218話:エバ
帝国中央。
白亜宮。
若皇帝アレクシス・ヴァルディスは、巨大な窓から帝都を見下ろしていた。
朝。
煙突から煙が上がる。
市場が開く。
水路を清掃する作業員。
公衆浴場へ向かう老人たち。
石鹸を運ぶ荷馬車。
織布工場へ歩く女工。
教師に手を振る子供たち。
数年前の帝国では考えられない光景だった。
かつての帝都は。
巨大だった。
豊かだった。
だが。
腐っていた。
貴族は数字を誤魔化し。
役人は責任を押し付け。
民は病に倒れ。
下水は溢れ。
飲料水は濁っていた。
それでも。
誰も変えられなかった。
いや。
変え方を知らなかった。
アレクシスは静かに息を吐く。
「……環境か」
小さく呟く。
その時。
扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのはエバだった。
落ち着いた表情。
整えられた書類。
洗練された歩き方。
以前の彼女を知る者なら驚くだろう。
今のエバは。
完全に帝国官僚だった。
しかも。
若皇帝直属。
帝国中枢。
最重要側近の一人。
アレクシスが椅子に座る。
「報告を」
「はい」
エバが書類を広げる。
「帝国北部防衛都市グランゼル」
「寒冷地綿花の生産量が前年比二百三十七パーセント増加」
「紡織関連雇用は七倍」
「女性労働者の識字率は六割を突破しました」
アレクシスが静かに頷く。
「続けて」
「ベルセリアとの交易量増加により、北方街道沿いの商業都市が急成長しています」
「特に防寒具、包帯、タオル類が医療改革と連動」
「冬季病死率が大幅に減少」
「さらに」
エバが少しだけ笑う。
「ベル芋煮スープが流行しています」
アレクシスが吹き出した。
「そこまで来たか」
「はい」
「兵士食から一般家庭へ完全普及しました」
「特に子供の栄養状態改善が顕著です」
皇帝は静かに窓の外を見る。
帝国。
巨大国家。
人口。
兵力。
資源。
全てで循環領を圧倒している。
普通なら。
飲み込める。
支配できる。
そう思う。
だが。
無理だ。
アレクシスは知っていた。
理由は単純。
“質”が違う。
循環領の人間は。
全員が異常に優秀だった。
グロマール。
当然別格。
だが。
それだけではない。
ピーター。
弱者視点を持つ教師。
優しさで人を救う男。
マイク。
暴力ではなく現場感覚で組織を動かす男。
セレス。
国家全体を俯瞰できる現実担当。
ミネルバ。
人を安心させる治療院の中心。
ミレナ。
前に立つ覚悟を持つ剣士。
そして。
今目の前にいるエバ。
元々は普通の娘だった。
特別な血筋ではない。
貴族でもない。
英雄でもない。
だが。
今の彼女は。
帝国上級官僚すら圧倒する。
アレクシスが静かに言う。
「お前たちは本当に優秀だな」
エバが首を傾げる。
「私たちですか?」
「そうだ」
「循環領の連中全員だ」
「帝国は人員数なら勝っている」
「学者も」
「兵士も」
「官僚も」
「貴族も多い」
「だが」
そこで一度言葉を切る。
「質で負けている」
エバは少し困ったように笑った。
「それは環境です」
即答だった。
アレクシスが目を細める。
エバは続ける。
「循環領では」
「失敗しても見捨てられません」
「だから挑戦できます」
「教育があります」
「だから成長できます」
「役割があります」
「だから自分を捨てません」
静かな声。
でも。
確信があった。
「昔の私は」
「こんな場所で働くなんて考えたこともありませんでした」
「怖かったですし」
「自信もありませんでした」
「でも」
エバが少し笑う。
「ジミーがいたので」
アレクシスも笑う。
「新婚だったな」
エバの顔が少し赤くなる。
「はい……」
皇帝はその姿を穏やかに見ていた。
帝国貴族社会では。
結婚は契約。
政治。
家柄。
利権。
そういうものだった。
でも。
循環領の結婚は違う。
支え合いだった。
生活だった。
未来だった。
子供だった。
だから強い。
アレクシスは最近。
その意味を理解し始めていた。
国家を維持するのは。
兵士だけではない。
家族。
教育。
食事。
衛生。
安心。
そういう“日常”だった。
エバが次の書類を開く。
「教師数ですが」
「帝国全域で四千三百二十七人を突破」
「うち教導スキル覚醒者は七百八十二人」
「転移覚醒者は八十六人です」
アレクシスが驚く。
「増えたな」
「はい」
「特に最近生まれた第二世代が顕著です」
「幼少期から教育を受けていますので」
「魔力循環の理解速度が異常です」
アレクシスは目を閉じる。
本当に。
世界が変わっている。
しかも。
戦争で変わったのではない。
教育。
食料。
衛生。
物流。
家庭。
教師。
そこから変わった。
グロマールは。
王ではない。
皇帝でもない。
英雄ですらない。
なのに。
世界を変えた。
理由は単純だった。
人を育てたからだ。
その時。
扉が再び開いた。
「失礼しまーす」
軽い声。
ジミーだった。
大量の書類を抱えている。
エバが呆れる。
「ノックしてください」
「したぞ?」
「してません」
「気持ちではした」
「意味が分かりません」
アレクシスが笑う。
本当に。
不思議な男だ。
軽い。
調子がいい。
少しズルい。
でも。
仕事は異常にできる。
物流。
在庫。
相場。
利益。
全部読む。
しかも。
人を見る。
弱者のズルさを理解しているから。
悪徳商人の思考も読める。
ジミーが書類を置く。
「皇帝陛下」
「北方物流路、来月には完全安定する」
「転移覚醒者増えたおかげで輸送事故も減った」
「あと」
「ベルセリアの酒が売れすぎてる」
アレクシスが苦笑する。
「またか」
「まただ」
ジミーが笑う。
エバも少し笑う。
二人の空気は自然だった。
夫婦。
それが分かる。
アレクシスは静かに思う。
これが。
循環領の強さだ。
特別な血筋ではない。
神に選ばれたわけでもない。
教育。
役割。
支え合い。
その積み重ね。
それだけで。
普通の人間が。
国家を支える存在になる。
皇帝は窓の外を見る。
帝都。
巨大国家。
その向こう。
循環領。
ベルセリア。
世界が繋がっている。
転移覚醒者。
教師。
物流。
家族。
文明が。
複製され始めていた。
そしてアレクシス・ヴァルディスは確信していた。
この流れは。
もう誰にも止められない。




