性は?」
『重大設備損傷確率は二・八%から四・一%へ上昇します』
「四%か」
「高くないですか?」
高瀬悠介が口を挟むと、佐伯は画面から目を離さなかった。
「高いよ」
「じゃあ待ったほうが」
「待てば戦争も待ってくれるならな」
中央大陸人民共和国軍の追加部隊は東海連邦周辺へ集結を続けていた。日本近海でも無人偵察機の活動が増え、南西地域では自衛隊の警戒態勢が引き上げられている。第一実証炉そのものへの直接攻撃兆候は確認されていない。それでも政府は、情勢が今より良くなる保証はないと判断した。
「アトラス」
『はい』
「四・一%を下げる方法は?」
『点火延期です』
「それ以外なら?」
『初回投入燃料を減らし、目標圧縮率を低下させる方法があります。設備損傷確率は約三・三%まで低下します。ただし核融合反応量も低下します』
「じゃあそれでいく」
一人の研究者が眉をひそめた。
「最初から性能落とすんですか?」
「いきなり壊したくないからな」
『初回試験の目的は最大出力ではありません。安定した核融合反応と制御成立の確認です』
初回点火まで、あと六時間。炉建屋では最後の確認作業が続いていた。通常の発電所なら完成後に行われる検査の一部まで、今回は点火後へ回されている。もちろん安全に関わる部分は省略できない。しかし、性能確認や長期耐久試験のいくつかは後回しにされた。
日本がこの一年やってきたのと同じだった。全部揃ってから始めるのではない。今必要なところまで揃ったら、まず動かす。
◇
午後四時十二分。制御室の大型画面に、最終シーケンスが表示された。
【第一実証炉 初回核融合点火試験】
【真空系――正常】
【冷却系――正常】
【磁場コイル――許容範囲】
【圧縮電源――正常】
【燃料供給系――正常】
【AI制御――接続】
制御室には四十人以上が集まっていた。研究者、メーカー技術者、政府担当者、電力会社、自衛隊の警備責任者。その後方に悠介もいる。
「俺、なんでここにいるんですかね」
悠介が小声で言う。
「今さら言うな」
佐伯が答えた。
「核融合の知識ないですよ」
「現場で『できることをやれ』って言い続けた代表だと思っとけ」
「そんな代表嫌ですよ」
『高瀬さんの意見は設計判断の一部に影響しています』
「お前まで乗るな」
笑いが起きた。緊張していた人間たちの肩が、一瞬だけ下がった。時計が進む。
【点火シーケンス開始まで――60秒】
会話が止まった。大型画面に数値が並ぶ。燃料量、真空度、磁場強度、冷却流量、第一壁温度、圧縮電源状態。悠介にはほとんど意味が分からない。それでも数字の色が緑であることだけは分かった。
【30秒】
佐伯が腕を組んだ。
【10秒】
誰も動かない。
【5】
【4】
【3】
【2】
【1】
『磁場形成開始』
《アトラス》の声が響いた。
『燃料投入』
『プラズマ生成』
『圧縮開始』
画面上の数値が一斉に跳ね上がった。悠介には何が起きたのか分からなかった。ほんの一瞬だった。
【核融合反応検出】
誰も声を出さなかった。
「……出た?」
悠介が最初に言った。
『核融合反応を確認しました』
次の瞬間、制御室に歓声が上がった。誰かが拍手し、誰かが机を叩き、隣同士で握手する。佐伯だけは画面を見続けていた。
「まだだ」
その一言で周囲が少し静かになる。
「反応しただけだ。発電してない」
『その通りです』
「次だ」
『第二パルス準備を開始します』
最初の反応は〇・〇〇三秒にも満たなかった。燃焼と呼ぶには短すぎる。しかし炉は壊れていない。磁場も維持された。冷却系も正常。《アトラス》は第一パルスのデータを解析し、次の燃料量と圧縮タイミングを即座に変更した。
『第二パルスでは圧縮開始を〇・一八ミリ秒早めます』
「理由は?」
『第一パルスでプラズマ中心位置が想定より〇・七ミリメートル偏位しました』
「補正できるか?」
『試します』
「やれ」
第二パルス。核融合反応。第一回より大きい。
第三パルス。さらに大きい。
第四パルスで、磁場コイル温度が上昇した。
【警告】
「ここで止めるか?」
『まだ許容範囲です。第五パルスの磁場強度を二・一%低下させます』
「出力は落ちるぞ」
『設備保護を優先します』
第五パルス。
第六。
第七。
一回ごとに条件が変わった。プラズマが右へ偏れば次は左へ戻す。温度が上がりすぎれば磁場を落とす。燃料が残れば投入量を減らす。圧縮が早ければ遅らせる。炉は同じ核融合を繰り返しているのではなかった。毎回違う核融合をしながら、自分が安定する場所を探していた。その制御を、人間にはできない。
「これがアトラスが必要な理由か」
