264話:宰相
ベルグラード王国。
王宮中央棟。
宰相執務室。
そこだけは、まだ“国家”の形を残そうとしていた。
壁一面の地図。
積み上がった書類。
封印済み勅令。
徴税報告。
軍備計画。
地方統治案。
だが。
人がいない。
補佐官はいない。
書記官もいない。
机だけが並び。
灯火だけが弱々しく揺れていた。
静かだった。
宰相アルヴェルトは、痩せ細った手で書類を握っていた。
目は落ち窪み。
唇は乾き。
それでも彼だけは、まだ国家が続いていると信じていた。
「まだだ……」
「まだ王国は終わっていない……」
老文官が小さく息を吐く。
彼はもう限界だった。
数日まともに食べていない。
それでも最後まで残った。
王国を愛していたから。
だが。
もう理解している。
終わったのだと。
宰相が机を叩く。
「循環領が支援すればよいのだ!」
「王国なのだぞ!?」
「地方領主共も、民も、元は王国民ではないか!!」
若い文官が俯いたまま言う。
「もう誰も従いません」
静寂。
宰相の顔が歪む。
「なぜだ……!」
「王がおられるのだぞ!!」
老文官が静かに答える。
「民は、もう王を見ていません」
「食事を見ています」
「水を見ています」
「子供が生きられる場所を見ています」
「だから循環領へ行ったのです」
宰相が怒鳴る。
「裏切り者共が!!」
若い文官が苦しそうに笑った。
「違います」
「生きるためです」
その瞬間。
宰相は言葉を失った。
理解できない。
理解したくない。
彼にとって国家とは。
命令。
秩序。
法。
格式。
勅令。
それらで動くものだった。
だが。
現実は違った。
国家とは生活。
民が食べ。
働き。
眠り。
学び。
未来を持てること。
それが消えた瞬間。
国家も死ぬ。
だが宰相は最後まで認められなかった。
「まだ立て直せる……」
「王都には王城がある……」
「王族がおられる……」
「王威がある……」
誰も返事しない。
近衛騎士すら俯いていた。
彼らは見てきた。
市場崩壊。
死体。
逃げる民。
空になった街。
もう。
王国は機能していない。
その夜。
最後の文官が王宮を去った。
近衛もまた、静かに家族の元へ向かう。
巨大王宮。
残ったのは。
王。
宰相。
数名だけ。
翌朝。
宰相アルヴェルトは執務机へ伏していた。
冷たい。
餓死だった。
最後まで書類を抱えたまま。
最後まで。
国家は命令で動くと思っていた。
誰も泣かない。
誰も怒らない。
ただ静かに死んだ。
その頃。
ヴァルディス帝国。
帝都ヴァルディス。
巨大帝都は夜でも明るかった。
物流が動く。
工房が動く。
市場が開いている。
警備兵が巡回する。
学校には灯りがある。
人が生きている。
それだけで。
ベルグラード王国との差は決定的だった。
帝城。
白銀宮。
若皇帝アレクシス・ヴァルディスが報告書へ目を通していた。
その隣。
第一皇女。
マーガレット・レッドグレイブ。
レッドグレイブ公爵家の血を継ぐ少女。
知性。
理性。
そして静かな責任感を持つ皇女だった。
その時。
空間が揺らぐ。
転移魔法。
循環領所属。
索敵教師が到着する。
若い教師。
だが目は鋭い。
国家規模救援を経験した者の目だった。
教師は一礼する。
「報告します」
アレクシスが頷く。
「話せ」
教師は淡々と告げる。
「ベルグラード王国」
「宰相アルヴェルト死亡確認」
「王宮維持機能停止寸前」
「物流完全崩壊」
「国家機能消滅目前です」
静寂。
アレクシスはゆっくり目を閉じた。
終わった。
完全に。
その時だった。
マーガレットの周囲へ、淡い光が広がる。
暖かい。
柔らかい。
だが強い。
索敵教師が即座に鑑定を発動する。
表示。
『皇后』
教師が目を見開いた。
周囲の空気が変わる。
不安が薄れる。
緊張が和らぐ。
人が自然と落ち着く。
それは支配ではなかった。
安心。
安定。
導き。
マーガレット自身も理解する。
この力の意味を。
『民衆安定』
『外交補正』
『国家調和』
『集団不安軽減』
『指導者補佐』
『国家間融和』
国家を“まとめる”力。
アレクシスが静かに問う。
「何を感じる」
マーガレットは窓の外を見る。
帝都ヴァルディス。
人々の生活。
市場。
灯り。
子供。
帰宅する家族。
全部が見える。
そして彼女は小さく答えた。
「国家は……恐怖で従わせるものではありません」
「安心して眠れる場所です」
索敵教師が静かに頷く。
循環領。
ヴァルディス帝国。
ベルグラード王国。
その差は、もう明確だった。
滅びる国家は。
剣で滅びるのではない。
民の生活を失った時。
静かに死ぬのだ。




