29話:手
朝の空気は冷えていた。
夜明け前の村。
まだ太陽は山を越えていない。
水路には薄い霧が漂い、静かな水音だけが響いている。
村人たちは少しずつ早起きになっていた。
畑が増えた。
水路が完成した。
仕事が増えた。
だが、不思議と誰も不満を言わない。
以前の仕事は「生き延びるため」だった。
今の仕事は「明日を良くするため」だった。
それだけで、人は動ける。
グロマールは水路沿いを歩いていた。
足を止める。
地面を見る。
鑑定。
土壌水分量。
流速。
魔力濃度。
全てが頭の中に並ぶ。
昨日より水流が安定している。
下流まで均一に流れていた。
農地の含水率も改善。
数値は良好。
干からびていた畑は、確実に変わり始めていた。
食料充足率の予測も上昇している。
今年。
この村は初めて「飢えない可能性」を持ち始めていた。
その時だった。
遠くから怒鳴り声が聞こえる。
「ミレナ!」
マイクの声。
グロマールが視線を向ける。
村の外縁部。
土壁の補強工事をしている場所だった。
グロマールは走る。
風。
身体強化。
筋肉強化。
地面を蹴る音が変わる。
数秒で現場に到着した。
土壁の一部が崩れていた。
崩落。
その下で、ミレナが片膝をついている。
右腕を押さえていた。
周囲には村人。
マイク。
ピーター。
セレス。
皆の顔が青い。
ミレナは歯を食いしばっていた。
「……平気」
「別に折れてない」
強がりだった。
グロマールは近づく。
ミレナの腕を見る。
血。
裂傷。
腫れ。
内部損傷。
鑑定。
骨は折れていない。
しかし筋繊維の損傷が大きい。
放置すれば後遺症が残る。
ミレナは顔をしかめる。
「そんな顔しなくても大丈夫」
「動ける」
グロマールは即答した。
「動くな」
その声は静かだった。
しかし逆らえない。
マイクが悔しそうに地面を蹴る。
「俺が先に気づいてれば……!」
セレスが冷静に周囲を見る。
「まず人を離して」
「空気悪くなる」
「ミレナが余計に無理するから」
村人たちが少し下がる。
ミレナは苦笑する。
「……そんな大げさじゃ」
グロマールが腕を取る。
ミレナの身体が少し強張った。
熱。
鼓動。
距離。
以前の彼女なら振り払っていた。
今は違う。
逃げない。
ただ落ち着かないだけだ。
グロマールは患部を見る。
「痛むか」
「……少し」
嘘だった。
かなり痛い。
表情で分かる。
グロマールは手をかざす。
光属性。
癒。
淡い光が腕を包む。
周囲の空気が静まった。
村人たちは何度見ても慣れない。
治癒魔法。
しかもここまで精密なものは存在しない。
普通の治癒師は、魔力を流し込むだけだ。
効率が悪い。
負担も大きい。
失敗すれば悪化する。
だがグロマールは違う。
魔力操作。
循環。
内部構造。
損傷箇所。
血流。
筋肉。
全てを把握した上で修復している。
まるで壊れた道具を直すように。
正確に。
無駄なく。
ミレナは息を飲む。
痛みが引いていく。
熱が消える。
腫れが収まる。
「……すごい」
小さな声だった。
グロマールは答えない。
集中している。
魔力が流れる。
普通の人間なら、この規模の治癒を続ければ魔力切れを起こす。
だがグロマールには関係ない。
魔力吸収。
循環。
体内で永久に流れ続ける魔力。
実質無限。
それは戦闘だけの力ではない。
支えるための力だった。
ピーターが横で見つめている。
目が真剣だった。
学ぼうとしている。
グロマールは気づいていた。
だから敢えて見せる。
技術は独占しない。
教育が無かったから、この世界は停滞した。
なら教える。
循環させる。
それがグロマールの思想だった。
治療が終わる。
ミレナの腕から光が消えた。
彼女はゆっくり動かす。
