231話:宗教戦争
冬が終わろうとしていた。
循環領の朝は早い。
まだ空が白む前から、農地では水路点検が始まり、物流倉庫では荷の仕分けが進む。
学校では夜勤教師たちが引き継ぎを行っていた。
識字教育。
魔力教育。
農業教育。
行政教育。
世界は、止まらなくなっていた。
だからこそ。
宗教国家側は焦っていた。
神殿国家ルーメシア。
巨大な聖堂。
豪奢な大理石。
黄金装飾。
かつて民衆が畏怖した場所。
だが今。
空席が増えていた。
若者が来ない。
子供が来ない。
教師になった。
農地へ行った。
学校へ行った。
工場へ行った。
文字を覚えた。
契約を読めるようになった。
だから。
“恐怖”が効かなくなった。
枢機卿が机を叩く。
「禁書指定を増やせ!」
「文字教育を禁止しろ!」
「異端教師を捕らえろ!」
周囲の神官たちは沈黙した。
もう何度も聞いた。
何度も実行した。
そして。
全部失敗した。
若い神官が恐る恐る言う。
「ですが……」
「地方では既に識字率が……」
「教師側の保護網が強固で……」
枢機卿が怒鳴る。
「黙れ!」
「文字は神官のみが扱うものだ!」
「知識は管理されねばならん!」
その瞬間。
空気が冷えた。
若い神官たちはもう理解していた。
終わっている。
この国は。
思想が古い。
現実を見ていない。
農地が減っている。
税収が減っている。
識字率が低い。
物流が死んでいる。
なのに。
まだ“支配”の話をしている。
だから人が逃げる。
もう。
民は気づいてしまった。
学んだ方が豊かになると。
帝国側。
循環領中央会議室。
宗教国家の報告書が並んでいた。
セレスが資料を閉じる。
「予想通りね」
フェルド・レイヴンが頷く。
「地方崩壊が始まっている」
今のフェルドは帝国若手官僚の中心だった。
行政。
物流。
税。
教育。
大臣スキル覚醒後、その能力はさらに異常化している。
しかも。
仕事中は冷徹なのに。
セレス相手だと少し空気が違う。
それを周囲は既に察していた。
マイクが机に肘を乗せる。
「戦争になるか?」
セレスは即答した。
「ならない」
「宗教側に兵站能力が無い」
「教育否定国家は長期戦できない」
フェルドが補足する。
「識字率が低い軍は弱い」
「命令伝達」
「補給」
「記録」
「全部遅れる」
マイクが笑う。
「つまりバカってことか」
「簡単に言えばね」
セレスも笑った。
グロマールは資料を流し見する。
「放置でいい」
短い。
だが全員理解する。
ちょっかいを出して来ないなら相手にしない。
無駄だから。
疲れるから。
グロマールは昔からそうだった。
意味の無い争いを嫌う。
合理主義。
現実主義。
だから今の循環領は強い。
感情ではなく。
“回るか”
で動いている。
その日の夕方。
ピーターとミネルバはカーラのレストランにいた。
最近ここは半分結婚相談所になっていた。
カーラが呆れている。
「なんでみんなここなの……」
でも嬉しそうだった。
扉が開く。
「こんばんはー!」
元気な声。
入ってきたのはミーナだった。
帝国北部防衛都市グランゼル。
紡織職人。
かつて貧困街で働いていた少女。
今では紡織スキル保持者として工場管理まで任されている。
隣には大柄な青年がいた。
日に焼けた肌。
大きな手。
農民だとすぐ分かる。
ミーナが笑う。
「紹介するね!」
「婚約者!」
ピーターとミネルバが驚く。
「おお……!」
青年が緊張しながら頭を下げた。
「ベルクです」
「綿花農家をやってます」
ミーナが腕を組む。
「この人、最初全然喋らなかったの」
「でも畑の話始めたら止まらなくて」
ベルクが赤くなる。
ミネルバが優しく笑った。
「素敵ですね」
ピーターも頷く。
「おめでとうございます」
ミーナは少し照れながら言った。
「昔の私じゃ考えられなかったよ」
「食べるだけで必死だったし」
「結婚とか未来とか、そんなの無かった」
静かになる。
皆知っている。
この世界がどれだけ貧しかったか。
どれだけ苦しかったか。
だから今が尊い。
ミーナは笑った。
「でも今は違う」
「未来考えられるから」
その言葉に。
ピーターとミネルバは顔を見合わせた。
同じだった。
二人も。
昔は未来なんて考えられなかった。
しばらくして。
また扉が開く。
「こんばんは」
マリーだった。
土木教師。
工事主任。
元々ピーターを慕っていた女性の一人。
隣には無骨な男。
傷だらけ。
土と石の匂い。
典型的な現場人間。
「婚約者です」
マリーが静かに言う。
男が頭を下げた。
「ロイドです」
「土木技師やってます」
ピーターが笑った。
「おめでとうございます」
マリーは少し照れた。
「ありがとうございます」
昔。
マリーはピーターに憧れていた。
優しくて。
努力家で。
弱い側を見捨てない。
だが。
途中で理解した。
ピーターの隣には。
ミネルバがいる。
だから諦めた。
ではなく。
納得した。
それが重要だった。
今の循環領には。
“奪い合い”
が少ない。
なぜなら。
環境が安定しているから。
余裕があるから。
だから。
祝福できる。
マリーがミネルバを見る。
「幸せにしてくださいね」
ミネルバは少し驚き。
それから真っ直ぐ頷いた。
「はい」
ピーターは真っ赤だった。
カーラがニヤニヤしていた。
一方。
帰り道。
セレスは珍しく黙っていた。
隣にはフェルド・レイヴン。
夜風が静かだった。
フェルドが口を開く。
「疲れているか?」
「少し」
「宗教国家の件か?」
「半分」
セレスは苦笑した。
「馬鹿の相手って疲れるのよ」
フェルドは少し笑う。
「分かる」
「現実を見ない人間は厄介だ」
セレスは横を見る。
この男。
本当に理解が早い。
権威だけの貴族じゃない。
ちゃんと現実を見る。
だから話していて疲れない。
それは。
セレスにとってかなり珍しかった。
フェルドが静かに言う。
「君はいつ休んでる?」
「休んでるわよ」
「信用できないな」
「失礼ね」
セレスは笑った。
その瞬間。
少しだけ胸がざわつく。
気づいてしまう。
自分が。
この男を。
少し気にし始めていることに。
セレスは小さく息を吐いた。
面倒。
本当に。
面倒だった。
でも。
悪くなかった。
遠く。
学校の灯りが見える。
夜でも教師たちが働いている。
文字を教える。
計算を教える。
契約を教える。
未来を教える。
宗教国家はまだ抵抗している。
思想戦は終わっていない。
だが。
もう誰も怯えていなかった。
なぜなら。
知ってしまったからだ。
学ぶ方が強いと。




