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戦わずに世界を変えた男――教育と物流で“循環国家”を作ったら、宗教国家まで改革された  作者: 慈架太子


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232/322

230話:名前

冬の空気は冷たかった。


だが。


循環領の街には、もう“凍え”が存在しない。


炊き出しの煙ではなく、食堂の湯気が上がる。


痩せ細った子供ではなく、本を抱えた子供たちが走る。


農地は白く枯れていない。


温水水路。


土壌循環。


魔力灌漑。


農業革命によって、冬ですら畑は死ななくなっていた。


食料充足率300%超。


それは、単なる数字ではない。


飢えないということだ。


人が未来を考えられるということだ。


そして。


その変化の中心にあったのは。


文字だった。


「……書けた」


初老の男が震える手で紙を見つめる。


歪な文字。


幼い子供より下手な署名。


それでも。


男は泣いていた。


「俺の……名前だ……」


隣で教師が静かに頷く。


「はい。あなたの名前です」


男は何度も紙を撫でた。


まるで宝物を見るように。


かつて。


男は契約書を読めなかった。


借金証文も。


土地契約も。


税の計算も。


全部分からなかった。


だから騙された。


だから奪われた。


だから貧困から抜け出せなかった。


だが今。


自分で読める。


自分で書ける。


自分で理解できる。


それはつまり。


“他人任せじゃなくなる”


ということだった。


循環領中央学校。


夜間識字教室。


そこには子供だけではなく。


老人。


農民。


元奴隷。


元娼婦。


獣人。


魔族。


ドワーフ。


様々な人間がいた。


皆、必死だった。


若い教師が黒板に文字を書く。


『税』


『契約』


『収穫』


『利益』


『署名』


教室は静かだった。


誰も寝ない。


誰も文句を言わない。


知っているからだ。


これが。


人生を変えると。


「先生」


少女が手を挙げた。


「どうした?」


「この“契約違反”って言葉……前に商人が言ってました」


教師は頷く。


「意味は分かるか?」


少女は首を振る。


教師は説明した。


ゆっくり。


丁寧に。


誰でも分かるように。


その瞬間だった。


少女の顔色が変わる。


「……あ」


「どうした?」


「昔……お父さん……騙されてた……」


教室が静まり返る。


少女は唇を噛んだ。


「読めなかったから……」


教師は否定しない。


誤魔化さない。


ただ静かに言った。


「だから学ぶんだ」


「もう二度と奪われないために」


少女は泣きながら頷いた。


その頃。


帝国中央行政庁。


書類の山が消えていた。


昔では考えられない。


地方役人が自分で報告書を書ける。


数字を整理できる。


税計算ができる。


農地面積を測定できる。


識字率の上昇。


教育。


それが行政効率を異常な速度で変えていた。


若い官僚たちは疲弊しながらも笑っていた。


「怖いな……」


「何が?」


「人が賢くなる速度」


「分かる」


「数年前まで字も読めなかった連中が、今じゃ帳簿付けてる」


「しかも計算速い」


「農民の方が現場理解してるからな」


中央に座る男が静かに報告書を読む。


フェルド・レイヴン。


伯爵家次男。


若き官僚。


行政スキル覚醒者。


そして今は。


“大臣スキル”保持者。


帝国若手官僚の頂点。


彼は静かに紙を閉じた。


「北部穀倉地帯」


「はい」


「来年、収穫量さらに増える」


周囲が驚く。


「なぜ分かるんです?」


「識字率だ」


フェルドは即答した。


「文字が読める農民は強い」


「農具説明を理解する」


「土壌記録を残す」


「失敗が蓄積される」


「経験が共有される」


「つまり」


「文明化が始まる」


部下たちは沈黙した。


フェルドは続ける。


「今までは毎年同じ失敗を繰り返していた」


「理由は簡単だ」


「記録が残らなかったからだ」


彼の目は鋭かった。


「教育は慈善じゃない」


「国家基盤だ」


誰も否定できなかった。


なぜなら。


結果が出ている。


圧倒的に。


その日の仕事終わり。


フェルドは珍しく鏡を見ていた。


髪。


服。


襟。


周囲の官僚たちがざわつく。


「……誰かと会うんですか?」


「……ああ」


「女性?」


沈黙。


それが答えだった。


帝国官僚たちは騒然となる。


「嘘だろ!?」


「あのフェルド様が!?」


「仕事しか興味ないと思ってた!」


フェルドは本気で困っていた。


「うるさい」


「花は必要か?」


「絶対いります」


「高級酒は?」


「重いかもしれません」


「……難しいな」


周囲は笑いを堪えていた。


フェルドがここまで悩む。


それほど相手が特別だということだ。


循環領。


中央管理区。


セレスは書類を整理していた。


物流。


教育。


出生率。


識字率。


税。


農地。


全部見る。


全部理解する。


だから忙しい。


そこへ。


来客。


「……フェルド様?」


若い官僚たちを率いる男。


帝国でも有名な存在。


だが。


セレスは肩書で態度を変えない。


「どうしました?」


フェルドは少し黙った。


彼は戦場交渉もできる。


貴族会議も制圧できる。


皇帝とも対等に話す。


なのに。


今は緊張していた。


「食事に誘いたい」


直球だった。


セレスは瞬きをする。


「私を?」


「ああ」


「理由は?」


フェルドは迷わなかった。


「君と話したい」


「現実を理解している人間と」


セレスは少し目を細めた。


この男。


ちゃんと見ている。


権力。


肩書。


見た目。


そこじゃない。


“理解力”


を見ている。


だから少しだけ。


興味が湧いた。


「場所は?」


「カーラのレストラン」


セレスは吹き出した。


「みんなそこですね」


「悪いか?」


「いいえ」


セレスは立ち上がった。


「行きましょうか」


一方。


カーラのレストラン。


ピーターは死にそうだった。


「……」


「……」


ミネルバは優しく待っていた。


逃げない。


急かさない。


ただ見ている。


ピーターは拳を握った。


怖い。


ドラゴンより怖い。


エンシェントドラゴン五体の方がまだ楽だった。


でも。


逃げない。


グロマールに救われた日から。


ずっと決めていた。


いつか。


自分も誰かを支えられる人間になると。


ピーターは震える声で言った。


「ミネルバさん」


「はい」


「僕は……」


喉が詰まる。


でも。


止まらない。


「あなたが好きです」


ミネルバの目が揺れる。


ピーターは続けた。


「優しいところも」


「怒るところも」


「孤児を守るところも」


「絶対に間違いを見逃さないところも」


「全部好きです」


涙が滲む。


「僕は弱かった」


「今でも怖い」


「でも」


「あなたとなら」


「逃げずに生きていける」


ピーターは木箱を差し出した。


手作りだった。


不器用だった。


でも。


必死に作ったのが分かる。


「結婚してください」


静寂。


ミネルバは泣いていた。


静かに。


優しく。


「……はい」


ピーターの視界が滲む。


厨房でカーラが泣いていた。


マイクが号泣していた。


「うおおおおおお!!」


「ピーターおおおお!!」


うるさい。


ミネルバが笑う。


ピーターも笑った。


夜。


循環領。


学校の灯りが消えない。


文字を書く音。


本を読む声。


計算する音。


名前を書く音。


自分で署名できる。


それはつまり。


“自分の人生を、自分で選ぶ”


ということだった。


世界はもう。


戻れなかった。







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