229話:言葉
冬が終わる。
宗教国家東部。
かつて“文字禁止令”が出された地方都市。
その中央広場に、
今は巨大な黒板が立っていた。
そこには大きく文字が書かれている。
【本日の配給】
【小麦 二袋】
【病人優先】
【読み書き教室 夕方開催】
老人たちが立ち止まる。
子供たちが読む。
母親たちが確認する。
誰も驚かない。
もう。
文字は特別ではなくなっていた。
「識字率五十%突破」
その報告書を、
帝国皇帝は静かに見つめていた。
側近たちは息を呑む。
五十%。
異常な数字だった。
数年前まで、
この世界の識字率は:
貴族。
神官。
商人上層。
その程度。
民衆は読めなかった。
だから支配できた。
契約書も。
税も。
歴史も。
全部、
読めない側が損をする。
それが常識だった。
しかし今。
世界は変わった。
教師たちが広げた。
文字を。
知識を。
教育を。
そして。
“考える力”を。
皇帝は報告書を閉じる。
「……ここまで来たか」
静かな声。
隣にいたエバが頷く。
「はい」
「特に循環領とベルセリアが突出しています」
「帝国本土も急速に追従中です」
エバはもう完全に帝国中枢だった。
新婚。
しかし休んでいない。
物流管理。
教育予算。
学校税。
転移物流。
教師配置。
全部把握している。
その背後に、
ジミーの存在も大きい。
在庫。
流通。
原価。
相場。
弱者側のズルさ。
全部知っている。
だから強い。
皇帝は苦笑する。
「循環領の人材は本当に化け物だな」
本音だった。
グロマールだけではない。
ピーター。
セレス。
ミレナ。
ミネルバ。
マイク。
エバ。
教師たち。
誰もが成長している。
しかも。
教育によって。
ここが恐ろしい。
血筋ではない。
偶然でもない。
再現可能。
つまり。
文明だった。
「宗教国家は?」
皇帝が聞く。
エバは即答した。
「限界です」
短い。
だが十分だった。
「現場神官の離脱が加速しています」
「教師側へ寝返る者も増加」
「残っているのは……」
エバが少し言葉を選ぶ。
「頭の悪い司祭と枢機卿だけです」
側近たちが沈黙する。
しかし否定できなかった。
優秀な者ほど、
もう理解している。
止められないと。
文字を覚えた民は戻らない。
計算を覚えた農民も戻らない。
魔力循環を理解した子供も戻らない。
教育は、
もう根を張っていた。
宗教国家中央大神殿。
そこでは今も怒号が飛んでいた。
「文字教育を止めろ!」
「教師を捕まえろ!」
「異端を処刑しろ!」
老いた司祭が叫ぶ。
だが。
誰も動かない。
理由は単純。
人がいない。
神官が逃げた。
若者が入ってこない。
兵も減った。
農民も離反。
商人も逃亡。
教師側の方が、
給料も食事も安全もある。
当然だった。
しかも。
教師側は強い。
索敵。
拘束。
防衛。
連携。
教育。
全部ある。
神官側が襲撃しても、
捕縛されるだけ。
そして。
ピーターのところへ送られる。
それが恐怖だった。
再教育。
洗脳ではない。
暴力でもない。
ただ。
文字を教えられる。
算術を教えられる。
病を学ばされる。
農業を見せられる。
子供に感謝される。
それだけ。
それだけなのに。
戻ってきた者たちは、
もう神官側に戻れない。
世界を見てしまうから。
だから今。
宗教国家は、
静かに壊れていた。
一方。
循環領。
夜。
仕事を終えたリシェルが、
ようやく家へ戻る。
疲れていた。
本当に。
地下学校。
神官拘束。
避難誘導。
索敵網更新。
転移確認。
夜勤続き。
精神も削られる。
玄関を開ける。
すると。
巨大な影が立っていた。
拳神ドグラム。
山のような男。
かつて最前線で暴れた武人。
今は違う。
帰る場所を持つ男だった。
「おう」
短い声。
リシェルは、
その瞬間だけ索敵教師ではなくなる。
ふらふらと近づく。
そして。
無言で抱きついた。
ドグラムは少し驚く。
「……おい」
「んー……」
返事になっていない。
完全に疲れている。
ドグラムは苦笑した。
「また夜勤か」
リシェルは胸に顔を埋めたまま頷く。
「神官が来た」
「また?」
「うん」
「馬鹿ばっかり」
ドグラムが笑う。
豪快に。
「違ぇねぇ」
リシェルは少しだけ笑った。
ようやく。
力が抜ける。
外では強い。
冷静。
索敵教師。
だが。
家では違う。
ドグラムは頭を撫でる。
優しく。
「よくやった」
その言葉。
リシェルの肩が震えた。
誰にも見せない顔。
教師たちは皆、
強い。
強くなった。
しかし。
疲れないわけじゃない。
怖くないわけでもない。
死にたくない。
幸せになりたい。
一緒にいたい。
子供だって欲しい。
普通の生活だってしたい。
それでも。
止まれない。
止めたくない。
未来を見てしまったから。
リシェルが小さく呟く。
「ねぇ」
「ん?」
「子供たち、文字読めてた」
ドグラムは頷く。
「そうか」
「嬉しそうだった」
「だろうな」
リシェルは静かに目を閉じた。
今日。
また一つ世界が変わった。
誰も気づかないような小さな村で。
小さな子供が。
初めて文字を読んだ。
それだけ。
それだけなのに。
きっと。
もう戻れない。
世界は。
言葉を覚えてしまった。