悠介が呟く。佐伯が頷く。
「一回ごとの燃焼が微妙に違う。昔の制御じゃ追いつかなかった」
『第八パルス準備完了』
「考えるの早すぎるだろ」
『必要です』
第八。
第九。
第十。
そして十二回目。
【核融合エネルギー――投入エネルギーを上回りました】
制御室が再びざわめいた。
「超えた?」
『炉心反応部分では、はい』
「じゃあ発電できる?」
『まだ補助設備消費を含めると正味ではマイナスです』
「そこまで行かないと駄目なのか」
『発電所としては』
喜んでは止められ、喜んでは次の壁が出る。だが誰も嫌な顔をしなかった。ここまで来た。
◇
初回試験は三時間続いた。最大連続パルス数は二十七。一度、冷却系の振動異常で緊急停止。一度、燃料供給弁の応答遅延で停止。どちらも修理可能だった。初日は発電に成功しなかった。
【総合評価――核融合反応成立】
【正味発電――未達】
ニュースでは「日本、核融合反応に成功」と大きく報じられた。それでもSNSではすぐに、
「結局発電してないじゃん」
「成功詐欺」
「何兆円使ったんだ」
「これで夢のエネルギー?」
そういった言葉も流れた。悠介は帰りの電車でそれを見た。
「厳しいな」
『期待値が高いためです』
「失敗じゃないのに」
『初回試験目標は達成しています』
「じゃあ次は?」
『明日、制御条件を変更して再試験します』
翌日は、最初から反応した。その次も。三日目には五十パルス連続。五日目には百二十パルス。一週間後には、補助設備を含めた総消費電力と核融合由来の発電量がほぼ同じになった。
【正味発電量――プラス〇・八%】
制御室で誰かが笑った。
「八千万円の発電所なら怒られる数字だな」
佐伯が答える。
「八千億でも怒られる」
「じゃあ失敗?」
「一ワットでも余ったなら発電所になった」
《アトラス》が訂正する。
『実際には一ワットではありません』
「例えだよ」
二週間後。【正味電気出力――七万キロワット】
三週間後。【正味電気出力――十八万キロワット】
そこから伸びが鈍った。磁場コイルの限界。第一壁の温度。圧縮電源の出力変動。冷却能力。どこかを上げると、別の何かが限界に近づく。当初目標は四十八万キロワットだった。しかし三十万を超えたところで、炉は何度も停止した。
「三十三万が壁か」
佐伯が画面を見る。
『現行構成では、三十五万キロワット以上で第一壁温度上昇率が急増します』
「冷却増やせない?」
『補助電力消費が増加し、正味出力増加分の多くを失います』
「磁場を下げてみるか?」
『反応量が低下します』
「材質は?」
『第一号炉では変更困難です』
研究者たちが黙った。
「設計ミス?」
一人が言った。
『いいえ。代替材料を使用したことによる制約です』
「分かってた?」
『発生可能性は予測していました。実測値は予想より悪いです』
「じゃあ四十八万は無理か?」
『現状では困難です』
その空気だけは、久しぶりに重かった。一年以上かけた。日本中から材料を集めた。工場を止め、AIの電力まで削り、使える設備をばらして作った。ようやく動いた。でも予定の性能が出ない。佐伯が腕を組んだ。
「壊さず、今すぐ安定運転できる最大値は?」
『条件を再計算します』
十数秒。以前の《アトラス》なら一瞬だった計算にも、今は少し時間がかかる。削られた演算能力の中で、それでも核融合炉制御は最優先で処理されている。
『提案します』
【安定連続運転目標――二九万七千キロワット】
悠介が数字を見る。
「三十万弱」
『はい』
「設計四十八万だったよな」
『はい』
「六割くらい?」
『六一・九%です』
誰も何も言わなかった。
◇
翌朝、長時間連続発電試験が始まった。目標は二九万七千キロワット。パルス頻度を抑える。磁場強度も最大値から落とす。冷却系にも余裕を持たせる。つまり、できる限り出力を上げる試験ではない。壊れずに動き続ける場所を探す試験だった。
【正味出力――一〇万キロワット】
【一五万】
【二〇万】
【二五万】
【二八万】
温度が上がる。《アトラス》がパルス間隔を微調整する。
【二九万】
【二九万五千】
【二九万七千】
そこで止まった。出力を上げるのではなく、維持する。一時間。三時間。六時間。十二時間。途中で一度、燃料供給量が変動した。出力が一・八%落ちたが、《アトラス》が数パルスで補正した。
二十四時間。【連続正味発電――24時間達成】
拍手が起きた。だが佐伯はまだ止めない。
「試験はもう一日だ」
四十八時間、炉は動いた。出力は二十九万七千から三十万一千キロワットの間を行き来しながら、止まらなかった。
