251話:逃亡民
冷たい風が、北から流れていた。
まだ冬ではない。
それでも、その風には“終わり”の臭いが混じっていた。
リードル村外縁。
かつて麦畑だった広大な平地は、今や人で埋め尽くされている。
老人。
母親。
荷車を引く男。
痩せた子供。
布に包まれた赤子。
長蛇の列。
その全員が、疲弊していた。
靴は擦り切れ、服は泥だらけ。
頬は痩せ、目の下には深い隈が浮かんでいる。
空腹。
病。
恐怖。
そして、“もう戻れない”という諦め。
それが全員の顔に刻まれていた。
リードル村の見張り台。
木製だった監視塔は、今では石壁と風属性結界を備えた本格的な防衛施設へ変わっている。
その上から、ピーターは列を見下ろしていた。
風が金色の髪を揺らす。
彼は小さく呟く。
「……増え続けてる」
その隣で腕を組んだマイクが眉を寄せた。
「昨日の倍じゃねぇか?」
ピーターは頷く。
鑑定。
視界の先で、避難民たちの状態が次々と表示されていく。
栄養失調。
脱水。
肺病。
発熱。
魔力枯渇。
精神疲弊。
そして多いのが、“恐慌”。
人は極限状態になると、正常に考えられなくなる。
ピーターはそれを知っていた。
彼自身、かつて弱かったからだ。
「北部三領は、もう限界なんだと思う」
マイクが舌打ちした。
「クソみてぇな国だな」
その声に怒鳴るような勢いはない。
疲れていた。
何度も同じ光景を見てきたからだ。
飢えた子供。
死んだ村。
徴発。
略奪。
王国は、もう民を守れていない。
後ろから足音。
セレスだった。
緑色の髪を風に揺らしながら、静かに見張り台へ上がってくる。
その手には大量の羊皮紙。
「北部、西部、中央東寄り。全部崩れ始めてる」
ピーターが振り返る。
「そんなに……?」
「今年の収穫が壊滅的だった」
セレスは羊皮紙を広げる。
「魔物被害。病害虫。徴発。税負担。流通崩壊。全部重なった」
冷静な口調。
だが、その瞳は冷えていた。
「もう“国家”が維持されてない」
マイクが列を見る。
「止めるか?」
短い問い。
だが意味は重い。
循環領の人口は既に急増している。
住宅。
食料。
衛生。
教育。
全てに限界はある。
セレスは即答した。
「止めない」
少しだけ間を置く。
「ただし選別する」
ピーターが静かに頷いた。
循環領は、優しい。
だが甘くはない。
グロマールが残した絶対原則。
『来る者は拒まない。
循環を壊す者は入れない』
それだけは、一切変わらない。
見張り台の下では、既に受け入れ作業が始まっていた。
水属性による浄化。
光属性による病検査。
土属性で作られた巨大待機所。
風属性による換気循環。
熱湯魔法で消毒された器具。
循環領は、“村”ではなくなっていた。
都市国家。
それも、生活を中心に設計された文明都市。
治療班が慌ただしく走る。
「発熱者三名!」
「浄化班!」
「子供を優先してください!」
「水を配って!」
その中心で動いていたのはミネルバだった。
白い治癒服。
銀色の髪。
疲れている。
それでも彼女は、一人ずつ膝をついて話を聞いていた。
「ここは安全です」
「もう大丈夫です」
「ゆっくり呼吸してください」
痩せた少女が泣き崩れる。
ミネルバは抱きしめた。
「頑張りましたね」
その光景を見ながら、マイクがぼそりと言う。
「……相変わらず、無理する女だな」
ピーターが苦笑した。
「ミネルバだからね」
その時。
列の後方で怒鳴り声が上がった。
「盗まれた!」
「食料袋が!」
「誰か捕まえろ!」
マイクが即座に飛び降りる。
身体強化。
地面が砕けた。
数秒後。
逃走していた男の首根っこを掴み上げる。
痩せた男だった。
だが目だけが濁っている。
「返せ」
低い声。
男が暴れる。
「うるせぇ! 食わなきゃ死ぬんだよ!」
周囲の避難民たちが怯える。
そこへセレスが近づいた。
光属性鑑定。
淡い光が男を包む。
結果表示。
略奪常習。
暴行歴多数。
同胞襲撃。
集団扇動傾向。
セレスは淡々と言った。
「外」
男が叫ぶ。
「待て! 俺を見捨てるのか!?」
セレスは表情を変えない。
「違う」
「循環を壊す人間を入れないだけ」
男がなおも暴れようとした瞬間。
影が伸びた。
闇属性。
影拘束。
男の身体が地面へ縫い付けられる。
避難民たちが息を呑んだ。
そこへ現れたのは、黒衣の男だった。
ジミー。
「いやー、こういうの早めに切っとかないと物流壊れるんだよねぇ」
軽い口調。
だが目は笑っていない。
「食料奪い始めると市場が死ぬから」
男が震える。
ジミーは肩を竦めた。
「ここ、王国じゃないんで」
武人団が男を連行する。
誰も止めなかった。
避難民たちは理解していた。
ここには秩序がある。
だから生きられる。
ピーターは空を見る。
灰色だった。
遠く北側。
黒煙が上がっている。
村が燃えているのだろう。
もう誰も助けに行けない。
その時。
一台の馬車が列へ近づいてきた。
豪華だった。
だが泥まみれ。
王国貴族の紋章。
周囲がざわつく。
馬車の扉が開いた。
中から出てきたのは、中年の男。
かつては肥え太っていたのだろう。
だが今は違う。
頬は痩せ、髪は乱れ、目は血走っていた。
彼はピーターを見るなり、膝をついた。
土下座。
避難民たちが息を呑む。
領主級貴族だった。
その男が、民衆の前で額を地面へ擦り付ける。
「頼む……!」
声が震えている。
「領民を……助けてくれ……!」
後ろの馬車。
そこには痩せた妻。
泣く子供。
疲弊した騎士たち。
そして空っぽの食料箱。
ピーターは静かに尋ねる。
「領地は?」
「もう維持できない……」
「兵は?」
「食料を求めて逃げた……」
「税は?」
男の声が崩れた。
「徴発された……!」
「王都へ……全部……!」
避難民たちが俯く。
同じだった。
どこも。
王国は、民から奪い続けた。
最後まで。
ピーターはしばらく沈黙した。
本来なら、ここにグロマールがいたはずだった。
だが今、彼はいない。
ミレナと共に旅へ出ている。
循環領は、もうグロマール一人で回る場所ではなくなった。
だから今、この場を支えるのは自分たちだ。
ピーターは息を吐いた。
「受け入れます」
男が顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃだった。
「本当……か……?」
「ただし」
ピーターの声が静かに強くなる。
「循環領の法に従ってください」
男は何度も頷いた。
「従う……!」
「何でもする……!」
その姿を見ながら、セレスがぽつりと言う。
「……王国、終わったわね」
マイクも頷く。
もう戦争ではない。
もう侵略でもない。
民が、“生きられる場所”へ移動を始めた。
国家とは城ではない。
王でもない。
生活だ。
食えること。
眠れること。
学べること。
病を治せること。
子供が生き延びること。
それが失われた時、国は静かに死ぬ。
循環領の門は、今日も開き続けていた。




