232話:流出
神殿国家ルーメシア。
巨大宗教国家。
かつて世界最大級の信仰国家と呼ばれたその国は、静かに崩れ始めていた。
崩壊ではない。
もっと恐ろしい。
“流出”だった。
人が消える。
優秀な人間から。
教師。
職人。
若い神官。
計算ができる者。
文字を読める者。
農業改善に気づいた者。
現実を理解した者。
順番に。
静かに。
消えていく。
誰も叫ばない。
革命も起きない。
暴動も起きない。
ただ。
いなくなる。
それが一番致命的だった。
ルーメシア中央神殿。
大聖堂会議室。
枢機卿たちは疲弊していた。
目の下の隈。
痩せた頬。
苛立ち。
怒鳴る気力すら減っている。
老枢機卿が資料を投げ捨てた。
「またか……」
「また教師流出か……!」
若い神官が震えながら答える。
「北部地区学校区、教師十六名消失」
「農業区技師二十三名」
「紡織職人十一名」
「治癒師七名」
空気が重い。
もう隠しきれない。
国が空洞化している。
枢機卿が呻く。
「なぜだ……」
「なぜ神を捨てる……!」
その時。
若い神官が小さく呟いた。
「……食えるからです」
静まり返る。
全員が彼を見る。
神官は俯いたまま続けた。
「文字を学べば」
「仕事がある」
「教導スキル保持者がいる学校へ行けば」
「家族が飢えない」
「病気も治る」
「子供も死ににくい」
「だから皆、行くんです」
誰も反論できなかった。
現実だった。
循環領。
帝国。
教育国家群。
そこでは。
人が死ににくい。
食料充足率三〇〇%超。
農業革命。
物流革命。
紡織産業。
治癒教育。
魔力教育。
そして。
識字。
世界が変わってしまった。
もはや。
“祈るだけ”
では生きられない。
帝国中央会議室。
セレスが報告書を読み終える。
「神殿国家ルーメシアから人材流出」
「本格化したわね」
マイクが椅子に座ったまま鼻を鳴らす。
「そりゃそうだろ」
「指導者がバカだからしょうがない」
誰も否定しなかった。
乱暴な言い方。
だが本質だった。
現実を見ない。
教育を拒否。
識字を拒否。
技術を拒否。
その結果。
若者が逃げる。
当然だった。
グロマールは書類を流し見る。
「神殿国家レヴァインの時と同じ対応」
短い。
だが十分だった。
全員理解する。
教育保護。
移民保護。
索敵教師による監視。
治安維持。
潜入工作対策。
全部既に経験済み。
セレスが静かに言う。
「索敵教師には苦労を掛けます」
その声には珍しく疲れが混じっていた。
索敵教師。
今や世界最重要職種の一つ。
風属性。
光属性。
探索特化。
広域索敵。
犯罪予測。
誘拐防止。
宗教側潜入確認。
学校護衛。
彼らがいるから。
秘密学校網は維持されている。
ピーターが資料を見る。
「睡眠時間が削られてる人も多いですね……」
「そうね」
セレスが頷く。
「特に夜勤組」
「最近は宗教側の嫌がらせが増えてる」
ミネルバが小さく眉を下げる。
「怪我人は?」
「今のところ軽傷だけ」
「事前索敵が機能してるから」
マイクが腕を組む。
「本当に強くなったな」
「教師が」
その言葉は重かった。
昔。
教師は弱かった。
守られる側だった。
だが今は違う。
教導スキル。
魔法教育。
身体強化。
索敵。
連携。
情報共有。
教師たちは。
既に国家防衛職だった。
しかも。
彼らは逃げない。
なぜなら。
知っているから。
教育が止まれば。
また世界が戻る。
貧困。
病。
文字を読めない世界。
契約で騙される世界。
だから。
命を懸ける。
それが今の教師だった。
その夜。
帝国北部。
秘密学校第三十二区。
地下教室。
灯りは小さい。
子供たちが静かに文字を書いていた。
教師リシェルが見回る。
「そこ、“火”の字、跳ねる」
「はい!」
子供たちの目は真剣だった。
学ぶことが嬉しい。
それが今の時代だった。
突然。
外で風が鳴る。
索敵教師が即座に反応した。
「止まれ」
全員静止。
空気が張り詰める。
索敵教師の目が閉じる。
風探索。
音探索。
気配。
魔力。
数秒後。
「……通り過ぎた」
全員が息を吐く。
教師たちは慣れていた。
もう何度も繰り返した。
神官側の妨害。
嫌がらせ。
脅迫。
放火未遂。
誘拐。
だが。
全部失敗している。
なぜなら。
教師側の方が優秀だから。
知識。
連携。
情報。
全部上だった。
リシェルが小さく笑う。
「授業再開」
子供たちがまた文字を書く。
その時。
小さな少女が呟いた。
「先生」
「なんで神官様たちは文字を嫌うの?」
教室が静まる。
リシェルは少し考えた。
それから。
優しく答える。
「怖いのよ」
「え?」
「人が考えるようになるのが」
子供たちは不思議そうだった。
リシェルは続ける。
「文字を覚えると」
「本を読める」
「契約を読める」
「計算できる」
「遠くのことを知れる」
「つまり」
「騙されにくくなる」
子供たちが黙る。
理解し始める。
リシェルは笑った。
「だから勉強しましょう」
「はい!」
声が重なる。
その瞬間。
索敵教師が少しだけ笑った。
守る価値がある。
そう思った。
帝国中央。
深夜。
セレスはまだ仕事をしていた。
書類。
移民計画。
学校建設。
教師配置。
宗教国家監視。
仕事は終わらない。
扉がノックされる。
「入れ」
フェルド・レイヴンだった。
大臣スキル保持者。
若き官僚トップ。
今では皇帝側近中枢。
フェルドは書類を置く。
「北部移民受け入れ案だ」
セレスが目を通す。
速い。
正確。
無駄が無い。
やはり優秀だった。
フェルドが静かに言う。
「休んでいないな」
「そっちもでしょ」
「まあな」
少し沈黙。
セレスが椅子にもたれる。
「……流出、止まらないわね」
フェルドは頷いた。
「止まらない」
「宗教国家側が自分で押し出してる」
セレスは苦笑する。
「本当に馬鹿」
「教育否定して国が持つわけないのに」
フェルドは窓の外を見る。
遠く。
学校灯りが見えた。
夜中でも。
教師たちが働いている。
「世界が変わったな」
フェルドが呟く。
セレスも窓を見る。
「あの人が始めたのよ」
グロマール。
英雄ではない。
王でもない。
支配者でもない。
ただ。
循環を始めた人。
教育。
農業。
物流。
治癒。
識字。
全部繋げた。
だから。
もう止まらない。
人は。
学んだ方へ流れる。
豊かな方へ流れる。
未来がある方へ流れる。
宗教国家ルーメシア。
その崩壊は。
戦争ではなかった。
もっと静かで。
もっと残酷だった。
誰も戦わない。
誰も叫ばない。
ただ。
優秀な人間から。
いなくなっていく。




