37話:視線
朝。
まだ陽が完全に昇り切る前の村を、冷たい空気が流れていた。
水路の水音。
遠くで鳴る鍛冶場の槌音。
家畜の声。
人が生きている音が、村全体に広がっている。
ミレナは井戸の前で桶を持ちながら、ぼんやりと前を見ていた。
視線の先には、グロマールがいる。
彼はいつものように静かだった。
誰より早く起き。
誰より先に畑を見て。
誰より先に村を回る。
特別なことはしない。
怒鳴らない。
威張らない。
けれど、気づけば皆が彼を見て動いている。
「……また見てる」
背後から声がした。
ミレナが肩を震わせる。
振り向くと、セレスが呆れた顔で立っていた。
「な、何をよ」
「グロマール」
「見てない」
「見てた」
即答だった。
ミレナは顔を逸らす。
セレスはため息をついた。
「最近ずっとそう」
「気づいてないと思ってる?」
「別にそんな……」
言葉が弱い。
昔のミレナならもっと強く否定した。
でも今は違う。
自分でも分からないからだ。
なぜ視線を追ってしまうのか。
なぜ気づくと探しているのか。
それが分からない。
グロマールは畑の土を触り、水路を見て、倉庫の前で何かを確認している。
いつも通り。
本当にいつも通り。
それなのに、目が行く。
セレスが隣に立つ。
「分かりやすい」
「うるさい」
「顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
ミレナは桶を持って歩き出す。
逃げるように。
セレスは小さく笑った。
昼。
食堂では新しく焼かれたパンの匂いが広がっていた。
以前の固い黒パンではない。
ふわりと柔らかい。
酵母。
発酵。
保存。
全部が改善された結果だった。
ジミーが得意げに言う。
「もうその辺の町より上手いぞ」
「調子に乗るな」
セレスが冷静に返す。
「でも美味しいです」
ミネルバが微笑む。
子供たちが夢中で食べている。
笑い声が絶えない。
マイクが肉を頬張りながら笑う。
「最近マジで飯がうめぇ」
「筋肉つくわこれ」
実際、村の若者たちはかなり変わっていた。
身体が大きい。
背が伸びた。
肩幅も違う。
栄養状態の改善は露骨だった。
以前は痩せ細っていた少年たちが、今では逞しくなり始めている。
女たちも同じだった。
顔色。
肌。
髪。
全部が変わっている。
健康は美しさを作る。
それを、この村は証明していた。
ミレナはパンを配りながら、また視線を動かしてしまう。
グロマールを探していた。
彼は食堂の隅で、帳簿を見ている。
相変わらず食事より先に仕事。
セレスが小声で言った。
「また見てる」
「……」
「もう隠す気ないでしょ」
ミレナは無言でパンを押し付けた。
セレスが笑う。
「痛い」
「黙って」
だが、セレスは分かっていた。
ミレナ自身が、一番困っている。
恋を知らないわけじゃない。
でも、“頼る”を知らない。
甘えるを知らない。
ずっと自分で抱えてきた。
村。
責任。
死。
全部。
だから今、自分が誰かを求め始めていることに戸惑っている。
午後。
グロマールは水路沿いを歩いていた。
後ろから足音がする。
振り返ると、ピーターだった。
「グロマールさん!」
「なんだ」
「南側の畑、水量少し落ちてます」
「確認する」
二人はそのまま歩いていく。
ミレナは遠くからその姿を見ていた。
セレスがまた隣に来る。
「本当にずっと見てる」
「そんなに?」
「自覚ないの?」
ミレナは少し黙った。
ある。
自覚はある。
最近ずっとそうだ。
姿が見えないと、少し不安になる。
声を聞くと安心する。
怪我をすると腹が立つ。
誰かに囲まれていると気になる。
意味が分からない。
セレスがぽつりと言う。
「好きなんでしょ」
ミレナが固まる。
数秒止まった。
「……違う」
「反応遅い」
「違うって」
「じゃあなんで探すの?」
「それは……」
答えられない。
セレスは少しだけ真面目な顔になる。
「ミレナ」
「環境が変わると、人も変わる」
「……」
「前のあなたは、“生き残る”だけだった」
「恋愛する余裕なんて無かった」
ミレナは静かに聞いていた。
「今は違う」
「安心できる場所がある」
「死なない未来が見えてる」
「だから、人を好きになる余裕ができた」
その言葉は、妙に胸に入った。
ミレナは視線を落とす。
昔の自分を思い出す。
弟を失った日。
何も守れなかった日。
泣く暇すら無かった。
生きるしかなかった。
今は違う。
夜に眠れる。
食べられる。
笑える。
未来を考えられる。
それは全部、グロマールが作った環境だった。
夕方。
訓練場でマイクたちが鍛錬している。
汗を流しながら笑っている。
以前のような殺気立った空気ではない。
成長する楽しさがある。
グロマールはその様子を静かに見ていた。
ミレナはまた彼を見ていた。
自然に。
無意識に。
セレスが呆れる。
「もう病気ね」
「病気じゃない」
「重症」
「セレス」
「はいはい」
だが、その顔は優しかった。
親友が変わったことを、彼女は嬉しく思っている。
昔のミレナは、ずっと張り詰めていた。
今は違う。
柔らかい。
笑うようになった。
困るようになった。
照れるようになった。
人間らしくなった。
夜。
村は静かな灯りに包まれていた。
ミレナは家の前に座っていた。
遠くでグロマールが歩いている。
ランプの光を受けながら。
静かな背中。
誰より強いのに。
誰より偉そうじゃない。
誰より村を変えたのに。
自分を英雄だと思っていない。
その姿を見ていると、胸が苦しくなる。
理由は分からない。
でも、目が離せない。
グロマールがこちらを見る。
目が合った。
ミレナの心臓が跳ねる。
「どうした」
普通の声。
それだけなのに。
「……な、何でもない」
グロマールは少しだけ彼女を見る。
「体調悪いか」
「違う!」
声が大きくなる。
グロマールは首を傾げた。
本気で分かっていない顔だった。
ミレナは顔を覆う。
「もう……」
「なんだ」
「なんでもないってば……」
グロマールはそれ以上追及しない。
そのまま歩いていく。
ミレナはまた、その背中を目で追っていた。
気づけば。
自然に。
何度も。
何度も。
視線が、彼を探していた。