痛みはほとんど無い。
「……動く」
「今日は休め」
「それは無理」
即答だった。
マイクが叫ぶ。
「休めよ!」
「お前いつも無茶するだろ!」
ミレナが眉を吊り上げる。
「うるさい」
「誰かがやらなきゃ――」
途中で止まる。
グロマールが見ていた。
静かな目。
責めない。
怒らない。
ただ見ている。
ミレナは少し視線を逸らした。
その反応を見て、セレスが小さく笑う。
「……変わった」
エバが隣で呟く。
「何が?」
「前なら怒鳴ってた」
確かにそうだった。
以前のミレナなら。
「私は大丈夫!」
「放っておいて!」
そう叫んでいた。
今は違う。
言葉が続かない。
無理をしている自覚がある。
そして。
心配されることに慣れていない。
グロマールは立ち上がる。
「ピーター」
「は、はい!」
「固定具を持ってこい」
「軽く支える」
「無理すると再発する」
ピーターが走る。
ミレナが少し不満そうに言う。
「そこまでしなくても」
「必要だ」
「……」
反論できない。
グロマールは合理だけで話す。
感情論がない。
だから逆に拒絶しにくい。
マイクが笑う。
「諦めろ」
「グロマール相手に口で勝てる奴いねぇ」
ミレナは睨む。
「うるさい」
しかしその声は弱かった。
セレスが近づく。
「はいはい」
「怪我人は座る」
ミレナは素直に座った。
その瞬間。
周囲の村人たちが少し驚く。
昔では考えられなかった。
ミレナは誰より無理をする人間だった。
頼らない。
弱さを見せない。
それが彼女だった。
今は違う。
頼ることを覚え始めている。
エバが静かに呟く。
「環境って怖い」
セレスが笑う。
「良い意味でね」
ミネルバが水を持ってくる。
「はい、飲んで」
「ありがとう……」
ミレナは受け取る。
その手が少し震えていた。
痛みではない。
別の感情だった。
グロマールは崩れた土壁を見る。
「原因は排水不足だな」
即座に分析。
「地下水が溜まってる」
「水路を一本追加する」
ジミーが顔を出す。
「資材ならあるぞ」
「昨日の取引で木材余った」
エバも頷く。
「人員配置変える」
「午後なら回せる」
マイクが腕を回す。
「なら俺らで掘る!」
自然だった。
誰か一人が背負わない。
循環。
支え合い。
役割。
村全体が少しずつ変わっている。
ミレナはそれを見ていた。
昔なら。
全部自分でやろうとしていた。
でも今は違う。
皆が動く。
村が動く。
環境が人を育てる。
その意味を、彼女は理解し始めていた。
ピーターが戻ってくる。
「も、持ってきました!」
固定具。
包帯。
治療道具。
以前なら存在しなかった物だ。
グロマールが固定する。
手際が良い。
ミレナはじっと見ていた。
グロマールの手。
大きくて。
硬い。
戦う手だ。
同時に。
畑を作り、水を流し、人を治す手でもある。
ミレナはぽつりと呟く。
「……不思議」
「何がだ」
「あなたの手」
グロマールは止まる。
ミレナは少し困った顔をする。
「戦えるのに」
「壊すより」
「治してる方が多い」
静かな空気が流れる。
グロマールは包帯を巻き終える。
そして答えた。
「壊すだけなら簡単だ」
「残らない」
「循環しない」
ミレナはその言葉を聞きながら、自分の腕を見る。
守れなかった過去。
失った命。
怒り。
焦り。
全部抱えてきた。
でも今。
この村は変わっている。
自分一人ではなく。
皆で。
循環しながら。
少しずつ。
ミレナは小さく笑った。
「……ありがとう」
グロマールは短く答える。
「礼は要らない」
「必要なことをしただけだ」
その言葉が。
なぜか少しだけ嬉しかった。
ミレナは包帯を触る。
温かかった。
それは治癒魔法の熱だけではなかった。




