269話:王国の終わり
ベルグラード王国。
王都。
雪。
静かだった。
かつて百万を超える民が暮らした大都市。
商人が叫び。
職人が働き。
騎士が巡回し。
子供が走り回っていた街。
今は違う。
風だけが吹いている。
市場は空。
井戸は凍り。
煙突から煙も上がらない。
生きている街ではなかった。
死につつある街だった。
王宮。
巨大な白亜の城。
五百年。
ベルグラード王家の象徴。
権威。
支配。
栄光。
全ての中心。
その王宮も。
今は静まり返っていた。
時計停止。
火消失。
廊下無音。
誰もいない。
玉座の間。
広い。
寒い。
暗い。
その中央。
王だけが座っていた。
老王。
最後のベルグラード王。
頬は痩せ。
目は落ち窪み。
指先は震えている。
呼吸も浅い。
もう。
長くない。
だが。
それでも王は玉座から動かなかった。
王は虚ろな目で前を見る。
誰もいない玉座の間。
空っぽ。
完全な空虚。
王が小さく呟く。
「……兵は」
返事は無い。
「宰相は」
返事は無い。
「近衛は」
返事は無い。
当然だった。
もう。
誰もいない。
王は理解していた。
薄々。
ずっと。
だが認めなかった。
認めれば。
自分が負けたと認めることになるから。
王は震える声で言う。
「余は……」
「間違っておらぬ……」
掠れている。
弱い。
王の声ではない。
ただの老いた男の声だった。
その頃。
循環領。
ブライト領。
救援は成功していた。
ロバート・ブライト伯爵領。
人口八千。
その内。
職業スキル覚醒者。
七千二百。
九割。
異常な数字。
だが。
循環領ではそれを異常とは呼ばない。
当然だった。
教育があれば。
人は育つ。
それだけの話だった。
ブライト領中央広場。
朝。
雪は止んでいる。
子供たちが走っていた。
農民が笑っている。
工房から音が聞こえる。
鍛冶。
織布。
木工。
治癒院。
全部動いている。
ピーターは広場を見る。
元泣き虫。
元失敗ばかりだった少年。
今は違う。
治癒師。
教師。
救済団指揮官。
多くの人間を支えていた。
ロバート・ブライト伯爵が深く頭を下げる。
「ピーター殿」
「本当に感謝します」
老伯爵だった。
疲れている。
だが目は死んでいない。
領民を見捨てなかった男の目だった。
ピーターが微笑む。
「もう大丈夫です」
「この領は自立できます」
伯爵の目が揺れる。
「……本当に」
ピーターは頷く。
「農業循環は完成しました」
「識字率も上昇しています」
「職業教育も定着しました」
「来春には完全黒字化できます」
伯爵が震える声で言う。
「私は……何もしていない」
ピーターは首を横に振る。
「違います」
「あなたが逃げなかった」
「それが一番大きいんです」
伯爵は涙を流した。
ピーターは知っている。
環境が人を育てる。
だが。
最初の一人は必要だ。
逃げない人間。
諦めない人間。
ブライト伯爵はそれだった。
広場。
覚醒した人々が働いている。
農業スキル。
建築スキル。
鍛冶スキル。
織布スキル。
治癒スキル。
料理スキル。
物流スキル。
人々は働きながら成長していく。
教導。
教育。
循環。
それが世界を変えていた。
ピーターの隣。
ミネルバが子供へ薬を渡している。
優しい。
柔らかい。
だが芯が強い。
少女が頭を下げる。
「先生ありがとう」
ミネルバは笑う。
「ちゃんとご飯食べるのよ?」
少女が元気に頷く。
その光景を見て。
ピーターは静かに息を吐く。
昔。
自分は弱かった。
泣いていた。
怖がっていた。
でも。
グロマールが教えた。
環境。
教育。
循環。
人は育つ。
だから。
今度は自分が教える側だった。
遠く。
転移教師たちが準備している。
次の救援領。
まだ救う場所は大量にある。
ベルグラード王国は崩壊している。
だが。
民は残っている。
なら。
救える。
ピーターが言う。
「次へ行きます」
ミネルバが頷く。
「ええ」
ブライト伯爵が深く頭を下げる。
「必ずこの領を立て直します」
ピーターは笑った。
「もう始まってますよ」
その頃。
王宮。
玉座の間。
王は動かなくなっていた。
座ったまま。
玉座に寄りかかっている。
目は開いている。
だが。
焦点が合っていない。
飢餓。
衰弱。
孤独。
誰もいない。
最後まで。
本当に誰も戻らなかった。
王は最後に小さく呟いた。
「……余は……」
そこで声が止まる。
静寂。
長い沈黙。
雪の音だけが聞こえる。
そして。
ベルグラード王。
死亡。
戦争なし。
処刑なし。
歓声なし。
革命なし。
英雄なし。
巨大な国家は。
ただ静かに終わった。
数日後。
帝都ヴァルディス。
若皇帝アレクシス・ヴァルディスは報告書を読む。
側近レオハルトが静かに言う。
「ベルグラード王、死亡確認」
皇帝は黙る。
長い沈黙。
やがて。
小さく目を閉じた。
「……そうか」
喜びは無い。
勝利感も無い。
あるのは。
歴史の終わりを見届けた重さだけだった。
レオハルトが言う。
「戦争もなく」
「王国が消えました」
皇帝は窓の外を見る。
帝都は動いている。
物流。
教育。
民。
全部動いている。
だから国家が生きている。
皇帝が静かに呟く。
「国家とは……」
「民の生活そのものなのだな」
遠く。
循環領。
灯が消えない街。
学校。
農地。
工房。
治癒院。
子供たちの声。
生きている国。
そして。
滅びた王国。
差は単純だった。
最後の記録にはこう残された。
> 王国は剣で滅びたのではない。
>
> 民に見捨てられたのだ。