【連続正味発電――48時間達成】
【平均正味電気出力――二九万八千キロワット】
【現行設計目標比――六二・一%】
『通常停止シーケンスへ移行します』
パルス頻度が落ちる。核融合反応が小さくなり、やがて止まった。制御室は静かだった。喜んでいいのか、悔しがるべきなのか、誰も少し分からなかった。設計目標四十八万キロワット。結果は二十九万八千。六割。
悠介は画面を見た。
「六割か……」
《アトラス》は少しの間も置かなかった。
『六割も出ています』
制御室が静まり返った。佐伯がゆっくり笑った。
「そうだな」
誰かが拍手した。一人。二人。それが広がった。今度の拍手は、初回核融合反応のときより大きかった。研究者の一人が目を拭いている。メーカーの技術者が隣の人間と握手していた。佐伯は何度も頷きながら画面を見ている。
「三十万キロワットあれば何ができる?」
悠介が聞く。
『優先配分によって異なります』
「第二号炉を作れる?」
『必要産業のすべてを同時に稼働させるには不足します。しかし製鉄、精錬、工作機械、化学工業を時間帯ごとに優先運用すれば、第二号炉建設能力を大幅に改善できます』
「じゃあ目的は達成できたのか?」
『第一号炉の主要目的の一つは達成可能と評価します』
「家庭にも少し回せるか?」
『当面は工業利用を優先することを推奨します』
「だよな」
『ただし電力需給が厳しい時間帯には、既存発電所の燃料消費削減にも寄与します』
「つまり石油もLNGも節約できる」
『はい』
「肥料は?」
『第二段階で電力供給可能です』
「水」
『淡水化設備の拡張が可能です』
「AI」
『現在削減中の演算資源の一部を回復できます』
「お前も性能を戻したいか?」
『必要性によります』
「相変わらずだな」
佐伯が横から言った。
「いいんだよ。それで」
第一実証炉は、世界を救わなかった。日本中の停電も消えていない。ガソリン配給も続く。スーパーの商品も増えていない。戦争も終わっていない。それでも、その日初めて日本は、減っていくものを分ける以外の方法で、何かを増やした。
電気だ。輸入船が運んできた燃料でもない。地下から掘り出した石炭でもない。外国から買った天然ガスでもない。日本中から集めた古い材料と、壊れかけた工場と、人間の技術と、AIの計算で作った炉が、自分で電気を生み出した。
◇
第一実証炉の正味発電成功は、その日の夜に発表された。
【日本政府、新型核融合炉による連続正味発電成功を発表】
【平均電気出力約三〇万キロワット】
【世界初の実用規模核融合発電と発表】
国内では久しぶりに、純粋に明るいニュースとして扱われた。街頭の大型画面の前に人が集まり、拍手する者までいた。
「これで停電なくなる?」
「まだ一基だって」
「でも増やせるんだろ?」
「二号炉作るって」
「本当に日本は助かるんじゃないか?」
期待はすぐに膨らんだ。政府は何度も「一基で日本全体の電力問題が解消するものではない」と説明した。それでも、人間は久しぶりに先へ進む数字を見た。
マイナス一〇%。
マイナス二〇%。
前年比減。
在庫減少。
輸入減少。
そんな数字ばかりだった世界で、初めて【新規電源 +29.8万kW】という数字が現れた。日本全体から見れば、とても小さい。だがゼロではない。そして二基目を作れば増える。三基目なら、もっと増える。
悠介は帰宅途中の駅でニュースを見ていた。
「六割か」
『設計要求を満たしていないという意味では、未達です。しかし目標性能未達と、技術成立は同時に成立します』
「そういうもんか」
『人間から学びました』
悠介は少し笑った。
「そこ、自分から言うようになったな」
『事実です』
そのとき、ニュース画面が切り替わった。
【中央大陸人民共和国政府、日本の核融合発電成功について「人類共有の成果となるべき」と声明】
【同国政府、日本に技術独占を行わないよう要求】
【中央大陸人民解放軍、東海連邦方面への追加部隊展開を継続】
さらに数分後、《アトラス》から別の通知が届いた。
【政府限定情報】
【中央大陸人民共和国軍の情報収集活動に変化】
『第一実証炉周辺に対する偵察活動が増加しています』
「成功したから?」
『その可能性が高いです』
「攻撃がきそうか?」
『現時点では不明です』
悠介は画面を見た。炉は動いた。六割しか出なかった。それでも十分だった。日本にとっても、そしておそらく中央大陸人民共和国にとっても。
人類が欲しかった未来が、本当に作れるものだと証明されてしまった。それは希望だった。同時に、世界で最も価値のある標的が一つ生まれた瞬間でもあった。




