30話:離れるな
朝靄が畑を覆っていた。
水路を流れる水は静かで、以前のような濁りはない。
グロマールが浄化を続け、水流を整え、土壌改善を進めた結果だった。
村は変わった。
空気の匂いすら違う。
腐臭が減った。
病人の咳も減った。
子供たちの顔色も良くなった。
そして何より。
人が前を向いて歩くようになった。
畑では朝から作業が始まっている。
土を耕す者。
苗を運ぶ者。
水路を確認する者。
以前なら、一人が倒れれば全て止まった。
今は違う。
循環している。
支え合っている。
教育が広がり始めていた。
「ピーター!」
「そっち水多い!」
「流量落とせ!」
「は、はい!」
ピーターが慌てて水門を調整する。
隣でマイクが笑った。
「お前、前より動けるようになったな!」
「ま、まだ失敗するけど……!」
「失敗しねぇ奴なんかいねぇよ!」
マイクは豪快に笑う。
その後ろでエバが帳簿を睨んでいた。
「笑ってる暇あるなら資材運んで」
「うっ」
「今日の木材、無駄にしたら赤字」
「分かったよ!」
マイクが逃げるように走る。
村人たちが笑った。
そんな光景を、ミレナは少し離れた場所から見ていた。
右腕にはまだ包帯が巻かれている。
傷はほぼ治っている。
それでもグロマールは無理を許さなかった。
「完全に塞がるまで使うな」
その一言だけ。
反論は通らない。
ミレナは少し不満だった。
だが同時に。
その言葉に安心している自分もいた。
以前の彼女なら。
怪我を隠した。
無理をした。
倒れるまで動いた。
今は違う。
誰かが止める。
支える。
その感覚に、まだ慣れていない。
「また難しい顔してる」
後ろから声。
セレスだった。
木箱を抱えている。
ミレナは眉を寄せる。
「別に」
「嘘」
セレスは隣に座る。
視線は畑へ向いたまま。
「最近ずっとそう」
「考え込む」
「黙る」
「ぼーっとする」
ミレナが小さく舌打ちする。
「観察しすぎ」
「親友だから」
セレスはあっさり返した。
風が吹く。
畑ではグロマールが水流を調整している。
村人たちに指示を出しながら、自分でも土を触っていた。
村長でもない。
貴族でもない。
英雄でもない。
なのに、皆が自然と従う。
命令ではない。
信頼だった。
セレスが小さく笑う。
「ほんと不思議」
「何が」
「あの人」
ミレナは黙る。
セレスは続けた。
「支配しないのに、人が集まる」
「怖がらせないのに、逆らえない」
「優しいのに、甘くない」
「……変な人」
ミレナは小さく息を吐く。
「分かる」
その声は柔らかかった。
以前の彼女なら認めなかった。
今は自然に出る。
セレスが横目で見る。
「好き?」
ミレナが固まる。
「は?」
「顔真っ赤」
「なっ……!」
ミレナが立ち上がる。
「違う!」
「そういうのじゃない!」
「じゃあ何?」
言葉が止まる。
ミレナは視線を逸らす。
自分でも分からない。
安心する。
近くにいると落ち着く。
離れると不安になる。
それが何なのか。
まだ言葉にできない。
セレスはそれを理解していた。
だから少しだけ意地悪く笑う。
「まあ、いいけど」
「そのうち気づくでしょ」
「だから違うって言ってる!」
その時だった。
遠くで土煙が上がる。
村の入口。
見張りの子供が叫んだ。
「魔物!」
空気が変わる。
村人たちが動く。
マイクが武器を掴む。
「どこだ!?」
「北!」
「三体!」
グロマールが即座に動く。
索敵。
風。
魔力探知。
魔狼ではない。
フォレストボア。
大型。
突進型。
農地を荒らす危険がある。
グロマールが短く指示を出す。
「マイク」
「前衛」
「ピーター」
「後方支援」
「土壁準備」
「エバ」
「避難誘導」
「セレス」
「右側警戒」
全員が即座に動いた。
迷わない。
教育。
経験。
連携。
以前の村ではあり得ない速度だった。
ミレナも立ち上がる。
「私も――」
その瞬間。
右腕に痛みが走る。
顔が歪む。
無理に動いた反動だった。
グロマールが振り向く。
「動くな」
「でも!」
「まだ治り切ってない」
ミレナは悔しそうに拳を握る。
以前なら無視していた。
飛び出していた。
だが今は違う。
怖かった。
もしまた足を引っ張ったら。
もし倒れたら。
皆に迷惑をかける。
その迷いを、グロマールは見抜いていた。
彼は近づく。
静かな声。
「ここにいろ」
「……」
「守る役目も必要だ」
ミレナは唇を噛む。
悔しい。
情けない。
でも。
その言葉は拒絶ではなかった。
役割を与えている。
必要としている。
それが分かるから、反発できない。
フォレストボアが突進してくる。
巨体。
牙。
土煙。
だが村人は逃げなかった。
「土壁!」
ピーターが叫ぶ。
村人たちが同時に魔力を流す。
土属性。
壁。
地面が隆起する。
以前なら不可能だった。
だが今は違う。
魔力操作を学んだ。
循環を覚えた。
皆が少しずつ使える。
土壁が形成される。
突進。
衝突。
轟音。
その瞬間。
マイクが飛び出す。
「今だぁ!!」
風刃。
水弾。
石弾。
連携魔法。
村人全員が動く。
完璧ではない。
荒い。
未熟。
それでも以前とは比較にならない。
環境が人を育てていた。
グロマールは最後方から戦場を見る。
必要最低限しか動かない。
支える。
調整する。
循環を維持する。
それが彼の役割だった。
フォレストボアの一体が横へ抜ける。
畑へ向かう。
ミレナが反射的に走ろうとした。
しかし。
その前に。
影が動く。
グロマール。
風。
身体強化。
瞬間移動のような速度。
土槍。
貫通。
フォレストボアが崩れ落ちる。
静寂。
残る二体も連携で倒された。
戦いは短かった。
以前なら死人が出ていた。
今は違う。
誰も死なない。
それが当たり前になり始めている。
村人たちが歓声を上げる。
マイクが笑う。
「勝ったぁ!!」
ピーターがへたり込む。
「つ、疲れたぁ……!」
エバが呆れる。
「だから無駄撃ち多いって言った」
セレスが笑う。
「でも上出来」
その光景を見ながら。
ミレナは座り込んでいた。
安心した瞬間。
力が抜けた。
グロマールが近づく。
「無理するなと言ったはずだ」
少し低い声。
怒っているわけではない。
確認。
心配。
それが分かる。
ミレナは俯いたまま呟く。
「……怖かった」
グロマールは止まる。
ミレナの声は小さい。
「あなたが行った時」
「またいなくなる気がした」
自分でも無意識だった。
気づけば口に出ていた。
周囲が静まる。
セレスが目を丸くする。
マイクが「おぉ……」と呟く。
エバがニヤける。
ミレナは数秒遅れて理解した。
顔が真っ赤になる。
「ち、違っ……!」
「その!」
「そういう意味じゃ……!」
混乱。
珍しく完全に崩れている。
グロマールは少しだけ目を細める。
「離れない」
短い言葉だった。
でも真っ直ぐだった。
ミレナは言葉を失う。
胸が熱い。
苦しい。
でも嫌じゃない。
村の風が吹く。
畑が揺れる。
水路が流れる。
循環。
人が人を支える環境。
その中心で。
ミレナは初めて、自分が「守られている」と理解していた。




