4話:熱病の子供
夜の冷え込みは厳しかった。
昼間に少しだけ柔らかくなった空気も、日が落ちれば一気に牙を剥く。
痩せた家々の隙間を風が吹き抜け、古い木壁を軋ませていた。
リードル村には静かな咳が広がっている。
乾いた咳。
弱った肺。
栄養不足で痩せ細った身体。
病は、この村の日常だった。
その夜。
ピーターは必死に走っていた。
「ミネルバ姉ちゃん!」
泣きそうな声だった。
村の小道を駆け抜け、小さな治療小屋へ飛び込む。
中ではミネルバが薬草を整理していた。
「ピーター?」
「リナが……! リナが苦しいって……!」
ミネルバの表情が変わる。
リナ。
ピーターの妹。
まだ七歳だった。
痩せた身体。
栄養不足。
以前から咳が続いていた。
ミネルバはすぐ立ち上がる。
「案内して」
ピーターは頷き、再び走り出した。
その後ろから、別の足音が続く。
グロマールだった。
ミネルバが振り返る。
「……来るんですか?」
「病人だろ」
短い返答。
だが、それだけで十分だった。
ピーターの家は村の端にある。
古い木造。
壁の隙間から風が入り込み、室内は冷えていた。
寝台では、小さな少女が荒い呼吸を繰り返している。
顔は赤い。
汗も酷い。
呼吸のたびに胸が苦しそうに上下していた。
「リナ……!」
ピーターが駆け寄る。
リナはうっすら目を開けた。
「お……にい、ちゃん……」
声に力がない。
ミネルバが額へ触れる。
熱い。
明らかに危険な状態だった。
「熱病……」
村では珍しくない。
だが子供には致命的だった。
ミネルバは薬草袋を開く。
しかし表情は暗い。
足りない。
薬草が圧倒的に不足している。
栄養もない。
このままでは厳しい。
ピーターが震える声で言う。
「た、助かるよね……?」
ミネルバは答えられなかった。
嘘をつけない。
だが諦めるとも言えない。
その時だった。
グロマールがリナの横へ座る。
そして静かに目を閉じた。
「……水を」
ミネルバが慌てて桶を差し出す。
グロマールは水へ指を入れた。
淡い光。
浄化。
水の中の不純物が消えていく。
さらに水属性魔法。
温度が変わる。
冷たすぎず、熱すぎない。
身体へ負担をかけない温度へ調整されていた。
ミネルバが驚く。
「そんな細かい制御……」
普通、水属性魔法は水を生む程度。
ここまで精密な温度調整を行うには、異常な魔力操作技術が必要だった。
グロマールはリナの額へ手を置く。
静かに魔力が流れ始めた。
ミレナとセレスも、騒ぎを聞いて家へ入ってくる。
その瞬間、空気が変わった。
「……これ」
セレスが目を細める。
魔力循環。
しかも異常な規模。
グロマールの体内で膨大な魔力が循環している。
周囲から吸収し。
流し。
整え。
損失なく回している。
実質無限魔力。
その理論を、目の前の男は当たり前のように成立させていた。
グロマールはリナの身体へ魔力を流す。
光属性。
癒し。
だが単純な治癒ではない。
熱。
血流。
呼吸。
内臓。
全てを調整している。
「……病を抑えてる?」
セレスが呟く。
「違う」
グロマールが答える。
「循環を戻してる」
リナの身体は弱っている。
栄養不足。
冷え。
汚れた水。
疲弊。
それらが積み重なり、身体の流れを壊していた。
だから戻す。
本来の状態へ。
それだけだった。
ミネルバは息を呑む。
こんな治療は見たことがない。
普通の治癒魔法は傷を塞ぐ程度。
病にここまで深く干渉できる魔導士など、王都でも一握りだ。
しかもグロマールは疲弊していない。
魔力切れの兆候がまるで無かった。
ピーターは妹の手を握っている。
震えていた。
怖いのだ。
失うことが。
この村では、それが珍しくない。
病は突然人を奪う。
昨日まで笑っていた子供が、翌朝には冷たくなっている。
そんな現実が普通だった。
だからピーターは知っている。
助からないかもしれないことを。
グロマールは静かに言う。
「水を替えろ」
ミネルバが反応する。
「はい」
「寝具も乾燥させる」
「でも薪が……」
「土属性で炉を作る」
マイクが顔を上げた。
「そんなことできるのか?」
グロマールは答えない。
代わりに地面へ手を触れた。
土が動く。
石が組み上がる。
小型の炉が形成された。
さらに火属性。
小さな火が灯る。
村人たちが目を見開く。
複合魔法。
しかも一瞬。
「……なんでもありかよ」
マイクが呟く。
グロマールは冷静だった。
「環境を整えろ」
その声が部屋に響く。
「病だけ治しても意味がない」
ミレナが眉を寄せる。
「意味がない?」
「また倒れる」
グロマールはリナを見る。
「寒い。汚い。栄養が足りない。水が悪い」
そして周囲を見る。
古い家。
湿った空気。
薄い毛布。
全部が病を育てていた。
「病は偶然じゃない」
静かな声だった。
「環境が作る」
その言葉に、ミレナは何も言えなくなる。
この村では、病は運だった。
貧困は仕方ないものだった。
しかしグロマールは違う。
原因を見る。
構造を見る。
だから、変えようとする。
「……どうしてそこまで分かるの」
ミレナの問い。
グロマールはリナの呼吸を確認しながら答えた。
「何度も見てきた」
「他の村でも?」
「ああ」
その声には感情が少なかった。
けれど、重みがあった。
数え切れないほど見てきたのだろう。
滅びる村を。
死ぬ子供を。
壊れた環境を。
だからグロマールは知っている。
気合では人は救えない。
必要なのは循環。
食料。
水。
衛生。
教育。
それら全部だと。
時間が過ぎていく。
やがて、リナの呼吸が少し落ち着いた。
熱も下がり始める。
ピーターが目を見開いた。
「ね、熱が……!」
ミネルバも驚いていた。
こんな速度で状態が改善するなど異常だった。
グロマールはゆっくり手を離す。
「今夜は越える」
ピーターの目から涙が溢れた。
「……ありがとう……ありがとう……!」
グロマールは頷くだけだった。
大げさに慰めない。
誇らしげにもならない。
ただ必要なことをしただけ。
その姿が、逆にピーターの胸へ深く刺さった。
ミレナはその横顔を見る。
強い。
異常なくらい。
なのに。
押し付けがましさがない。
「……なんで、そんなに助けるの」
グロマールは少しだけ考える。
そして答えた。
「死ななくていいからだ」
それは単純な言葉だった。
だが、ミレナには衝撃だった。
この村では、死は近い。
仕方ないもの。
耐えるしかないもの。
そう思っていた。
けれどグロマールは違う。
防げる死なら防ぐ。
救えるなら救う。
そのために環境を変える。
その考え方自体が、ミレナには新しかった。
セレスが静かにグロマールを見る。
「……本当に、村を変えるつもりなのね」
グロマールは否定しない。
「変わるのは村人だ」
また同じ答えだった。
「俺は循環を作るだけだ」
ピーターは妹の寝顔を見ながら、その言葉を聞いていた。
循環。
まだ意味はよく分からない。
でも。
この人が来てから。
井戸が綺麗になった。
水が変わった。
病が少し遠くなった。
妹が助かった。
それだけは確かだった。
外では風が吹いている。
灰色だった村に、ほんの少しだけ熱が戻り始めていた。




