28話:守れなかった過去
夜の村は静かだった。
以前の静けさとは違う。
昔は、諦めの静けさだった。
空腹で動けず、疲れ果て、声を出す余裕すら無かった。
今は違う。
満腹になり、風呂に入り、仕事を終えた人々が眠っている。
生きるためではなく、明日のために眠る。
その違いは大きかった。
広場では焚き火が揺れていた。
マイクたちは昼間の警備で疲れ、すでに寝ている。
診療所の灯りも消えていた。
最後まで起きていたピーターも、机に突っ伏したまま眠っている。
ミネルバが毛布を掛けていた。
グロマールは一人、水路の確認を終えて戻ってきた。
足音。
石畳。
流れる水。
循環。
その全てを確認してから眠るのが、彼の日課になっていた。
村を歩いていると、広場の端に人影が見えた。
ミレナだった。
一人で座っている。
焚き火を見つめていた。
グロマールは何も言わず隣に立つ。
ミレナも驚かなかった。
以前なら警戒していた。
今は違う。
彼が無言で隣にいることが自然になっていた。
しばらく沈黙が続く。
火の音だけが響く。
やがてミレナが口を開いた。
「……最近、子供が泣かなくなった」
小さな声だった。
「夜中に」
グロマールは答えない。
ミレナは続ける。
「前は毎晩だった」
「熱」
「咳」
「泣き声」
「親の怒鳴り声」
「……死ぬ音も」
焚き火が揺れる。
ミレナは火を見たままだった。
「今は静か」
「変よね」
「静かなのに、怖くない」
グロマールが座る。
土の上。
ミレナとの距離は近かった。
以前の彼女なら避けていた。
だが今は動かない。
むしろ少しだけ肩の力を抜いていた。
ミレナは空を見る。
「昔ね」
「弟がいたの」
初めて聞く話だった。
グロマールは黙って聞く。
ミレナは少し笑う。
「元気な子だった」
「走り回って」
「うるさくて」
「いつも泥だらけ」
その顔は優しい。
姉の顔だった。
「私の後ろばっかりついてきて」
「剣の真似して」
「村を守るって言ってた」
風が吹く。
焚き火が揺れる。
ミレナの声も少し揺れた。
「でも死んだ」
短い言葉。
重い。
「熱だった」
「ただの熱」
「傷でもない」
「魔物でもない」
「戦いでもない」
「ただ熱が出て」
「咳して」
「苦しそうにして」
「……死んだ」
ミレナは拳を握る。
「何もできなかった」
「水も無かった」
「薬も無かった」
「治癒師もいなかった」
「私は村長の娘なのに」
「守るって言ってたのに」
声が少し震える。
しかし泣かない。
泣き方を忘れているようだった。
「だから私は強くならなきゃって思った」
「村を守らなきゃって」
「誰も死なせないようにって」
「でも無理だった」
彼女は笑う。
乾いた笑い。
「結局、私は何もできなかった」
「怒鳴ることしか」
「剣を振ることしか」
「必死になることしか」
グロマールは静かに答える。
「違う」
ミレナが目を向ける。
グロマールの声は変わらない。
静かだ。
「お前は止まらなかった」
「それだけで十分価値がある」
ミレナは少し目を伏せる。
「……価値なんて」
「ある」
即答だった。
「環境が悪い時、人は止まる」
「諦める」
「壊れる」
「だが、お前は壊れなかった」
ミレナは何も言えない。
彼女はずっと自分を責めていた。
守れなかった。
助けられなかった。
弱かった。
だから強くならなければと思った。
でも違った。
本当に必要だったのは。
強さだけではない。
環境だった。
グロマールは水路を見る。
「病は個人の責任じゃない」
「仕組みの問題だ」
「水」
「食料」
「衛生」
「教育」
「循環」
「欠ければ人は死ぬ」
ミレナが小さく呟く。
「……弟は」
「環境に殺されたの?」
グロマールは少し考える。
そして答えた。
「救える環境が存在しなかった」
その言葉は優しかった。
責めない。
切り捨てない。
現実だけを置く。
ミレナの肩が少し震えた。
「……ずるい」
「何がだ」
「そういう言い方」
「怒れなくなる」
グロマールは黙る。
ミレナは焚き火を見る。
「私はずっと誰かを恨みたかった」
「貧乏な村を」
「何もしない大人を」
「弱い自分を」
「全部」
「でも最近、分からなくなる」
「村が変わっていくから」
「みんな笑うから」
「子供が生きるから」
「……苦しかった理由が見えてくる」
それは辛いことだった。
希望は残酷だ。
変えられると知ってしまうから。
変えられなかった過去が痛みになる。
ミレナは静かに言う。
「弟が今の村で生きてたら」
「多分、死ななかった」
グロマールは否定しない。
それが現実だから。
ミレナは目を閉じる。
涙は出ない。
もう枯れていた。
その代わり。
長い時間、抱えていた力が少し抜けた。
「……私」
「最近、怖いの」
「何がだ」
「幸せになるのが」
グロマールは静かに聞く。
ミレナは苦笑した。
「昔は生き残るだけだった」
「考える暇もなかった」
「でも今は違う」
「未来が見える」
「それが怖い」
「失った時、耐えられない気がする」
本音だった。
今までのミレナは、強がりで立っていた。
弱音を吐けば終わると思っていた。
だから叫んだ。
怒った。
戦った。
でも今。
村が変わり始めている。
未来が見えてしまう。
だから怖い。
グロマールは焚き火を見る。
「人は慣れる」
「……そんな簡単に?」
「簡単じゃない」
「だが慣れる」
「生きることにも」
「幸せにも」
「安心にも」
ミレナは少しだけ笑った。
「変な慰め」
「慰めじゃない」
「事実だ」
その返しが少し可笑しくて。
ミレナは小さく吹き出した。
久しぶりだった。
無理に作った笑顔じゃない。
自然な笑い。
セレスが遠くから見ていた。
物陰。
気配を消している。
隣にはエバもいる。
エバが呟く。
「……行かないの?」
セレスは肩をすくめる。
「今は邪魔しない」
「珍しい」
「私だって空気くらい読むわ」
エバは焚き火を見る。
「ミレナ、変わった」
セレスは静かに頷く。
「うん」
「前より弱くなった」
エバが眉を上げる。
セレスは笑った。
「でも、多分その方が強い」
強さとは。
壊れないことじゃない。
弱さを認めても立てること。
グロマールはそれを村に教えていた。
支配ではなく。
循環として。
焚き火の前。
ミレナは静かに言う。
「……ありがとう」
「何にだ」
「分からない」
「でも、多分色々」
グロマールは何も答えない。
必要ない。
火が揺れる。
水路が流れる。
遠くで子供の寝言が聞こえる。
昔なら、その声は翌朝消えていたかもしれない。
でも今は違う。
生きている。
明日がある。
ミレナは空を見上げる。
夜空は深かった。
それでも。
昔ほど冷たくは見えなかった。




