270話:ベルグラード王国
ベルグラード王国の王宮は、静かだった。
あまりにも静かだった。
五百年続いた国家の中心とは思えないほど、音がない。
かつては近衛兵の鎧が鳴り、侍女たちが走り、文官たちが書類を抱えて行き交った大回廊。
今は誰も歩かない。
火の消えた燭台。
止まった大時計。
冷え切った石床。
風だけが、長い廊下を抜けていく。
王宮は、もう“建物”だった。
国家ではない。
生活が消えた場所に、国は残れない。
その現実だけが、巨大な王宮を満たしていた。
玉座の間。
ベルグラード王は、玉座に座っていた。
豪奢だった衣は痩せ細った身体に合わなくなり、頬は落ち窪み、指先は震えている。
目だけが、まだ現実を拒絶していた。
「……まだだ」
掠れた声。
誰も返事をしない。
当然だった。
もう誰もいない。
宰相は数日前、王宮内で倒れた。
最後まで、
「循環領が支援すれば……」
と呟きながら死んだ。
近衛兵も去った。
侍女もいない。
料理人もいない。
文官もいない。
残ったのは王だけだった。
王は震える手で玉座を握る。
「余は……間違っておらぬ……」
声に力はない。
かつて民衆を支配した王の声とは思えなかった。
ベルグラード王国。
騎士の王国。
武勇を誇った国家。
剣と忠誠で築かれた五百年。
その終わりは、あまりにも静かだった。
敵軍はいない。
城門も破られていない。
炎上もない。
処刑台もない。
歓声もない。
ただ、人が消えた。
民が去った。
それだけだった。
王は理解できなかった。
なぜ民が逃げたのか。
なぜ騎士が去ったのか。
なぜ市場が消えたのか。
なぜ王国が死んだのか。
最後まで分からなかった。
国家とは王だと思っていた。
王がいる限り国は残ると、本気で信じていた。
だから気づけなかった。
国を支えていたのは、民だった。
農民。
商人。
職人。
教師。
治癒師。
運搬夫。
兵士。
料理人。
侍女。
文官。
生活していた人間たち。
彼らが消えた時点で、国は終わっていた。
王だけが、それを理解できなかった。
王の視界が揺れる。
空腹は数日前から限界だった。
水も少ない。
身体が動かない。
それでも王は玉座から降りなかった。
降りれば終わる。
そう思っていた。
「余は……王だ……」
震える声。
返事はない。
静寂だけが残る。
やがて。
王の身体がゆっくり前へ傾いた。
玉座から落ちることすらできず、そのまま動かなくなる。
ベルグラード王国最後の王は、玉座で餓死した。
戦争なし。
処刑なし。
歓声なし。
ただ静かに終わる。
その頃。
遥か南方。
救援領域。
ブライト領。
荒れていた農地には水路が引かれ、畑には緑が戻っていた。
痩せた子供たちは食事を取り戻し、文字を書いている。
崩壊しかけていた領地は、少しずつ呼吸を始めていた。
領主館。
ロバート・ブライト伯爵は、資料を見つめていた。
震える指先。
しかしそれは恐怖ではない。
驚愕だった。
「……識字率七割超え?」
隣の文官も固まっている。
「はい……」
「農地稼働率八十五%……?」
「水路再建完了……」
「病死率低下……?」
「治癒院の稼働によるものかと……」
ロバートは椅子に座り込んだ。
信じられなかった。
数ヶ月前。
この領は終わっていた。
餓死。
盗賊。
徴税崩壊。
病。
逃亡。
完全に死にかけていた。
それが今。
領民八千人。
職業覚醒者七千二百人。
九割。
異常な数字だった。
だが誰も驚かない。
循環領では、それが“普通”になり始めていた。
なぜなら。
教育があるからだ。
教師がいるからだ。
環境があるからだ。
才能が突然生まれたわけではない。
最初から存在していた。
ただ育たなかっただけだった。
領主館の外では、子供たちが文字を書いている。
農民たちが土属性魔法で畑を耕している。
水属性覚醒者が灌漑水路を調整する。
薬師覚醒者が薬草を分類している。
物流覚醒者が荷車を管理している。
誰も特別扱いされていない。
誰も選ばれていない。
教育された。
だから育った。
それだけだった。
ピーターは校舎を見上げていた。
元は倉庫だった建物。
今は学校になっている。
黒板。
長机。
文字表。
計算板。
その中で子供たちが学んでいた。
元騎士たちが教官補助をしている。
防衛だけでは国は残らない。
彼らもそれを理解し始めていた。
ロバート・ブライト伯爵が近づく。
「……この領は生き残れる」
掠れた声だった。
ピーターは静かに首を横に振る。
「違います」
優しい声。
けれど芯は強かった。
「自分たちで立て直したんです」
ロバートは言葉を失う。
ピーターは続ける。
「グロマールさんは、支配してません」
「え……?」
「環境を作っただけです」
風が吹く。
校舎から笑い声が聞こえた。
文字を書けるようになった子供たち。
病から回復した老人。
農地へ戻る農民。
物流を学ぶ若者。
治癒を学ぶ少女。
それは王が与えたものではない。
誰かに救われ続けた結果でもない。
人が、自分で立ち上がった結果だった。
ピーターは空を見る。
遠く。
さらに別の領へ向かう救援教師団の姿が見えた。
索敵教師。
治癒教師。
薬師教師。
教導教師。
転移教師。
多くの教師たちが各地へ向かっている。
ベルグラード王国は終わった。
けれど文明は終わらない。
循環は続く。
教育は続く。
人は育つ。
国家とは、城ではない。
王でもない。
人だ。
生活だ。
循環だ。
その頃。
帝国。
ヴァルディス帝都。
皇帝アレクシス・ヴァルディスは報告書を見つめていた。
隣には側近レオハルト。
重苦しい空気。
「……王が死んだか」
アレクシスが呟く。
レオハルトは静かに頷く。
「はい」
沈黙。
やがて皇帝は低く言った。
「恐ろしいな」
「……はい」
「剣ではなく、生活で国家を殺した」
レオハルトも理解していた。
これは征服ではない。
文明移行だ。
もっと危険だった。
「グロマール共和国……」
皇帝は報告書を閉じる。
「支配国家ではない」
「教育国家です」
「そして人材国家か」
皇帝は窓の外を見る。
帝都ヴァルディス。
巨大な帝国。
だが彼は理解していた。
今世界で最も危険な国家は、軍事国家ではない。
人を育てる国家だ。
人材が循環し続ける国家だ。
民が国家を信じる国家だ。
アレクシスは静かに呟いた。
「ベルグラード王国は滅んだ」
そして。
「新しい文明が始まった」




